皇太女エリザベート
六月に入ると帝国海軍は来たるべき侵攻計画——秘匿名称”赤”に向けて準備が急ピッチで進行していった。
作戦計画は極秘であり、最上級の機密である。計画を知る人数は極限まで絞られた。
戦闘序列が内示されたのは六月十日の事である。連邦を守る五つの要塞全てを攻略するため、五万隻を超える主力艦を中核とした主力艦隊たる艦隊総軍は第一から第五までの五つの“軍”に分割され、それぞれに二から三個の軍団が割り当てられた。軍団はそれぞれ三から五個の師団で編成され、他に海軍歩兵を満載した上陸作戦部隊や後方支援部隊が配属される。
戦闘艦艇三十万隻以上、戦闘支援及び輸送艦艇二十万隻以上、参加将兵一億人以上。この規模の軍勢を遅漏無く運用するには周到な行軍と補給の計画が必要となる。それを担うのは参謀本部兵站部であり、極秘裏に海軍兵站総監部へと改組されて計画の準備に当たっていた。
「作戦の成否は連邦軍の主力艦隊の動員より前に要塞に防衛設備を運び込む事で決まる」
ある会議の場で兵站課長キンツェル課長はそう発言した。
賛同のしるしに数名の尉官や佐官が頷く。
「しかし要塞の攻略が長引くようなら、そのような準備は補給線を混乱させるだけです」
ひときわ凛とした口調で言い放ったのはエルヴィン・フォン・シューラー中佐である。角張った声に対して数人の将校が咎めるような視線を向けたが、一座の中でも一際若い黄金色の髪の中佐は意に介していないようだった。
「攻略の予定日数は十日だ。それだけなら補修資材や防衛設備の補充が補給線を圧迫することはない」
キンツェル少将が眉根を寄せながら応じた。
「十日で必ず陥落させられる保証があるのですか」
誰目に見てもそれは放言であった。室内の気圧が急低下していたとしても、それはこの金髪の青年中佐にとって意に介する類のものではない。居住する精神世界が違うのだから、この男にそのような洞察力を求めても無意味というものだった。
「貴官は情報部と作戦部の文書には目を通していないのかね」
口を開いたのはエルヴィンの直属の上司に当たる兵站課第二班長フォン・リーデンス大佐である。
「無論見ております。ですが——」
「ならばこれ以上の議論は必要あるまい」
ぴしゃりと言い放ち、キンツェル少将は瞬時にエルヴィンから視線をずらした。
「既に作成された補給計画の原案には要塞の補修資材の納入に必要な輸送艦が算出されていない。第三班の方で進めておけ」
もし聞く者がいなければ、エルヴィンは舌打ちと共に机を叩きつけていただろう。
キンツェルの言及した原案こそ彼が立案したものであるが、それを課長は無視して改案を指示したのである。要塞攻略などとても不可能と考えていたエルヴィンは、戦線維持のための艦隊への補給物資のみを計画していた。
補給艦の数には限りがあり、航路管制の能力も限界がある。ただでさえ艦隊総軍のほぼ全軍を動かすような作戦であるのに、この上余計な補給物資を増やして前線が混乱することは避けられない。
だがもはや会議はエルヴィン抜きで進行している。彼がこれ以上この場所でできることは何もなかった。
皇帝ヨーゼフ二世にはかつて二人の皇太子がいた。
兄ハインリヒと弟フリードリヒの両名であり、現在は共に故人である。
ハインリヒ皇太子には長子リチャードがいたが、テロによって男子の皇位継承者の兄弟とリチャード皇孫が全員死亡したのだった。この悲劇によりヨーゼフ二世の血筋を受け継ぐ皇位継承者はただ一人に絞られることになる。
それが第二皇子であったハインリヒの遺児にしてヨーゼフ二世の孫に当たる現在の皇太女エリザベートであり、二八歳の才女であった。男系優先の銀河帝国にあっても唯一の皇位継承者であり、現在八二歳の皇帝が崩御すれば自動的に第十一代皇帝に即位する事が定まっている。
皇太女が住まうのは惑星ブラウメンの長い冬の間皇帝一家が避暑のために用いる”冬宮”と呼ばれる宮殿であり、シュティーアから赤道方向に千キロほど離れた低地地帯の中に位置する。警備は万全であるがそもそも周囲に人の居住がほぼ無いことから、風光明媚で自然豊かな宮殿であった。
皇太女エリザベートは一年を通じてこの冬宮に住まい、年に数度公務のために帝都へと向かう以外この宮殿の壁の中で過ごしている。そのために政治に携わることもほぼ無く、彼女自身が何らかの政治的な動きを見せたこともなかった。それは有力貴族たちにとっては余計な宮廷騒動が回避されるため歓迎されると共に、将来の為政者としての資質が分からず不安を抱く要素でもある。
フロイド・フォン・ヴァイス国家保安省保安総局長が週に一度必ずここを訪れることは公然と知られたことではない。自分が他者の弱味を握る策謀家であるだけに自身の足がつくような真似は決してしないから、毎度の訪問は事実上極秘と言っても良かった。
ヴァイスがエリザベートと対面するのは無論ながら茶飲み話に花を咲かせるためではない。次の統治者とパイプを築きたいヴァイスの政治工作であった。
「そう言えば軍の状況ですが、いよいよ再度の侵攻に及ぶようですな」
この日ティーカップの湯気を顎に当てながらヴァイスが話題に出したのは軍や政府の最高幹部のみが知り得る情報であった。紳士然とした彼の温厚な語り草は、まるで一国の最高機密を喋っているようには見えないが、本来なら一局長に過ぎない彼も知っている筈のない情報である。
「私は聞いたことが無かった」
自嘲的に笑うエリザベートは肩の辺りで切り揃えた豪奢な錦糸のような金色の髪と、陽光の下で煌めく海のような明るい青の瞳を持つ、活発な印象を受ける美人であった。若々しい快活さと明朗さを備えた女性で、一見で次代の皇帝だと見抜くのが困難なほどである。
「選帝侯はどうも殿下を排除して政治を進めたいらしいようで」
笑みを消した皇太女のカップを持つ手に力が入ったようにヴァイスには見えた。
「爺上が崩御すれば私が皇帝に即位する他無い。それを知りながらどうして私を排除したがる」
「選帝侯らの権力を保持するためでしょうな。このままでは殿下が即位されても政治は五公らの思いの儘。彼らの権力の牙城を崩さねばなりません」
「爺上も選帝侯の傀儡になっていると言うのか」
鉱物的な口調の問いにヴァイスは鷹揚に頷いた。
「最近では陛下も体調が思わしくなく、実権は属僚共に握られつつあります。しかし国務卿たちではとても選帝侯の権威に抗うことなどできず、彼らの国政の壟断を眺める他ない状況です」
「それで、卿はどうすべきだと考えているか聞いてみたいな」
一足飛びに回答を求めた皇太女に、ヴァイスは秘密警察の元締めとは思えぬ微笑で応じた。
「彼ら選帝侯は殿下の才覚を知りません。あるいは知って恐れているか、何れにせよ殿下の即位後あらゆる手を使いその権力を削ぎ落としにかかるでしょうな」
「だがとてもそれと対抗する力は皇帝にはない」
「仰る通り。ましてや殿下御自ら五公と対決しては御身が危険となりかねますまい」
終始昔話をするように穏やかなヴァイスの口ぶりは相手を納得させる何かがあり、利発で活動的な皇太女がヴァイスの話は割り込まず聞き入っていた。
「ならば、宰相を置くが良いでしょう。統治上の責任を宰相に持たせることで、皇帝陛下の権威の下国政を運営しつつも仮に五公の反発があってもそれは陛下への反発とはなり得ない。無論建前としての話ですが」
その言葉に皇太女が声を上げて嗤った。グラスの氷をかき回すような笑いだった。
「卿がその職位に就きたいと言う魂胆か」
表情一つ変えず微笑を湛えたままにヴァイスはゆっくりと首を横に振った。
「私のような者では選帝侯はおろか閣議すら抑えられますまい。差し当たりは内務卿マルクス伯であれば政官界からの信望篤く適任かと思われますが」
「悪名高き保安総局長ともあろう者が、意外に恭倹だな」
「お戯れを。自身の器は弁えております」
その返答を一笑に付して皇太女は暫く口をつけなかったままのカップを皿に戻した。
「卿の案も一考に値する。どのみち老いぼれの選帝侯連中は私を快く思わないだろうからな」
返答を避けてヴァイスは空のカップを机に置くと、洗練された動作で腰を持ち上げた。
「殿下にご一考を賜れば幸いです。さて私はまだ仕事がございますから」
それを止める素振りを見せず、皇太女は空色の目で保安総局長を見据えた。
「卿が色々と話しに来てくれるから私も帝都の現況が知れて良い。今下手に動いて藪蛇を出したくないからな」
「宮廷では五体の蛇共がとぐろを巻いております。殿下がここを動かれないのは賢明ですな」
そう答えてスーツの裾を伸ばし、ソファの山高帽を手に取る。
「卿はその蛇を討ち取る
「相討ちとは相成りたくありませんな」
冗談めかして応じ、白髪混じりの秘密警察局長は踵を返した。
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