組織の論理

 西暦二五七二年五月二三日。

 いつも通り海軍参謀本部に出勤したエルヴィン・フォン・シューラー中佐は、キンツェル兵站課長に呼び出された。

 「クロージク中将がお呼びだ」

 兵站部長フォン・クロージク中将。エルヴィンにとって見れば第二班長リーデンス大佐、兵站課長キンツェル少将の上に立つ上司の上司の上司と言うべき相手で、当然ほとんど接点はないに等しい。その兵站部長から直々のお声掛かりと言うのは並大抵の話でないことは確かだった。

 「ご要件は」

 「少なくとも茶飲み話では無いだろうな」

 それはジョークのつもりであっただろうが、エルヴィンは一切目に見えた反応を見せなかった。

 一礼し課長の前を辞去して兵站課のオフィスを離れ、隣の兵站部長執務室に向かう。兵站部は海軍参謀本部の書記・作戦・兵站・教練・情報・軍備の六部の一角を担い、戦時における補給計画を立案し、戦時は海軍兵站総監部へと改組されて実施調整を担当する部署だった。

 その長がフォン・クロージク中将であり、痩身に短く刈り上げた髪に切れ長の目を覆うエルヴィン同様の丸眼鏡と、有能な軍官僚と言う印象を与える風貌だった。

 入室したエルヴィンの敬礼に答礼し、クロージクは束になった書類を差し出した。

 「こちらは?」

 「これから言う事は全て部外秘の軍事機密だ」

 エルヴィンの疑問に答えること無くクロージクは言い放った。

 「七月末日を期して連邦領に侵攻する」

 その情報はエルヴィンにとって驚愕に値するものではなかった。人類社会に存在する勢力が二つのみであると言う時、どちらかがどちらかを完全に屈服させ併呑するまで争いが止まることはない。例え不可侵条約を締結してもその履行を監視する第三者が存在しない以上紙切れ以上の価値を持たないのである。

 帝国が連邦に侵攻するなどと言う未来図に驚くべき何物もない。既にエルヴィンの脳裏を占めるのはいつどのように実行されるのかと言う実務上の疑問点だった。

 「小官に補給計画を立案せよと」

 エルヴィンの頭の回転の速さは全ての話の過程を超越して結論を言い当てるに十分なものだった。無論、筋道立てて話そうとしていた側にとってそのように話の腰を折られて愉快な筈がない。

 「そうだ。艦隊を分け国境部の五つの要塞を突破する。貴官にはその全部隊への補給計画を立てて貰いたい」

 極めて事務的にクロージクは述べ上げたが、エルヴィンには見過ごせない示唆が含まれていた。

 「兵力を五分するのでありますか」

 「そうだ。所与の輸送艦を振り分け必要な物資を割り当てろ」

 「いえ閣下、その作戦計画は愚策に過ぎます」

 あまりに直接的な物言いに、一瞬中将は両目を見開いてこの金髪の青年士官を見つめた。理性の回復とともに脳内で言葉が紡がれ、目つきが険しくなる。

 「…シューラー中佐、言葉を慎みたまえ」

 三階級上の相手に凄まれてもエルヴィンの湧いて出た闘志が衰えることはなかった。むしろ眼鏡の奥ではめ込まれたルビーのように紅く光る瞳が、内心の生命力の煌めきを放出する。例え上官であっても直言する率直さと傲慢さを持ち合わせた青年に、ここで引き下がる気などさらさらない。

 「しかし、連邦軍より劣る国力の我が軍がさらに兵力を分散させて国境要塞を攻撃すれば、手こずる間に連邦軍の本隊による逆激を受けることとなります」

 早口で捲し立てる青年を相手に、煩わしげに中将は右手を振った。

 「私は貴官と戦略を論じる気など無い。命令に従いたまえ」

 「ですが、このような兵力分散は連邦に反撃のための時間を与えるようなものです」

 もしエルヴィンが組織内での栄達と身の保身ばかりに汲々とする軍官僚であればとてもこのような発言をしなかったに違いない。だが彼はそのような不誠実を己に許すような人間ではなかった。

 「中佐……」

 「それよりも要塞は少数の師団での包囲に留め、主力で迅速に敵中枢を衝くのが」

 「中佐!」

 怒号と共に中将は拳で机を叩きつけた。自分が言い過ぎた事に初めて気づいたエルヴィンは、反射的にそのサーベルのようにすらりとした身体を硬直させ、口を噤んだ。

 「貴様のような若造に作戦計画への口出しが許されると思うな」

 それは中将の明確な本音だった。この若さにして中佐まで昇進した生意気な青年が作戦部の立案した大戦略に容喙するなど、到底許容され得る事態ではない。それが組織の論理であった。

 「……」

 両唇を噛む金髪の青年の姿は到底納得していない事を示していたが、ここまで言われてなお諫言する愚を悟ってもいた。自分自身の軽率さに対する羞恥心も相まって紅潮した顔で立ち尽くす。

 「貴官が命令に不服従だというのなら、その職権を取り上げるまでだ。どうする」

 睨みつけるクロージクの視線に妥協を許す色などない。誰目に見てもあかい顔のままに、エルヴィンは返す言葉を見失って立ち竦んでいた。

 「どうする!」

 平手打ちのようにクロージクの怒鳴り声がエルヴィンの鼓膜を叩く。反射的にエルヴィンは頭を下げ、歯の奥から軋むような声を絞り出した。

 「……ご命令、謹んでお受けいたします」

 その青年の姿にもはや中将は拘泥せず、右手を挙げて退出を促した。

 

 活火山で脈動する溶岩のような内心を胸郭の内側に抱えたまま、金色の髪の青年は兵站課まで戻ってきた。例によって同僚の誰一人とも言葉を交わすことなく自分の席に腰を下ろす。

 中将が何と言おうとエルヴィンの内心の結論は一つしか無い。

 この連邦への侵攻計画は必ず失敗する。彼のしなやかで白い手の中でクロージクから渡された資料を捲る毎に、その思いの斜度は増々深くなっていった。

 連邦全軍に比べ数の劣る帝国軍が五つの要塞に兵力を分散させて全て攻略するなど不可能に決まっている。兵力を一箇所に集中して迅速に陥落させ、そこを足掛かりに国力に勝る敵が態勢を整えるまでに首都ティアマトに向けて侵攻するべきだ。

 だが彼が何を言ったところで上層部が聞き入れる訳がない。クロージクの態度からしてエルヴィンの献策を受け入れる気など無いことは明白だった。エルヴィンが二六歳にしてその英才の誉れ高き海軍中佐であったとしても一人で帝国海軍の大戦略を覆すなど不可能である。エルヴィンもその程度のことは分かりきっていたが、あの場面では言わずにはいられなかった。

 書類を机に置き、手に取った黒縁の眼鏡を弄びながら黄金色の髪の青年の頭脳は急回転している。

 今彼に課せられた任務は、彼にとっては必ず失敗すると分かりきっている作戦のために物資補給の準備をしなければならないと言うものである。それはこの直情的な青年にとっては容易に受け入れられるものではない。感情に反する事を粛々とやり遂げられるほどエルヴィンの精神は成熟していなかった。

 既にエルヴィンの脳内には必要な物資の量や中間倉庫となる兵站基地の位置、輸送艦の割当量などのデータが浮かび上がり、点が線で結ばれて立体像を形成しつつあったが、それを具体的な成果物に落とし込むだけの気力はまだ彼には与えられていない。

 だが――

 エルヴィンは首を振って鬱積した思考の履歴を脳から追い払った。五秒かけて息を吸い、吐き出す。自分が加熱・・しすぎた事に気づいた時の、エルヴィンなりの冷却法・・・である。彼はクロージクと話していたときから沸騰・・しっぱなしだった。

 もし侵攻の初手で躓けばエルヴィンに活躍の機会が回ってくるじゃないか。成功してしまえばエルヴィンにお鉢が回ってくることも無い。

 このような無為な兵力分散を熱心に主張したい者にはそうさせておけば良い。自分の無能を後で悔いることになるだけだ。

 差し当たり俺は自分の職責を誰の文句もないほど完璧にこなすのだ。俺の実力を再確認させる事に不利益は無いはずだった。それが次のチャンスを生み出すかもしれないじゃないか。

 書類を手に席を立つ。人の多いオフィスではとても集中できたものではない。一人で作業するための部屋が参謀本部庁舎にはいくつも設けられていた。

 今日は徹夜になるかもしれないな。あいつが嫌がるだろう。

 そう思い、兵站課の扉を開けながら家に居候する女の姿を思い浮かべた。その姿はぼやけ、どうも像が結ばない。それほど興味を無くしている自分に初めてエルヴィンは気付かされた。

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