鐘の音 14 エピローグ「Y」

 春の降り注ぐ日差しを曇り空が遮りだしたのは昼過ぎだった。

 その曇り空も夕方には霧雨に変わり、大学構内に咲き始めた桜が冷たい水の粒子をまとう。


 彼女は傘もささずに構内のベンチに座っていた。

 入学したばかりの僕が、初めて彼女を見た日だった。

 何か思いつめたような表情でうつむく姿に、声をかけることが躊躇ためらわれた。

 霧雨が通り過ぎ、時計塔の鐘の音が夜7時を告げた。

 彼女は鐘の音に合わせるようにその場を立ち去る。


 何故、雨の中あんなところに居続けたのだろう。

 誰かを待っていたのだろうか。

 僕はそれが気になって仕方がなかった。


 次に彼女を見かけたのは、それから数日後。

 その日は、雨は降っておらず快晴であった。


 彼女は以前と同じベンチに座っている。

 街灯に照らし出される彼女は小柄で、綺麗な黒髪を肩まで伸ばし、丸い眼鏡をかけた姿は文学者のようだ。

 おそらく僕より年齢はずっと上だろう。

 僕が見ていることに気づくこともなく、悲しげな表情で、ときおりため息を吐く様子は儚げに見えた。


 彼女は時計塔の鐘の音とともに去っていった。


 その後も彼女を見かける機会があった。

 時刻も場所もいつも同じだ。

 たぶん彼女は毎日この時間に、この場所にいるのだろう。


 曇り空のある日、僕は彼女に話しかけることにした。

 それは僕にとって、とても勇気が必要な行為だった。

 なるべく明るく、できる限りの笑顔で。

 彼女は最初、戸惑っていたけれど、不思議と拒絶はされなかった。

 僕は、痛々しいほどに痛い奴だったと思うけれど。


 それから僕は毎日このベンチで彼女と会う。

 とりとめのないことを話し合ったり、ただ横で読書をしたりと。

 彼女に「暗いところで本を読むと目が悪くなるよ」と言われたけど、僕が「それは昔の話で、どうやら悪くならないらしいですよ」と返すと、「生意気ね」と怒られた。


 彼女は夜7時の鐘が鳴ると帰って行く。

 また明日と、僕もまた明日と返す。

 未だ、彼女の抱えている問題に僕は触れていない。

 自分の秘密も話せていないのだから。


 もう一度、勇気が欲しい。


 僕は彼女を正しく死なせたい。

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