鐘の音 12
黒蛸が放った亡霊たちが塵になったと同時に、当の黒蛸は闇に紛れ、天井の大穴より屋根の上へと、まんまと逃げおおせた。
ただし、ものの数秒で亡霊たちが片づけられるとは思っていなかったため、あの男への恐怖心が増すことになったのだが、それはあまり意味のないことになる。
このまま林に入り、山まで逃げれば問題ないだろう。
そう考えて移動し始めた時、黒蛸は背後に何者かの気配を感じた。
「おやおや、随分と慌てているようだけど、何かあったのかな?」
それは涼やかな、艶っぽい女性の声で、およそ真夜中の廃工場の屋根の上で聞くような台詞ではなかった。
黒蛸は最初、気配を感じた時、あのふざけた兎耳の男に見つかってしまったのかと肝を冷やしたが、振り返れば、そこには和装に黒いケープを纏った、黒髪の美女が微笑みを浮かべ立っていた。
神に見捨てられたこと、強者への恐怖心、この二つが黒蛸の判断力を鈍らせていた。
いや、それよりも遥かにずっと前から、彼の判断力は鈍らされていたのかもしれなかった。
月明かりに照らされる女に強烈な食欲を感じた黒蛸は、迷わず捕食のために襲い掛かる。
二本の触手を伸ばし、捕らえたら手早く取り込む。
本当はゆっくりと悲鳴を聞きながら吸収したかったのだが仕方がない。
そう考える黒蛸は、女の妖艶な口元にわずかな笑みが浮かんでいることに気づかない。
二本の触手が女を捕らえた。
そして自分のもとに引き寄せようとするが、手応えがなかった。
黒蛸が何故と思うと同時に触手から強烈な痛みが走る。
触手は二本とも、根本から寸分たがわず細切れにされ、ぼたぼたと屋根の上に転がる。
――――何をされた!?
煙をあげ、自分の体に戻ってくる触手に驚愕し、女を見ると、寒気のする笑みを浮かべたまま一歩ずつ近づいてくる。
女の背後には弧を描く尻尾のような刃物が揺らいでいる。
「そうか、そうやって君は再生するんだ。それは、ちと厄介」
ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、ヤバイヤバイヤバイヤバイ!! 黒蛸の中で警報が鳴り響く。
この女「人間じゃない」……だが、異常事態に気づくには遅すぎた。
「ではダイナミックに、そしてエレガントに刻むことにしようか」
――――何故だぁあああー!!
黒蛸の持てるすべての力を触手に込めて、女を攻撃する。
十数本の触手が一斉に女に届いたと見えたその時、女は群がる餓えた獣のような触手の束をヒョイと飛び越えると、そのまま黒蛸本体をも越えた。
女が飛び越える際に、キンッと風鈴の音色を思わせるような金属音が数度鳴っていた。
伸びきった触手もそのままで、黒蛸は固まったように動かなかった。
そして、しばしの静寂の後、黒蛸の背後に立つ女が振り返る。
下等生物を見下すような女の眼は、恐ろしいほどの冷気を放っていた。
口元の微笑みをたたえたまま、唇は音色を奏でる。
「ふふ、残念だったね……おやすみ」
女の言い終わりを待ったかのように、黒蛸の全身にピシッと賽の目状の線が現れる。
振り向く黒蛸の視界にズレが生じ、目に映る女の姿が上下に割れる。
それは視界のみにあらず、バランスが乱れた黒蛸の体は一気に崩壊し、
崩壊した黒蛸の体から、コン、コンコンコンと子供の拳大ほどの「黒い球」が落下し屋根を転がる。
女はそれを拾い、月明りにかざし、珍しそうに目を細めた。
「ふむ、こいつは……何だろうね? ドロップアイテムというやつかな? ……ふふ、テッテレー♪ アヤはレベルが上がったぞ」
鼻歌まじりで「黒い球」を懐にしまう。
黒蛸であった肉片に再生の兆しはなかった。
それどころか、それぞれが淡く、ほのかに青い光の粒子となって天へ上ってゆく。
青く輝く光の粒子の中に佇むアヤの姿は、神話の中の女神のようであった。
そのような中で、屋根の穴から、半人半妖の馨が飛び出してくると、アヤを見て着地と同時に舌打ちした。
「これは、これは、アヤさん、随分と遅かったじゃないですか」
馨の嫌味に動じた様子もなく、悪びれることもない。
「これは、これは、兎の王子様、ワシは随分と出遅れてしまったようだ……が、
と、
「しかしなぁ、魔人に
「誰が、師匠だ。それにお前も変化してるじゃねえか」
「これは、変化ではないぞ馨。元の姿に戻っただけさ」
誇らしげに胸を張るアヤだったが、ボンッという音と煙とともに10歳の少女の姿に戻る。
「……あぁ、残念、時間切れだ。ちなみに訂正するが、10歳の美少女だな」
シュルシュルと衣類が縮み、現在のボディサイズに調整されてゆく中、アヤは虚空に向かって苦言を呈した。
「誰に言ってんだよ……」
「天に、だよ。ところで馨、お前の魔人化は自力かい?」
調整された衣類を整えながら聞く。
「ああ、ちいと無理してな」
言うや否や、馨もボンッという音と煙とともに人間の姿に戻る。
「こっちもリミットだ、狂い神にはなりたくねえ。にしても大人アヤでよ、ここまで来るのに時間がかかりすぎじゃねえか?」
やや咎めるような口調の馨を横目で一瞥し、大穴から工場内に飛び降りた。
馨も後を追うように工場内に降りる。
「それがね、道中で変な奴に襲われてね」
街中で偶然、知り合いと出会ったと言うような軽い口調に、思わず「へえ」と聞き流しそうになった馨は、慌てて聞き返す。
「襲われたって!? 誰にだよ」
「聞いて驚け、怪力少女だ」
「はい?」
「お前たちのもとに向かう途中、木々の中から飛び出してきてね。いいのを一撃もらってしまった。不意を突かれたとはいえ、樹木を何本も折るほどに吹き飛ばされたよ」
馨は、大人状態のアヤを相手に「不意を突く」難しさを知っているだけに、ごくりとつばを呑んだ。
「おいおい、それで大丈夫だったのかよ?」
「馬鹿だね、お前は。大丈夫だからワシはここにいるんだよ」
アヤは呆れた表情を浮かべて腕を組み、自分のあご先に指をあてて続きを語った。
「怪力少女は、北欧系の顔立ちの美少女でね、もちろんワシの方が可愛いのだがね。語尾が『なのです』となかなかに面白い奴だった。語尾が気になりすぎて、ワシは奴が何を言っていたのか、何一つ覚えていない」
「お前な……」
「それと体中、縫い目だらけだったな。何らかの妖怪だと思うのだけど、ワシの知らない妖怪だね……まぁ、バラバラにしてきたから、もう会うこともないけどね」
「バラバラか……それ、生け捕りの方が良かったんじゃねえか?」
「しかしね馨、お前は急いでいる時に、いきなり殴り飛ばされたうえ、訳の分からんこと言って足止めしてくるような輩が現れたら、どうする?」
「殺す」
「だよね」
こちら側にも裏で糸を引くような奴がいた。
何か分かる前に焼却してしまった手前、アヤを責めるわけにもいかないかと、馨は悠と合流することにした。
「そういや、こっちにも喋る触手がいたぜ」
「何だいそれ、気持ち悪いな」
「ああ、しかも女の顔なのに声は男だった」
「何だいそれ、面白いね」
悠は壁にもたれて眠っていた。というよりは気を失っていた。
命に別状はなさそうではあったが、黒蛸のような、ある意味「呪物」に触れた影響は何があるかわからない。
とくに右腕に刻まれた呪痕とも思われる痣は、しかるべき者に見せた方が良いだろうと、馨は悠を背負い、廃工場を後にする。
もう、ここには何もない。
葵という女を苦しめた悪霊も、亡霊たちの残滓も、裏にいるであろう何者かたちも。
残ったのは、馨と悠の悔いだけであった。
廃工場から県道までの私道を黙々と二人は歩く。
私道というよりは林道といった道であった。
時折、背中で呻く悠を気にするが、目を覚ます気配はない。
「こいつ、タフだよな」
独り言のように馨が言う。
「人間にしておくにはもったいないほどにね」
独り言のようにアヤが返す。
「人間じゃねえのかもな」
「ワシらのように化物かもしれないと?」
「いや、こいつは人間だよ。立派な人間だ」
「でもね馨、人間なんてみんな化物だよ」
それきり、月明りのもと二人は黙々と歩いた。
私道が終わり、県道にさしかかったところで1台のワンボックスカーが停車していた。
それは、彼らを心配した睦によるものだった。
馨とアヤを確認し降車して来た睦は、背負われている悠を見て口元に手を当てる。
「古本屋さん、悠くんは……大丈夫なの?」
睦に古本屋と呼ばれた馨は、気を失っているだけだが、教授に見せたほうが言いと伝える。
「分かった。みんな乗って」
睦に促され、一行は車両に乗り込む。
深夜の県道、車内は走行音のみが響く。
不意に馨が声を上げた。
「あっ!!」
「どうしたの?」
「赤兎馬号(ママチャリ)……」
睦の碧い目にミラー越しの馨が映る。
「いや……何でもない」
悠の頭を膝に乗せているアヤがクスクス笑う。
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