鐘の音 11

 ジュウジュウと煙を上げる触手の欠片は、黒く焦げた場所から塵になり、そして消えた。

 臭ぇなと舌打ちし、顔をしかめる馨は、ところどころ負傷しているが、黒蛸の強打をまともに受け、10m以上の高さから落下したとは思えないほどであった。


「すまねぇ、不覚にも気ぃ失ってた」


 馨は、触手の欠片の焦げ跡をじっと見たまま、茫然自失の体となっている悠に気づき、肩を揺すり呼びかける。


「悠ッ!! おい、大丈夫か」


 虚ろだった悠の目にうっすらと光が戻る。

 すぐ傍に黒蛸がいるが、停止した機械のように動く様子はなかった。何より、黒蛸と融合していた女が消えていることが気になるが、馨は悠の保護を優先した。


「あ……馨くん、良かった……本当に、良かった」


「何が、あったんだ?」


 馨から視線を外し、俯いた悠の瞳に陰が差す。


「僕は……軽く考えていた。愚かだった……僕は、ただ葵さんに、安らかに眠って欲しいと思っただけで、それを手伝えたらと思っただけで……馨くんにも申し訳なくて、あんな……死んだんじゃないかって……ごめんなさい」


 視線を落としたまま、ぼそぼそと語るその衣類には痛々しい戦いの跡が残っていた。

 出血こそ止まっているようだが、切り傷に擦り傷、打撲痕のほか、血の気が引いて顔色も悪い。

 馨は奥歯をグッと噛みしめ声を絞り出す。


「お前じゃねえ、お前じゃねえんだ……舐めていたのは俺だ」


 馨は実際に軽く考えていた。

 死後に常世へ向かう霊が、悪霊に邪魔されている。要はその悪霊を排除すればよいだけと考えていた。

 その予想は、おおよそ当たっていたのだが、ただ、その悪霊の力が大きすぎた。

 規格外すぎたのだ。

 悠にとって想定外なぞ当たり前のことである。

 彼は素人だ。

 しかし、自分は曲がりなりにも怪異絡みの専門家を自負していたはずで、悠を矢面に立たせてしまっては失格であった。


「葵さん……僕を守るために……」


 悠から、自分が場外に弾き飛ばされた後の状況を一通り聞いた。

 そしてあの黒蛸と渡り合った悠や、呪縛を振り払った葵の精神力に敬意を抱いた。

 馨は、悠の右腕に刺青のような模様が入っていることに気づく。

 それは、肘から手首にかけて、黒い痣のような線が二本、交叉しながら螺旋状に刻まれていた。

 禍々しい妖気を放つその痣に、「お前それは?」と言いかけた瞬間、突如として黒蛸から大量の瘴気が放たれた。


「っぶねぇ!!」


 咄嗟に悠を庇い、炎を壁のように放ってその場を飛び退いた。

 二度も不意打ちをくらうわけにはいかない、「アヤ」と合流するまではと、警戒を怠らなかったのが幸いした。

 瘴気を浴びても、馨自身は耐性があるから問題ない。

 だが、心身ともに疲弊している悠が浴びればどうなるか分からない。


「動けるか?」


「うん、何とか」


「じゃあ外に出ろ。あの蛸は俺が焼く」


「……分かった。ありがとう馨くん」


 よろよろと工場から出る悠を背にして、瘴気の中心にいる黒蛸の次撃に備え、構えた状態で待つ。



 黒蛸は葵が消えたとともに主導権を取り戻していた。

 そして息を潜めて機会を窺っていた。

 無論、逃げる機会をである。

 自身が神だと敬っていた者は、発言と行為によって幻想だったと気づかされた。

 何年も自分を導いていたのは、より強い者へのエサにするためだった。

 そのことに失望し、怒りを覚えた。

 だが、それと同時に大きな喪失感と孤独感に襲われた。

 神だと思っていたあの男は、常に自分の側にいて、常に自分を肯定してくれていたのだ。

 それなのにと、悔しく思う。

 己の腹の内にある「コア」を育て、新たなる神になるという目的は、既にあの男との共同作業ではなくなってしまった。

 今後は一人で行わなければならない。

 いや、と黒蛸は思った。

 今までも、あの男は口を出すだけで、行動していたのは自分だけだったのだと。

 神になるということ自体、黒蛸はよく分かっていない。

 誰も自分に逆らえなくなる程度にしか考えていなかった。


 黒蛸は多くの力を失っていた。

 そこで、まずは人間を捕食し、力を蓄えねばならない。

 だが、ここにいる男2人はまずい。

 一人は純粋に強い。

 とても自分が太刀打ちできる相手ではない。

 もう一人は捕食できそうだったが、自分の中の力の大半を補っていた「妖」を奪った男だ、危険な術を使うかもしれない。

 よって黒蛸は逃走し、他の人間を捕食することにした。

 抵抗できない女子供を狙おうと考えている。

 瘴気の煙幕の外には、あの暴力男が控えている。

 もったいないが出し惜しみしていては、ここで殺られてしまう。

 煙幕が薄まる前に、自分の中に蓄えていた亡霊を数体解き放つ。



 瘴気の煙幕の中から四体の亡霊が飛び出し馨に襲い掛かる。

 しかし、瘴気を帯びて狂暴化した亡霊たちは知るはずもない。

 今、目の前にいる獲物の姿形が変わっていることなど。


 変身、変化へんげ、色々な言い方があるが、馨の場合は「本来の姿に戻った」と言うのが正確だろう。


( 半人 / 半妖 )


 星宮馨の姿は、黒髪の優男ではなかった。

 瞳は金色の輝きを放ち、髪は青みがかった白銀色の長髪に変化し、それがより俊敏な獣を思わせた。

 全身に隈取に似た黒い線がタトゥーのように現れ、その黒線のフチから神秘的な青い炎が揺らぐ。

 中でも最も大きな変化は、側頭部から喉元にかけて垂れている白銀の兎の耳であった。


『白銀の行燈兎あんどんうさぎ』其れ即ち『きんせいのおう


 フウッと息を吐くと、左右から襲い来る二体の亡霊の頭を、それぞれの手で鷲掴みする。

 頭を掴まれた亡霊は、叫び声をあげ、鋭く伸びた爪で、馨の腕を裂こうとするが、爪が届く間もなく青い炎に包まれ塵になった。

 二体の亡霊を退治した馨は、軽く跳ねると宙にいた残り二体を次々と塵にする。

 その速度は、とても人の目で追えるものではなかった。


「いい加減、邪魔だな」


 そう言う馨の右腕には、青い炎が混ざった風が渦巻いていた。

 馨は瘴気の煙幕に向かってその風を放つ。

 青炎を含んだ暴風は、いつまでも滞留していそうな瘴気を一気に薙ぎ払った。


「あれ?」


 瘴気が霧散した中心部、そこにいるはずの黒蛸の姿がどこにもなかった。

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