鐘の音 10

 まだ馨が戦線離脱する前のこと。

 黒蛸は馨との戦闘中に、何本もの触手を切り飛ばされ、あるいは青炎で焼かれるなどして欠損していた。

 だが、切り飛ばされた部位は煙をあげて蒸発し、黒蛸はそれを吸収することで欠損部位を再生していた。

 そして現在の黒蛸に欠損箇所はなく、万全の状態であった。

 しかし、工場内の隅に、先ほどの戦闘で切り飛ばされたであろう触手の先端が落ちている。

 長さは1mほど、太さ30cmほどの触手の先端は、何故、蒸発しないのだろうか。


 その謎の触手がビクビクと動き出す。

 黒蛸の皮膚に浮かんでいた亡霊たちの顔のように、触手の先端の真ん中に、美しい少女の顔が浮かびあがった。

 北欧系の顔立ちのそれは、ゆっくりと目を開き、葵と向き合う悠に視線を送る。

 一通り悠の観察を終えた触手の少女は口を開き話始めるが、その声は珍妙なことに、あの黒蛸が「神」と敬っていた「男の声」であった。


『あれがノイズの坊やか / 彼女にとっては絶望なのです


ほう、素材としては葵を超えるな / あの男の子からはボクと同じ匂いがするのです


匂い? どういう意味だ? / マスタがかかわってる、かもです


奴が? だがそれは…… / 待つです! 森に新手がいるのです


何があった? / 迎え撃つです。魔術師、回収は君がするのです』


『おいっ!……チッ、何が起きている!』


 魔術師と呼ばれた者は、少女の顔を怒りで歪める。


『妨害? 誰が? ここまで来て……だが、確かにコアだけは回収せねば』




 悠は触手を手繰り寄せるように、一歩一歩、黒蛸へ、すなわち葵を目指し前に進む。

 足はガクガクと震えおぼつかないが、触手を命綱のようにしっかりと抱きしめ、よろよろと前に進む。

 身体が砕けそうになる衝撃波も、触手がうねり暴れ狂うことも、今は鳴りを潜めていた。

 葵は、近づいてくる満身創痍の若者に対し、只々、恐怖の表情を浮かべるばかりであった。


「……ガハッ」


 咳きこんだ悠の口からベチャリと血が吐き出され、床にシミを作る。

 何とか黒蛸の胴体に辿りつくと、今度は震える手足でそれをよじ登りはじめた。

 意識はすでに朦朧としていて、夢と現実の区別もつかないような状態になっていた。


 目がかすみ、徐々に黒蛸の姿が朧げになってくる。

 遠くから水泡の弾ける音が、だんだんと近づいてくる。

 悠の意識が現実を離れてゆく。


―――― 暗く濁った水の中。

 冷たく誰もいない水の底でジッとしている。

 水の外では、子供たちが楽しそうに遊んでいた。

 悠は水の底から、ただそれを見ている。

 じっと息をひそめて、ずっと見ていた。


 ドボンと音を立てて誰かが水の中に落ちてきた。

 その人は苦しそうにもがきながら、どんどんと沈んでゆく。

 もがいても、もがいても、その誰かはどんどんと沈んでゆく。

 沈んでゆく人の顔が見えた。

 沈んでいたのは、苦痛と恐怖に顔を歪めた葵だった。

 悠は沈みゆく葵に必死で手を伸ばす。


「いけない!!」 ――――


 ハッと意識が覚醒する。

 ここは何処だと目を凝らすと、うねうねと黒く固いゼリーのような皮膚の上。

 ちょうど自分の眼前に苦悶の表情が浮かび上がってきたところだったようで、ウワッと思わず顔を逸らす。

 顔を逸らしたところで、全身に痛みが走り、自分が何を触っているのかを思い出した。

 瘴気の皮膚……呻き声をあげて顔をしかめる。

 黒蛸の皮膚を力の限り掴み、胴体を登りながら、葵に向かって声を振り絞る。


「今……助けます……ね……」


 助けると言っても、何か手段があるわけではない。

 馨やアヤなら打開策があるのかもしれない。

 しかし自分には何もない、気合と根性で何とかするしかない。

 それに、こんなこと、おかしいだろ。こんなこと、あっちゃいけないだろ。

 そう思うことが力に変わる。


「オ……ア……アァ」


 黒蛸にしがみついた、悠が徐々に近づいてくる。

 葵は、悠に手を差し伸べようとしては、その手を慌てて引っ込めるという動作を繰り返す。そうしてしまう自分に戸惑っているようだった。


『何をしている。瘴気を出せ、触手を使え!』


 葵は後方から響く声に反応を示そうとしない。

 心を閉ざすかのように無表情になる。

 悠の右手がようやく葵の腰に届いた。


「こんなところ、出ましょう葵さん」


 声をかけても、右手が身体に触れても何も起きなかった。

 顔は無表情なまま、悠に視線を送ることもなく、正面を見据えていた。


『私を無視するな、そのゴミを振り払えっ!!』


 苛立ちを隠せない男の声を聞いても、やはり葵に反応はない。

 悠は、葵と黒蛸との境目に右手を勢いよく食い込ませた。

 それは、何か考えあっての行動などではなく、無我夢中で咄嗟に行ったものであった。

 ズブズブと黒蛸の中に、二の腕まで入れると、次に左手も差し込み、葵をすくい上げようと試みる。

 黒蛸の中は、重い水のような感覚だった。

 濃度の高い泥水のように重く、差し込んだ腕がうまく動かせない。

 両の腕に亡霊たちが纏わりついてくる。

 怨念を込めた敵意に害意、様々な感情や言葉をぶつけながら腕の動きの邪魔をする。

 だが気にかける余裕もなく、それを無視して必死で下半身を探す。

 しかしながら、黒蛸の中に葵の下半身は無かった。

 どれだけ探しても、手に触れるのは亡霊たちだけ。

 まるで、亡霊を詰め込んだ水槽に手を入れているかのようだ。

 その時、焦る悠の右手首に痛みが走る。

 黒蛸に触れる痛みとは違い、何か尖った、例えるなら錐で突き刺されたような痛み。


 唐突に悠の頭の中に、小さな女の子の声が響く。


――――助けて。お願い、助けて。


 その声は、必死に助けを求めていた。


「え? ……誰?」


――――ここは嫌だ。ここは嫌。捕まった。わたし捕まった。出して。出して。


「……出してって?」


――――入れて。入れて。そっちに入れて。ここは嫌。


「入れてって? 僕に?」


 そう声に出した途端、右手首を突き刺す痛みが増す。

 その痛みを起点に、手首から肘までを紐のようなものがギュウッと巻付いてきた。

 肘から先が千切れるかと思うほどの締め付けに、グウッと声が漏れたが、ほどなくして右腕の感覚が戻った。

 心なしか、目の前の黒蛸が、ひと回り小さくなっているような気がした。

 さらに黒蛸の皮膚に触れていても痛くなくなっていることに驚いた。


――――あっちは嫌。帰りたい。帰りたい。


 変化はまだあった。

 先ほどまでは、重い泥水をかき回すだけだった右手に、人の体の感触が現れた。それは紛れもなく葵の下半身だった。

 そして、右手に感じた感触は、遅れるようにして左手にも現れる。

 黒蛸に埋もれている葵の下半身をしっかり両手で抱えて、押し上げる。ミチミチと音を立てて徐々に葵の身体が黒蛸から剥がされだした。


『ばッ! バカなッ!! お前、何をしている!! そんなことが出来るわけがないだろッ!!』


 男の狼狽した叫びが響く。

 悠は両足を踏ん張り、力強く引き抜こうとしたが。


ドンッ!!


 振りぬかれた触手に突き飛ばされ、コンクリートの床に背中から落ちる。

 黒蛸がひと回り小さくなっていたことと、触手の距離が近かったことで、大きなケガを負うことはなかった。

 それでも、したたかに背中を打ち付け、ゴホゴホと咳きこむ。

 半身を起こして見上げる葵は、全ての触手を高く上げて、その鋭い先端を悠に向けていた。

 まさに、今にも串刺しにするために。


「葵さん……」


 鎌首をもたげるようにして止まっている触手たちを背にし、こちらを見下ろすその顔に表情は無かった。


『ふははは、そうだ、ようやく動いたか、このポンコツが。さあ、その男を吸収しろ』


 悠は目を凝らし、もう一度、声の主を探した。

 すると先ほどは見えなかったのに、怪しい妖気を放つ千切れた触手が隅に落ちていることに気づいた。

 これも、自分の中に何かが入った影響だろうかと考えていると、再び小さな女の子の声がする。


――――悪い奴。わたしを捕まえた奴。


「あれが?」


――――殺した。悪い人間。


「人間? あれが?」


――――悪い人間。本物は遠く。声だけ。


「声だけ? 魔法?」


――――許さない!!


 悠の心に激しい怒りの感情が伝わるとともに、勝手に右手が触手の欠片に向かってかざされた。

 すると右手から勢いよく影が飛び出し、地を這うように触手の欠片まで伸びて巻付いた。


『グオッ! 貴様ッ! 何をするか』


 触手の欠片は攻撃されることを想定していなかったようだ。

 悠自身は何が起きているか理解できず呆然としていた。


くさびを奪って自分のものにしたか。坊やはツナギに調べさせたかったが……もういい殺せ!!』


 男の声に、葵は苦悶の表情を浮かべ、獣のような咆哮をあげた。


「ガァアアアー!!」


 両手で頭を押さえ、イヤイヤをするように抵抗する葵に、影に締め付けられる触手の欠片から、強力な妖気が放たれる。


『いい加減にしろ欠陥品が! そのガキを殺せ!』


「アァアアア……」


 ピクピクと全ての触手たちが抵抗をしているようであったが、遂にそのうちの一本が動き出す。鋭い槍のように悠に向けて襲い掛かる。


ズンッ!!


――――ギャッ


 放たれた触手は、悠の右手から伸びる影を床ごと穿つ。

 影は悲鳴をあげ右手に戻った。

 床を穿った触手は、そのまま悠に巻付いた。

 しまった、と思ったが遅かった、触手の速度に反応できず避けることができなかった。

 拘束され自由を封じられた悠に向かい、鎌首をもたげた触手たちが狙いを定める。

 縮小して力が衰えているようだが、それでも人外の化物。普通の人間が触手の拘束に抗うことは出来なかった。


『ははは、いいぞ、殺せッ!!』


 ゆらゆらと揺らいでいた六本の触手たちがピタリと止まり、葵の悲鳴のような叫び声とともに一斉に襲い掛かる。

 ヒュオッと風切り音を立てて放射状に放たれた触手は悠の後ろに回り込んだ。

 後ろから自分の背中をめがけて高速で迫る触手、拘束され振り返ることも出来ず、恐怖に目をギュッと閉じる。

 ゴオッという幾本もの触手が重なり鳴らす音が迫り、次いで、


ドドズドズッ!!


 肉を貫く鈍い音がする。

 体を強張らせたままの悠は、突き刺さる衝撃も、肉を抉られる痛みもないことを不思議に思い、ゆっくりと目を開ける。

 悠の眼前には左右から折り返された黒く太い六本の触手が映し出される。

 「死の槍」と化した触手に己の体は貫かれていなかった。

 大きな曲線を描いて軌道を変えた「死の槍」の終着点が視界に入る。

 呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、うまく息が吸えない。


「ハッ……ハッ、ハッ」


 軌道を変えた「死の槍」は葵の上半身にいくつもの大穴を開けた。

 「死の槍」は左腕を吹き飛ばしていた。

 「死の槍」は右目を中心に大きく抉り取っていた。

 軌道を変えた六本の触手は、葵の全身を貫いていた。

 葵を貫いた触手はズルズルと黒蛸の中に収まってゆく。


 葵は残された左目で悠を見た。

 黒く染まっていない、柔らかな眼差しで。

 葵の唇がわずかに動く。


「オォ……ア……あぁ、良かっ……」


 獣のような音が次第に声となるが、言いきらぬうちに葵の姿が朧げになってゆく。

 ゆっくりと薄く透明に。

 ゆっくりと光の粒子となるように。

 葵は天井に開いた穴から差し込む月光に手を伸ばす。

 伸ばされた指の先端から塵になり空を舞う。


「たぁ……」


 サァと風に舞うように消えた。

 キラキラと月光を反射する塵は、悠の周囲を舞い、天井の穴から月に吸い込まれるように消えていった。


 いつの間にか悠に巻付いていた触手も消えていたが、膝立ちのまま呆然としていた。


 工場内に男の声が響く。


『ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!! 自死だと? ありえない、浸食はほぼ完璧だったのだ……もう一度だ、もう一度……はは、いるじゃないか良い素材が。今度はしばらく生かしておいて生身を侵食させ……いや、そうすると』


 悠は自分の心の中にどす黒い感情が沸くのを自覚する。

 自分の中に入ってきた何かから伝わる怒りとは別の自分自身の感情。

 男はまだブツブツと独り言を呟いている。


『……仕方ない、コアを回収して……そうだ、まだ中に馬鹿がいるだろう。それを使って……いや、私が操作した方が……』


 ブツブツと呟く触手の欠片の前に悠が立つ。

 触手の欠片に現れている「少女の顔」は、悠を見ると満面の笑みを浮かべ嬉しそうに柔らかな「男性の声」で話し出した。


『おお君かぁ、ちょうどよかった。失敗作とはいえアレに影響を与えるとは素晴らしい素質だよ。ぜひ我々の……グボッ!!』


 怒りにまかせて触手の欠片を蹴り上げた。ゴロゴロと転がる触手を追い、馬乗りになる。


「戻せよ! 葵さんを! 彼女はちゃんとした形で成仏しなきゃいけないんだ。あんな消え方しちゃいけないんだ。出来るんだろ? 戻せよ、術とか儀式とかあるんだろ!!」


 左右の手で叫びながら殴り続ける。

 触手は少女の顔を歪ませ、強烈な妖気を放って、悠を吹き飛ばす。


『調子に乗るなよ坊や! たかが人間の分際で鬱陶しい。素材は素材として、家畜の分別というものを教えてやらねばなるまいな』


 触手の欠片は跳ね上がり、動かなくなった黒蛸に向かって大きく飛んだ。

 しかし、黒蛸にたどり着く寸前、青い炎を纏った拳が触手を払い落とす。


『なっ! お、お前は……グヘァ!』


 地面に叩きつけられ驚愕する触手の欠片に、さらに拳が振り下ろされると、青い炎が吹き上がる。


「気色悪ぃんだよ」


 焼け焦げてゆく触手の欠片に対し、汚物を見るような目を向ける馨の姿がそこにあった。

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