鐘の音 9
深夜の車道にギッコ、ギッコと油切れのチェーンが軋む音が響く。
馨の愛馬(愛車)、赤兎馬号(ママチャリ)を駆る悠であったが、安物の自転車には、当然のことのように変速ギアも付いておらず、重量も相当であり、ついに坂道を上る途中で下車し、手押しで進むことを余儀なくされた。
息も絶え絶えといった態で先を見る。
この坂を上りきれば廃工場だが、既に馨が終わらせているかもしれないし、こちらがハズレかもしれない。
それでも見届けなきゃとの思いで坂を上る。
そもそも、二手に別れたはずなのに、おいて行かれたという時点で、悠は数に入れられていない。
確かに役に立たないのは事実だが、それよりもただ単純に、彼らは悠を葵に会わせたくなかったのだろう。
何故、会わせたくないのかは、何が起きているのか分からないまでも、手遅れを危惧してのことだろう。
こうなることを予見して、わざわざ自転車で来たわけではないだろうけど、と考え立ち止まる。
「赤兎馬号……僕は君をここに置いて行く」
ブルーにカラーリングされた赤兎馬号は、「俺のことはいい、早く行きなっ」と言っているようだった。
手遅れだから行かないという選択肢はなかった。
重量のある自転車から解放されると、駆け足で坂を上りきる。
アレに乗って水穂市から短時間でここに到着する友人の身体能力には、驚きを超えて呆れてしまう。
月明りと、道沿いにポツン、ポツンとある街灯が周囲を照らしていた。
それにしても、と辺りを見渡す。
いくら深夜とはいえ、ここは東京と隣り合ったT市なのだ。
それなりに田舎であるが、それなりの交通量はあるはずなのだ。
なのに、ここに来るまですれ違う車両が1台もいないというのは不自然すぎる。
街全体が身を隠すために、ひっそりと静まり返っているように感じた。
五月の夜は、まだ肌寒い。
そよぐ風が汗に濡れた悠の体を撫で、ブルッと身震いする。
廃工場につながる私道は、県道に設置されたガードレールの切れ目にあった。
生茂る草木が、廃工場への道を隠すようにしていが、私道の奥から漂う、ただならない妖気は隠せていない。
「こちらが本命だ」
自分に言い聞かせるように声に出すと、徐々に心臓が早鐘を打ち出した。
廃工場への私道は、人の手がしばらく入っていない状態が見て取られ、悠はスマートフォンのライトを頼りに、丈の長い雑草を踏み倒しながら歩を進める。
暗闇は、彼の原始的な恐怖心を刺激した。
ずっと誰かに見られているような気がしてならない。
木々の闇から何かが飛び出してくるのではないかと思えて仕方がない。
荒くなる呼吸を抑えるため、グッと歯を食いしばり、
一本道を5分ほど歩くと、廃工場の異様が目の前に現れた。
この高い塀と門扉に囲まれた廃墟は、森の中の朽ちた廃洋館のような雰囲気を
今にも背骨が大きく曲がった男が門扉の前に現れ、「何か御用ですか」と怪しい笑みで話しかけてきても不思議ではない。
開けた場所に出たことで届く月明りが救いに感じた。
門扉のすぐ横には関係者の通用口であろう鉄扉があり、開放されている。
馨によるものだと察し鉄扉をくぐったその時、廃工場から地鳴りのような咆哮が聞こえた。
ギョッと動きを止め、手遅れという単語が頭に浮かび、頬に汗がつたう。
「始まってる」
工場内に駆け込むように入る悠の目に映ったのは、青い炎の舞だった。
天井に開いた穴から、月明りが差し込む薄闇に浮かぶ、四つの青い光の残像。
光の軌跡に沿い、わずかにブレた位置で青い炎が花火のように爆ぜる。
それは、禍々しい漆黒の蛸のような怪物が次々と放つ触手を、躱し、打ち払い、焼く、馨の姿だった。
両手に青い炎を纏わせ構える姿は、研ぎ澄まされていて美しかった。
迫る黒い触手を僅かな動作で避け、拳による強力な打撃を返す。
その所作には全く無駄がない。
怪物は触手を切断され悲鳴をあげ、残った触手を狂ったように振り回す。
悠は黒蛸の上部で悲鳴をあげる女性を見て、息をのんだ。
長い黒髪は乱れ、目は黒一色に染まり、その口から呪いの叫びをあげていたのは秋津 葵だった。
呼吸が乱れる、心臓が痛い、左胸をグッと抑えこらえるが、今度は足が震えだした。
「あ……葵さんっ!!」
絞りだされた声に最初に反応したのは馨だった。
悠に向かって「来るな」と叫ぶと同時に、振り回された触手が腹部に直撃する。
「ゴハァッ!!」
目の前の出来事がスローモーションのように見えた。
馨は斜め下から打ち上げるような触手をまともにくらい、くの字のまま天井の穴を抜け、外へ吹き飛ばされた。
そして、工場の外からドズンッと質量のある物が落ちる音が聞こえた。それは、命が消える音と等しい響きでもあった。
「か……う、そでしょ?」
今にも「やりやがったな! 手前ッ!」と怒鳴りながら戻ってきそうな彼が、一向に姿を現さない。落下音のあと、外からは何の音もしなかった。
工場内は黒蛸の触手からシュウシュウと煙が出る音と、固まったまま動けない自分の呼吸音のみであった。
想定していなかった、自分が知っている幽霊とかの次元ではなかった。
体が動かない。
すぐにでも馨のもとに向かいたいのに、黒蛸を前にして、さらには変わり果てた葵を前にして、足が一歩も動かなかった。
シュウシュウと煙が出る音が止んだ。見れば黒蛸の欠損していた部位が再生していたようだった。
再生を終えた黒蛸は、ズルリ、ズルリとゆっくり悠に向かって動き出した。
黒蛸がどんどん近づいてくるが、悠は動けなかった。
金縛りや、相手が何らかの術を使用したとかではなく、ただ怯えた心が動くことを拒否していた。
ゆっくりとだが、確実に近づく黒蛸の触手が悠の左足に触れると、焼けるような痛みで尻餅をつく。その横をゆっくりと黒蛸は素通りして行く。
黒蛸は悠を相手にしていなかった。
黒蛸にとっての最優先事項は、己を滅ぼしかねない、馨であり、目の前の小物などいつでも殺すことができるのだ。
ズルリ、ズルリと前進する速度が徐々に増し始める。
それは黒蛸の回復を意味していた。
その黒蛸の進行がピタリと止まった。
黒蛸の上半身、すなわち葵が振り返る。
そして黒く染まった冷たい眼を向ける。
そこには、痛みに顔をしかめた悠が、触手を両手でわきに抱え足止めしている姿があった。
「ど、どこに……行くんですか? 葵さん……は、早く……グッ!……早く目を覚ましてくださいよ」
動きを止めた葵は無表情のまま、大きく息を吸い、衝撃波を悠に放つ。
ズシャーッ!!
「ぐうっ」
両足を踏ん張り、触手にしがみつく。衝撃波をまともにくらい、意識が飛びそうになるが手足の力を緩めず悠は葵に、
「葵さん、僕です。ゴホッ! 坂城 悠です……忘れちゃいましたか?」
内臓を損傷したのか、口元の血を拭い、笑顔で呼びかける。
葵は忌々しそうな表情とともに、両手で頭を押さえて掻きむしる。
そして、黒一色に染まった眼で悠を睨むと、彼を振り払うために、悲鳴のような声を出して何度も何度も衝撃波を叩きつけた。
「アアアアァァァー!」
ズシャッ! ズシャッ! と衝撃波が悠を襲うたび、周囲の埃が舞う。
ズシャッ! 体中の肉と骨が軋む。
ズシャッ! コンクリート片の飛散が全身を抉る。
ズシャッ! いたるところから血が溢れ、意識が飛びそうになる。
ズシャッ! ……。
ズシャッ! …………。
衝撃波が止まった。
室内は霧のような粉塵が舞っている。
自身が破壊したであろう対象を見ることもなく、そのまま外へ向かうべく動き出す。
しかし、
グイッ……グイッ………グイッ……
グイッ……グッ………グッ……葵は、未だ触手が掴まれ、自分を外に行かせまいとする力を感じた。
弱々しく、触手を軽く振れば吹き飛ぶような、か細い力を。
進むことを止め、震えるように振り返る。
「ひゅう……ひゅう……ごふっ」
声を出すこともなく、ぼたぼたと血を流し、ボロ雑巾のようになった男が、触手にしがみついていた。
「ア……ア……アァ……」
衝撃波を出そうとするが、躊躇ってしまう。
あと一撃入れれば、この男は吹き飛び、起き上がることはないだろう。
しかし、それはしてはいけないという恐怖感に襲われて躊躇してしまうのだ。
何故、この男が死ぬのが怖いのか、何故、躊躇うのか分からない。
何故、何故、何故、混乱する、知っているはずなのに、分かっているはずなのに。
葵の目から涙が零れ落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます