鐘の音 8
悠より一足先に辿り着いた馨は、4m余りの高さの塀に囲まれた廃工場を見て、呆れ笑いを浮かべた。
門扉にあっては、塀と同様の高さと、大型トラックの通行も視野にいれたサイズの鉄格子で、大型の南京錠と太い鎖により施錠されていた。
馨は門扉越しに静かに佇む廃工場を見て「臭いが半端ねぇ、どう見てもビンゴ」と確信する。
周囲を確認し、侵入方法を模索する。
正直、馨だけであれば、植物が絡みつく門扉の柵を掴んで登り、飛び降りればよいだけなのだが……悠が同じことをすれば、高い確率で大怪我をしかねない。
どうしたものかと思案していると、門扉のすぐそばの塀の一部が窪んでいることに気づいた。
そこは植物に覆われて、見えにくくなっていたが、普通の鉄扉があった。
大型車両も通行できそうな門扉と違い、こちらは人間用の通用口のようだ。
であれば話は早いと、馨は先の想定のように、門扉をパルクールよろしく掴み登り、乗り越え敷地内に侵入する。
工場側から通用口にむかうと案の定、サムターン(内鍵)があったので開錠し、扉を解放しておく。
廃工場は、こちらも大きな錆びだらけのシャッターの横に、通用口扉があった。中の様子は曇りガラスで分からない。
工場通用口扉に手をかけると、施錠されていないと分かる。
そっと扉を開けると、錆びと経年により、金属が軋む音が静寂の中に響き渡る。
この音で、確実にばれたか? 幽霊というものは、現実の在り方や見え方が違うからと考えたが、面倒になり、まあいいかと半ば開き直って堂々と工場内に入って行くことにした。
鉄錆と埃に湿気が混じったような臭い。
ザラザラとしたコンクリートが剥き出しの床。
四方を積み上げられた不用品のガラクタに囲まれた大きな部屋。
はるか昔は、工業用の機械が並び、それなりに活気があったであろう部屋の中央、天井に開いた大穴から差し込む月明りをスポットライトに「ソレ」はいた。
黒い「蛸の胴体」から、白い「女の上半身」が生えたような怨霊。
両手をだらりと垂らし、うなだれた状態でぶつぶつと何か喋っている。
「わ、わ、わた、わたし、わたし、わたし、だ、だ、だれ、だれも、だれも、が、が、が、おな、お、お、おなじ、わすれ、わ、わ、わたし、わた、だ、だ、だれだ、だれ……に?」
ピタリと独り言がやむと、女はうなだれたまま、ゆっくりと首だけを回し、馨を見る。
逆立った髪に、真っ黒に染まる眼球。口元はだらしなく開かれ、涎がしたたり落ちていた。
黒い胴体の皮膚には無数の亡霊たちの笑顔が浮かんでは沈む。
「……こりゃあ、ぶっ飛んでんな」
馨はぼそっと呟き、怨霊に向かい歩を進める。
怨霊は悲鳴のような声をあげ、二本の触手を叩きつけてきた。
左からの触手は飛んで
躱した触手は床に突き刺さり、コンクリート片が飛び散った。
怨霊は下半身の触手をうねらせながら振り返り、対する馨は驚いたように、
「実体化してやがる」
掘削されたように破片が飛び散る床を見て「面白れぇ」とニヤリと笑い、呼吸を整え意識を集中させる。
ゆっくりとした瞬きののち、角膜を中心として薄く青い炎が宿っていた。
ボウッと揺らぐ両目の炎に呼応するように、左右の手が同じように薄く青い炎に包まれる。
「これは星宮の技じゃねえ、俺のオリジナルだ……っても、お前にゃ分かんねぇだろうがな」
暗闇の中で四つの青い炎が美しい光の軌跡を描く。
怨霊は煩わしそうに、先ほどと同じ触手による叩きつけ攻撃を行った。
迫る岩をも砕く触手の連撃に対し、馨は足さばきのみで
掌底を打ち込まれた触手は、当たった箇所を中心に爆散し、弾かれた触手は青い炎に包まれ燃え上がる。
怨霊は悲鳴をあげ、二本の触手を振り回すが、闇に輝く青光は舞うように躱し、安全圏に脱出した。
相手の攻撃範囲から脱した馨であったが、攻撃を加えた触手を見て舌打ちしてしまう。
破裂した触手も、焼け爛れた触手もシュウシュウと煙をあげながら回復していたのだ。
「再生しそうな形態だよなって思ってたら、再生しやがったよクソがっ」
悪態を吐きつつも、怨霊を観察して弱点を探る。
――――下が黒蛸で、上が女か……女の腰から下は埋まってんのか? それとも混ざってるのか? んなこたぁどうでもいいや、それよか蛸の部分が厄介だな、あの皮膚はある意味毒だ、耐性ない奴がくらったらやばい。
二本から四本に増えた触手の猛攻を反時計回りで躱しながら思考を続ける。
――――まあ、何本増えようが当たる気はしねえ。場が片付いているのが幸いした。俺がアイツなら四方の鉄くず片っ端から投げまくって足場悪くしてやるがな……馬鹿で良かった……つーか、あの蛸、本物の蛸みてえに煙幕吐いたりしねえだろうな……って、そうだ弱点っぽいとこ探さなきゃな……まあ、あの女の部分だろうな。さて、蛸の高さは3mほどか? クソでけえな手前!!
馨は、触手の追撃をテンポよくかいくぐり、急にリズムを変えて時計回りに怨霊に接近する。
怨霊は触手をもつれさせてしまい、反応がわずかに遅れた。
五本目、六本目の触手が対面から馨を襲うが、躱して、その触手に飛び乗ると一気に黒蛸の胴体まで距離を詰める。
胴体の皮膚に丁度、苦悶の表情が浮かび上がってきているのを見た馨は、「さんきゅ」と言うと、その口につま先を蹴り込み、そこを軸に胴体を駆け上った。
迫る馨に上半身の女は、両手を広げ大口で威嚇する。
が、威嚇など知ったことではないとばかりに、怨霊の顔を鷲掴む。
「悪いが終わりだ。あんたも悠に見られたくねえだろ」
悠という単語にピクリと反応をみせたが、構わず高出力の霊気で、鷲掴んだ顔から全身を青い炎で焼き払う。
「ウギャアアァァァー!!」
工場内に怨霊の悲鳴が響く。全身を青い炎に焼かれながら、怨霊は顔を両手で抑え前かがみに縮こまると、下半身の黒蛸から周囲に大量の黒い煙が放たれた。
その黒い煙は、蛸が水中で吐くような墨ではなく、人体に害をなす「瘴気」であった。
瘴気は、馨を含めた怨霊の全身を覆い、同じく怨霊を焼く青い炎とぶつかり、相殺した。
そうやって、怨霊は炎を消したのだった。
「クソっ、やっぱお前、蛸じゃねえか、蛸は海に帰れ!!」
怨霊は、後方に飛びのき罵声をあげる馨を憎々しげに睨み、複数の触手を大きく振り上げて狙いを定める。
ズンッ! と鈍い音を立てて床を穿つ触手の一撃に、辛うじて回避した馨は、少し引き気味に「ヤバッ」と呟くと、振り上げられたまま待機状態の触手を見上げた。
上方から次々と降り注ぐように突き刺してくる触手を「あっぶねえなぁー!」と叫びながらもくぐり抜け、胴体部まで接近すると、地面が揺れるような踏み込みから渾身の掌底を打ち込んだ。
その威力は凄まじく、打ち込まれた胴体には風穴が開くとともに壁面まで吹き飛び、積み上げられた廃材が辺りに四散しカランカランと金属が跳ねる音が響く。
次いで廃材に埋もれた怨霊から青い炎がボウッと吹きあがる。
「手間かけさせやがって」
ふうと息を吐き、手を上げ、伸びをしながら工場を出ようとすると、燃えている怨霊の方から男の声がした。
何と言っているかは聞こえなかったが、振り返れば瘴気を撒きながら起き上がる怨霊の姿があった。
掌底で開いたはずの胴体の穴は塞がれていた。
焼け焦げて赤黒く爛れた顔は、煙をあげながらも再生しつつあった。
上半身の女は「ヴヴヴ……」と牙をむきだすように唸り、下半身の蛸は目を赤く染め、皮膚には大量の顔が怒りの表情で浮かんでは沈む。
そうしてガラン、ガシャンと廃材を押し退けながら怨霊は馨にゆっくりと迫る。
「おいおいおい……タフすぎねえ?」
怨霊は「ガアァァァ」と雄叫びをあげると、複数の触手で四方八方から薙ぎ払いや、突き刺しを繰り出してきた。
その威力と速度は先ほどの攻撃よりも数段上であった。
躱し、いなし、弾いて防御するが、頬や腕、太ももなど、触手がかすった箇所が切れて血が流れる。
そして合間、合間に瘴気を吹きかけてくるが、炎で迎撃し直撃を回避した。
局面は徐々に怨霊が圧し始める事態になったが、今度は馨が大きく雄叫びをあげる。
「グオオォォォー!!」
その気迫に怨霊はたじろぎ一瞬攻撃が止んだ。
「ふっざけんなよクソ蛸がぁ! めんどくせーなぁ! こうなりゃ消耗戦だ! とことん付き合ってやるよ」
そう言うと馨は正面に構え、静かに呼吸する。
青く輝く目が怨霊をとらえる。
「来いよ……クソ蛸」
その言葉を合図に怨霊が動き出す。
「ガアァァァ!!」
怨霊の叫びに負けじと馨も気合を込めた雄叫びをぶつける。
「グオオォォォー!!」
鞭のように激しく、全方位から打ち込まれてくる触手を、体裁きで躱し、炎を纏った手で弾き迎撃する。
弾かれた触手は空中で花火のように爆散し、再生する。
ここに来て馨の動きは段々と研ぎ澄まされていった。
「うはははっ! おいおい楽しいな! 俺はまだまだ本気じゃないぜ、どうしたもっと打って来いよ!!」
「ガアァァァ!!」
上半身の女が雄叫びに「衝撃波」をのせて馨に打ち込むが、初見でそれに掌底を当て相殺する。
「効かねえ!!」
触手が弾かれ爆散し再生する。
触手が弾かれ爆散し再生する。
触手が……。
怨霊の後方で男の声がするが、テンションが上がりきった馨には聞こえていなかった。
あの悪霊が神と言った者たちの声が。
『これは圧されているな / この男、想定外だったのです
さらに活性化させよう / それは彼女がもたないかもです
コアさえあればよい / 同意できかねないのです
場合によってはツナギ、お前が出るんだ / 勿論、既に向かっているのです』
『であれば、問題はない』
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