鐘の音 6

 現在はある資産家が所有するという廃工場だが、以前は長年にわたり放置されていたことで、敷地内は草木が生い茂り、昼間でも薄暗く、森の中の一軒家ならぬ、森の中の廃工場と化していた。

 地域の住民たちも気味が悪いところという認識で、近づく者はあまりない場所だった。


 その二つの廃工場を、今から二十年ほど前に資産家が、周辺の土地ごと購入した。

 そして、工場の塀を老朽化した穴開きの金網フェンスから、高さのある鉄筋コンクリートに建て替え、頑丈な門扉を設置した。

 そうして森の中の不気味な廃工場は、資産家の持つ土地の一部として近隣住民の記憶から消えていった。


 その後、しばらくは忘れ去られていた廃工場だったが、十年ほど前から物騒な噂が流れるようになった。

 それは資産家の次男坊があそこで「悪魔崇拝」や「黒魔術の儀式」を行っているという荒唐無稽なものであった。


 無論それらは憶測であり、証拠も何もないわけだが。

 幼少期から異常な行動が目立つ次男と、建築基準を無視した4mもの高さの塀に囲まれた廃工場の異様さは、暇を持て余した者たちの想像を掻き立てた。


 夜に犬の散歩であの森の近くを通りかかった時、奥から悲鳴が聞こえた気がする。

 俺の犬も森の奥に向かって唸り続けていた。

 うちのは怯えて近づこうとしない。

 女性のすすり泣く声が森中に響いていた。

 森の中に次男の車が入って行くのを見た。

 俺はあそこで亡霊を見た。

 私なんて……俺が見たのは……そういえば、森の中に変な建物があったよね。

 あそこで良からぬことをしているに違いない。


 しかし、噂の張本人である素行が異常な次男が一年前に不慮の事故で他界したことにより、不名誉な噂もあっという間に忘れ去られてしまった。


 ただし、女のすすり泣く声や、亡霊が出るという噂は、依然として残っていたのだが。


 そんな話など露ほどにも知らないアヤが、西側の廃工場に辿り着いた。

 県道から私道に入り、草木に覆われている廃工場を見ても、怪異本体である彼女にとって、それは恐怖の対象とはならない。

 むしろ居心地の良さすら感じるくらいだった。

 ひび割れ、植物が絡まる鉄筋コンクリートの高い塀を、近くの木を利用し、三角跳びの要領で飛び越える。

 跳躍の際に、纏った黒いケープがはためく。

 そして音も立てずしなやかに着地する姿は、俊敏な猫のようであった。


 暗闇と草木に覆われた廃工場の敷地は千坪ほどあった。

 建物自体は鉄筋コンクリートの2階建てで、扉や窓などは補修されていて中の様子はうかがえない。

 建物内から気配を感じないため、「外れかな? 一応確認しておこうか」と呟くとともに、ケープから1本の長い紐がするりと現れ宙を舞う。

 それは、反物たんものを由来の一部とする怪異、アヤの武器の一つで、長さ4mの半幅帯だった。

 帯とはいえ、それは形態だけのもの、その先端は鋭利な刃物になっている。

 つまりは射程4mの伸縮自在の刃物。

 この10歳ほどの怪異の少女が、こと戦闘において一目置かれる理由の一端が、この凶悪な斬撃の刃であった。


 ゆらゆらと宙を漂う帯がピタリと止まると次の瞬間、キンッという音とともに目の前の扉に幾つもの切れ目が入る。

 その直後に扉は瓦礫となり崩れ落ちた。

 着物の袖で口元を抑えながら、廃工場内に足を踏み入れる。

 やや古いが洒落た作りの茶色いブーツがジャリジャリと硝子片を踏む音がする。

 やはり気配を感じなかっただけあって、何もいなかったが、工場内には古い血の臭いが満ち満ちていた。

 大昔の処刑場にも似た雰囲気に、アヤは、ここで多くの命が刈り取られていたことを確信する。

 生贄でも捧げる儀式でもしていたのかと訝しがるが、本命がいないのであれば、ここに用はない。


「急いだほうがよさそうだ」


 呟き、工場を出たアヤは周囲の異変を察知する。

 その異変は敷地内のいたるところで発生していた。

 青く、うすぼんやりとした人の影、亡霊が、其処此処そこここに現れだしたのだ。

 その数は三十を超えた。

 亡霊の出現に、顔色を変えることもなく、涼しげに佇むアヤに対し、当の亡霊の群れは、アヤには目もくれず、いずれも南東の方角を睨むようにして、口々に「恨めしい」、「悔しい」、「許せない」と呪詛の言葉を吐く。


「おやおや、変質しそうになっているね」


 さて、どうしようか? まとめて狩ろうか、放っておくか、少しの思案の間に、亡霊たちは一所ひとところに集まり、飛び立ち始めた。

 それは、さながら海流にのる回遊魚のようであった。

 永く生きているアヤであるが、亡霊どもが集合し飛び去る様などを見るのは初めてのことで、思わず「こいつは面妖な」と呟いてしまう。

 亡霊たちが飛び去った先は、馨と悠が向かった廃工場の方角。十中八九、悪霊がいるのであれば、そちらであろう。


「いまのワシのうつわで、全盛期をどこまで維持できるか分からないが、しょうがない」


 目を閉じたアヤが妖力を込めて念じると、自身を中心とした竜巻のごとき旋風つむじかぜが発生した。


「地霊よ、その力、しばしの間、使わせてもらおう」


 右手を地面にかざすと足元からは幾層にも重なる光の帯が輝いた。

 風を受け強くはためくケープを覆うほどに光の帯が重なって広がりアヤの全身を包む。


 光と風が徐々に収まり収縮していくと、それはこぶし程の光の球となり、アヤの胸に納まった。

 光の消滅とともに、彼女の姿は少女から、妙齢の美女へと変貌した。

 おかっぱだった髪は、腰にまでとどくほどに伸びて、黒く艶めき輝いていた。

 元々、見目麗しかった容姿は、さらに磨きがかかり、見るものを卒倒させてしまうほどの美貌へ、まさに傾国の美女の具現といえた。


 不思議なことに衣類も成長に合わせて大きくなっていた。

 両腕を広げ、裾から伸びる美しい指先を見る。

 ふむ、と久方ぶりに成長させた自身を確認し、満足そうな笑みを浮かべる。

 そして亡霊たちが飛び去った方角に向かうため、トンと塀を乗り越え、もの凄い速度で木々をくぐり抜け西の廃工場を後にする。

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