鐘の音 5

 鉄錆と埃に湿気が混じったような臭い。

 ザラザラとしたコンクリートが剥き出しの床。

 電信柱に据え付けられた街灯のわずかな明かりが、室内の朽ち果てた機材を照らす。


 何に使われていたかも不明な朽ちた機械類、用を果たせなくなった什器等が四方に積み上げられる。

 廃棄物たちが見守る中、悪意の結晶ともいえる蛸の目をもつ黒い塊は、全裸で横たわる葵を前に、その体を取り込もうと触手を震わせる。


 この悪霊は当初、葵をご馳走だと思った。

 この女の霊力は極上で、取り込めば飛躍的に力を得ることができると直感的に理解した。

 いつものように獲物をジワジワと追い込み、狂わせ、捕食にかかったところで誤算が生じる。

 取り込むことができないのであった。

 今までであれば、魂を取り込んで霊力とすることができたのに、この女が力尽き、いざ取り込もうとすると、己の機能が停止する。

 これまで「神の声」に従い、生前も、さらに死後に至っても上手くやれていたのに、こんなことは初めてであった。

 このことを「神」に問うても何の返事もない。常に的確な指示を与えてくれていた「神の声」が消えた、これもこの悪霊にとって初めてのことだった。

 

 そして、取り込むという行為を止めることもできなかった。

 女が回復すると停止していた自身の機能が動き出し、勝手に女を責め始める。

 黒蛸は、このようなことが、どれくらい続いているのか、もう分からなくなっていた。



 葵は一糸まとわぬ自分の姿に驚き、次いで体が、あの時の女のように透けていることに唖然とし、そして目の前の悪霊に恐怖する。

 黒蛸は葵の体中に触手を這わせてくる。

 触手は葵の腕や足、胸に腹にと這いまわり、次第にその先端を尖らせてズブズブと突き刺さしてくると、全身に走る痛みでビクンと体が跳ね上がる。


 両腕と胴に巻付いた触手が葵を宙吊りにし、黒蛸の見上げる目が厭らしく歪む。

 体に刺さる触手から大量の怨念が流れ込んでくる。


「力をよこせ」、「助けて」、「お前もとりこまれろ」、「なんで?」、「死ね!」、「悔しい」、「悲しい」、「帰りたい」、「諦めろ」……「代わってって言ったのに!!」

 

 最後にあの女の声が聞こえた時、苦しみに身悶えていた葵は力尽きたかのように動かなくなった。


 どこからか、室内に何者かの声が響く。

 それは、機械で加工された音声のような声であったが、それでも柔らかな、人を安心させるような男性の声であることが分かる。


『想定よりも時間がかかったが……ようやく女神の誕生だ』


 黒蛸は、久々に聞いた神の声に心を震わせた。

 気を失ったようにぐったりとしていた葵が顔を上げる。

 葵の眼球は全てを吸い込むかのような深淵の黒に染まっていた。




 悠と馨、そしてアヤは葵が住んでいたというアパートにたどり着いた。


 アパートはフェンスバリケードが設置され、近々、解体工事が行われるであろうことが見て取れた。

 築十年も経っていないだろう2階建ての小洒落たアパートが解体されるのは、やはり葵と悪霊が関係しているのだろうかと思案する悠に、アヤの声が届く。


「誰もいないし何もない、がらんどうだ」


 フェンスを軽々と乗り越え、身軽に各部屋を覗いてきた彼女は、今は2階、葵が住んでいた部屋のベランダにいた。

 悠はどうしようかと馨を見る。

 悠と比べて背の高い黒髪の美丈夫は身を屈め、地面に手をつけ集中していた。薄く開かれた眼は微かに青い光を放つ、それは何らかの術、または能力を使っているのだろう。

 しばらくして馨は首を横に振りながら、


「痕跡はあった、アヤがいる、あの部屋から……だが痕跡だけだ」


 馨の言葉を受けた悠は、アパート周囲を見回してみた。

 起伏のある地形で、住居や建物が密集していない地域なので、近隣アパートの、しかも店子について情報を持っているかは疑わしい。

 それに深夜帯ということもあり聞き込みというわけにもいかない。

 悪い予感ばかりが先行し気ばかり焦る悠に、およそ重力というものを感じさせない身軽さで戻ってきたアヤが、


「ワシはまだしも、馨に探索は不向き、例の女との会話で何か思い出せることはないかな?」


 何か……葵との会話……悠は、ひとつ気になることを思い出しハッとする。


「廃工場……」


 急いでスマホを取り出し睦に電話をかけた。睦はまだ起きていたようで数コールで応答があった。


「睦さん、すみません。お願いがあります。葵さんのアパートの近くにある廃工場を探してもらえますか? ……はい、ありがとうございます」


 電話を終えた悠に、不思議そうな顔で馨が聞く。


「何だ? 廃工場って、そこにいるのか?」


「わからないけど、葵さんが廃工場で襲われる夢を見るって」


「夢か……ふむ、しかしそれが夢でなかったと……いや、そうなると疑問が……」


 腕を組み、あご先を撫でながら深く考え込むアヤは、その仕草も美しかった。


「疑問って?」


 一瞬、何か言いかけたアヤだったが、「いや、杞憂だろう、忘れてくれたまえ」と言うと、それ以上は何も語らなかった。


「どちらにせよ、俺が殴り飛ばせば終わりだ」


 ニヤリと笑みを見せる馨に対し、二人はやれやれと顔を見合わせる。


 しばらくすると、睦から現在地から近い廃工場と思われる候補地が、「くれぐれも無理はしないように」との一文とともに送られてきた。

 候補地は二箇所であった。

 悠は、深夜のずうずうしい自分の願いを聞いてくれ、なおかつ身を案じてくれる睦に感謝した。

 三人は手早く計画を練る。二箇所の廃工場は、この地域の資産家、いわゆる地主のような人物が所有していて、どちらもここから1km圏内にある。

 そこで、馨の提案で、二手に別れて行動することになった。西側の工場にはアヤが。南側の工場には悠と馨が。

 馨とアヤは、双方の大体の位置が把握できるらしく、外れだった方が、速やかにもう片方に向かうということになったが、その際に馨から真剣な顔で、


「俺たちの方が外れだった場合、悠、お前を置いて行く。お前は後から来い」


 何故という悠に対し、馨から「そちらの方が圧倒的に速い」と回答されると、引き下がらざるを得なかった。自分は足手まといなのだから。


 別れ際にアヤが告げる。


「悠よ、葵という女、既に……」


「わかってる……それでも……」


「なら、よいのだがね」


 アヤはそれだけ言うと、トンと近くの民家の屋根に乗り、もの凄い速度で遠ざかって行った。


「アヤの方が外れだったとして、こちらに折り返して来たうえ、奴が悪霊をぶった斬ったとなったら、一年は言われ続けることになる。俺はそれが死ぬより嫌だ」


 馨は心底嫌そうな顔をし、ママチャリを悠に渡す。


「悠、お前に愛馬、赤兎馬を託す」


「せ、赤兎馬? 馨くんはどうするの?」


「俺は……走る!!」


 と言うや否や、尋常ではない速度で走り出す。そのスピードは先程のアヤと比べても見劣らないものであった。


「ちょ、ちょっと待ってよ。青いんだけど、この自転車ー!!」


 悠は全力で赤兎馬(ママチャリ)をこいで、馨を追いかけた。

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