鐘の音 3
「そっか……うん」と一人で納得したように呟く葵は、自身がいま遭っている被害についてポツリ、ポツリと語りだした。
それは、今から二ヶ月ほど前、ある奇妙なモノを見てしまったのがきっかけだった。
あの日もいつもの時間に仕事を終え、いつもの時間の電車に乗り、いつもの通りを歩き帰途についていた。
ただいつもと違うのは途中、何か違和感というか異様な気配のようなものを感じ、足を止め原因を探したことだろう。
見回したところで、いつもの景色なのだが、ただ1点おかしなところに気付いた。
通りに建つマンションの中階……5、6階辺りの部屋のベランダに黒い煙のようなものがあったのだ。
最初は火事かと思い、通報のためにスマホを取り出したが、周囲の人たちが騒ぐ様子もなく、煙と思ったものも、よく見るとその場にとどまり広がって行く様子はなかった。
アレは何だろうと思い、少し近づき目を凝らして見る。するとそれは煙などではなく、黒いブヨブヨとした塊がゆっくりと外に出ようとしている姿であるとわかった。
それに気付いた者は自分だけであったようで、すぐにその場を後にすればよかったものの、好奇心には勝てずじっくりと観察してしまった。
黒い塊は蛸のような形で、全身が常にブルブルと波打ち、煮えたぎるコールタールのようだった。
ズルリ、ズルリとベランダから壁面へと移動する塊は、蛸と同じような場所に目があり、無数の触手を足替わりにし、その触手のうち数本を使い、若い裸の女を引きずっていた。
ドスンッ!
重い粘土が地面に落ちるような音を立て、塊はマンションから落下した。そして触手を引き寄せ、女を自身の胴体にめり込ませたと思ったら、徐々にその体を取り込み始める。女は「嫌ッー」とも「ギャー」ともとれるような叫びを上げながら吸収されてゆく。
自分はいったい何を見ているのだろう。幻覚でも見ているのだろうか。
その証拠に、依然として周囲で気づき騒ぎ立てる者は皆無だ。友人と談笑しながら帰る者、黙々と歩く者、歩きスマホに夢中な者、いつも通りの帰り道の風景。
ここでの異物は、あの黒い蛸と自分なのではないかという考えに陥ってしまう。
ここに至って、黒い蛸が捕食している女も人間ではないのではないか、という疑問が浮かぶ。何故なら女の体はうっすらと透けており、向こう側が見えていた。
早く去らねばと思うが、恐怖で足が動いてくれない。
ズルリ、ズルリと塊が移動する音が近づいてくる。
見れば、蛸の目はしっかりと葵を捉えていた。
距離が近づくにつれコールタールのような黒蛸の皮膚が、何故煮えたぎるように波打つのかを理解した。
それは、表皮のあらゆるところから、苦悶の表情を浮かべた人の顔が、現れては沈み、現れては沈みと、泡立ちのように繰り返されていたからだ。
現れる顔の区別はつきにくいが、殆どが女性の顔のようだった。
身体中の皮膚が波打つ黒蛸は、ゆっくりとズルリ、ズルリと近づいてくる。
捕食されている女と目が合ってしまった。
女の口がわずかに動く。
「代わって……」
ゾクリと悪寒が走り、そこからは余り覚えていない。気が付けばアパートの自室のトイレで激しく嘔吐していた。
私は目をつけられた……それだけは理解した。
そこまで話すと、葵は身震いするように肩を抱く。
悠は心配そうに、葵の手に自分の手を添える。
「大丈夫ですか?」
コクリと頷くと悠に強張った笑みを見せる。
「大丈夫、思い出したら、少し恐くなっちゃっただけだから」
一つ、大きく深呼吸をして続きを語りだす。だが、唇は小刻みに震え顔色は真っ青だった。
黒蛸を目撃した日から二週間、特に何か起きるということもなく、葵もいつもの生活に戻り、あれは悪い夢か幻覚だったのではというような気になっていた。
そんな、いつもの生活の、いつもの帰り道に、あの日と同じ気配と視線をおぼえ、葵は恐怖に立ち竦む。
確実に見られている……あの時の虚ろだが明確な悪意を持った目を思い出した。
全身を舐めまわすような視線の主を探して周囲を見まわし戦慄する。
マンションの壁面に、民家の屋根に、公園のベンチに、電信柱の隣に……あの黒い塊が、いたるところから葵を見ている。
「代わって」……飲み込まれ、取り込まれていった女の顔を思い出す。
次は自分なのだと恐怖に
「あのぅ……大丈夫ですか?」
蹲る葵を心配したのか、肩に手を添え、声をかけてくれた女性がいた。
振り返り「大丈夫です」と答えようとしたが、その言葉は途中で止まる。
女性の顔は、コールタールのようなドロドロとした黒だった。
表面は煮えたぎっているかのようにブクブクと波打ち、蛸のような虚ろな目が、葵の目と合うとギュッと笑う。
気づけば、周囲にいるすべての人が葵を見ていた。コールタールの皮膚と、嫌らしい蛸の目で。
葵の冷静な部分が、残酷な事実を告げる。多分、自分はあの日、既に意識を侵食されたのではないかと。
目の前に立つ女性のドロドロとした皮膚から苦悶の表情をした顔が浮かび上がった。
あの日、黒蛸に飲まれた女の顔だ。
「なんで……なんで代わってくれないのおおおおぉぉぉぉッッ!!」
女の叫びに耳を塞ぎ全力で逃げ出したが、頭の中では、あの女の声がこびりついて離れない。
自宅のアパートで、震える体を隠すように身を縮める。
外ではズルリ、ズルリと塊が移動する音が響いていた。
「あいつは、ああやって時間をかけて、人を喰っているんだと思う」
「喰って……って」
「何故かは分からないのだけどね、確信だけはあるの」
どこか諦めたような目で、自身の足元を見つめる葵に対し、悠は「自分は視えるだけの無能だけど、強い力を持った人を知っているから」とスマートフォンで連絡を取り出した。
悠の真剣な表情を好ましく思う。自分のために動いてくれることを嬉しく思う。
でも、あれは、人の命を奪う悪霊だ。
それも強力な。
真綿で首を締めるようにジワジワと疲弊させて、捕食する。
私を捕食したら、また新たな獲物を狙う。
そうやって力をつけていく。
もしかしたら次は、悠くんかもしれない。
この子を巻き込むわけにはいかない。
悠は電話の相手に怒られているようで、しきりに謝っていた。その後、電話を終え、葵に向き直り「怒られちゃいました」と苦笑いする。
「対処もできないのに、危ないものに係るなって……」
しょんぼりとする顔もやはりツナだ。
葵を伺うような上目遣いを横目に、髪をかき上げ思わず呟く、
「やっぱり……危ないんだね」
「でも、手伝ってくれるそうです、僕が知る限り、彼は最強です」
とは言っても除霊できる友人なんて彼だけですけど、と苦笑いする悠を、葵は巻き込めないと改めて思う。
ずっと一人で抱えていたものを共有してくれた、それで充分だと思った。
「さて、そろそろ私は帰るわね、あいつ、今日はどんな夢を見せてくれるのかしら」
夢を見せる? と聞き返す悠に、
「昨日は、知らない廃工場みたいなところでね、裸にされて弄ばれたわ。でも夢だって分かっていたら殴ってやったのにね」
夢の内容を聞いた悠は思わず葵から目を逸らし慌てて話題を変える。
「そ、そういえば教えてくださいよ」
「何?」
「ツ、ツナの意味ですよ」
「ああ! そうだったね」
すっかり忘れていた、もう少し名前の由来は引っ張りたかったが仕方がないなと微笑む。
「えーと、ツナはね……昔飼ってたワンコの名前」
「え……うん?……いや、そんなことだろうと……え?」
何だか面白い状態になっていてクスリと笑う。
「じゃあ、協力してくれる人によろしくね……また明日……ここで」
そう言うと葵はベンチを立つ。
「あ、はい、また明日」
ツナ、
振り返ると彼はまだこちらを見ていた。
――――じゃあね、ツナくん……ありがとう。
翌日、葵は姿を現さなかった。
時計塔の鐘が鳴る。
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