鐘の音 2

 私立那華都なかつ大学は埼玉県の水穂市にある中高大の一貫校だ。学生数もそれなりで、水穂市を中心として埼玉県南西部に広がる地元に根付いた中堅校といえる。


 構内には時計塔があり、当時の学長が水穂のビックベンだと鳴り物入りで建てようとしたらしいが、諸々の事情があって期待したものとは程遠い出来栄えであった。


 水穂のビックベンから定刻を示す鐘が鳴る。

 終業を知らせる意味も持つその鐘の音に一人、ため息をつく女性がいた。

 那華都大学に職員として勤めている秋津 葵である。

 もともと大人しい性格の彼女は、清楚な文学少女がそのまま大人になったようだと評されることが多かったが、三十路を前にしてとなると、素直に褒め言葉として受け取れなくなってきている。

 最近では、もう文学おばさんですよと自虐したりもしているが、彼女のため息の理由はそれではない。

 葵は終業時間がくることによって、帰宅しなければならないことが憂鬱なのだ。

 教務課に配属されている葵に残業はあまり無く、暇を持て余している友人も少ない。

 時間を潰す為に独りでカフェなども気後れするタイプなので、自然と構内を散歩して時間をつぶすことになる。


 四月半ばの構内の桜は、徐々に葉桜に変わりつつあるが、夕方はまだ肌寒い。


 ベンチに座り、葵は再度、深いため息をつく。

 彼女を悩ませているのは所謂、怪異現象または心霊現象といった類のものだ。

 身も蓋もなく言ってしまえば、夜な夜なお化けが出てきて迷惑しているという話なのだが、自分自身が他人から聞かされれば鼻で笑ってしまう様な話だけに、誰にも相談出来ず、いつも構内のベンチでため息をつくという毎日だ。


「こんばんは」


 気付くと、学生と思しき男性から挨拶をされた。

 にこやかな挨拶は、自分にされたものなのか疑わしかったため、周囲を見まわすが、ここには自分しかいない。時間つぶしのために、このベンチを利用し始めた最初の頃こそ、顔見知りの学生に声をかけられることもあったが、今ではすっかり誰からも声をかけられなくなっていたため、ぎこちない挨拶を返してしまう。


「いつもそのベンチに座ってますよね? 何か悩み事ですか?」


 葵のぎこちない挨拶など気にする様子もなく、この男子学生は距離を詰めてくるが不思議と不快ではない。

 明るい茶髪の小柄な学生は坂城さかしろ ゆうと名乗り葵の隣に座った。この大学の1年生だそうだが、学生数がそれなりに多い大学だけに、葵に見覚えはなかった。


「悩みって言われてもね……大して持ち合わせていないわ」


 本当に、他人に言えるような内容ではない。それに言ったとしても、この男の子に頭のおかしい女だと思われるだけだ。


「そうですか……ふむ」


 何か、当てが外れたような顔で考え込む悠を見て、葵はクスリと笑う。なぜならその顔が、むかし実家で飼っていた小型犬にそっくりだったからだ。普段は甘やかされて我儘放題な犬だったが、葵が悲しいときや辛いときに不思議とこちらの感情を読み取って、寄り添ってくれる優しい子だった。

 その後は悠と他愛ない会話で過ごし、憂鬱な気分を忘れることができた。別れ際、彼がまた来ますと言うので、友達がいないのかなと心配になってしまった。それでも人懐っこい笑顔で彼にまた来ると言われると嬉しく思う。


「じゃあ、またねツナくん」


「???」


 怪訝そうな顔でこちらを見る姿が、やはり飼っていた犬にそっくりだ。葵はクスクスと笑い、その場を後にした。



――――翌日。


「こんばんは」


 また来ますと言われても、まさか翌日に来るとは思わなかった。

 自分自身、最近は日付の感覚がおかしくなっているので、はたして昨日出会った彼は、実は先週だったのではないか? などと混乱するが、気を取り直して挨拶する。


「こんばんはツナくん、まさか今日も顔を出すとは思っていなかったよ」


「そのツナくんって何ですか?」


「内緒、ふふふ」


 不服そうな顔で気になると言う悠は、やはりツナにそっくりだ。


 その後も彼は毎日ここに来て他愛ない会話をした。

 大学近くの美味しいお店の話や、好きな映画、今日の天気、桜の咲き具合、取るに足らない無駄話だが、それが葵にとって癒しの時間になっていった。

 ある日は、悠が何やら小難しそうな小説を読んでいたので、本が好きなのかと聞いたら、余り本は読まないのだが、レポート課題で読まなくてはいけないのだと愚痴っていた。

 課題で好きでもない本を読むのは苦痛だろうけど、好きな本に出会えるのはいいものだ、今度、本を貸してあげる、絶版になっているけど家にあるから持ってくるねと、作者名とタイトルを伝えた。とてもしんどそうな顔をする彼に、そこまで嫌がらなくてもいいのにと笑った。


 そういった毎日が続く中でも怪奇現象は続き、葵を日に日に蝕んでいった。日によっては、あまり会話ができないことも多くなってきた。それを心配する悠の顔を見て、やはりツナに似ているなと思った。



――――五月半ば。


 その日、悠は意を決した表情で葵の前に立った。

 葵はその顔を見てオヤツの所有権を主張するツナを思い出し笑いそうになるが、そういった雰囲気でもなさそうなので我慢した……といえば聞こえがいいが、もしかしたら告白でもされるのだろうか、年が離れすぎているのに良いのだろうかなど、脳内が大混乱を起こしそうだったので、無理やり愛犬に置き換えていたのかもしれない。


「葵さん」


「は、はい」


「今から言うことで、僕のこと頭のおかしい男だと思われたくないのですが……」


「はい」


「実は僕……お化けが見えるのです」


「はい?」


 拍子抜けとはこのことかと思ったが、少し安心する。この関係が壊れてしまう方が嫌なのだ。

 そして、お化けが見える、それは過去の葵であれば一笑に付すような話だが、それが本当であれば、自分にとってかなり重要な話といえた。


「お化け……見えるんだ?」


「えっと、引いてます?」


 悪戯が見つかったときのツナのように、とても心配そうな顔だ。


「ううん、今のところは、まだ大丈夫だよ、ツナくん」


「その……ツナくんって何ですか? いい加減、慣れてきたんですけど」


 葵の返答に苦笑交じりで返す悠は、いつもの彼だ。葵は吹き出しそうになるのを堪えた。


「慣れてきたんだ。じゃあ、まずはお化けの話からね。ツナの話はそのあと」


「いいですけど……その、実は僕、子供のころから霊感が強くて……」


 悠が語るには、きっかけは10歳のころに大きな事故にあい、意識不明に陥った。

 しかし奇跡的に回復し日常生活が送れるようになった。

 そしてその頃から自分が死んだ人間、幽霊が見えるようになっていると気づいた。

 その力はかなり強いようで、両親からは忌み嫌われ、悪霊からは狙われるといった、やはり昔の葵であれば病院を紹介してあげたくなるような話だった。

 霊に対抗する手段などを身近で教えてくれる人はおらず、いざ現れても、それは自称霊能力者といったペテン師ばかりだった。

 だから、彼にとって怪異とは、見かけたら速攻で逃げる相手だったそうだ。


「胡散臭いだろうけど信じて欲しい……と言うより、僕は葵さんの言うことを信じますよ」


 そして、「僕は対処できないけれども、今の僕には本物の力を持った友人がいる、だから葵さんの状況を教えてください」と聞かれた時、葵の頬に涙がつたった。


「あ、あれ?」


 何で泣いている、そこまで追い込まれていたのかと動揺が隠せなかった。


「そんなに大したことじゃないのよ」


 涙を拭う手を、悠は優しくとって、


「これは僕の友人が教えてくれたのですが、本人が重大な悩みだと言っている時ほど大したことはなくて、その逆の場合は、思いのほか深刻だったりするらしいです」


 確かに引越しだって既に視野に入れているし、今だって家にはなるべく帰らないようにしているが、よく考えればその時点で、異常で深刻ではないか。


「特にそれが怪異がらみであるなら、充分に大したことですよ」


 葵は心を覗かれたような気になり、悠の顔を見て納得する。彼には見えていたのだと。

 そして、穏やかな笑みを浮かべた彼の瞳に映る自分の顔を見て「ああ、そうか」と気づかされたが、ツナのくせに生意気、とも思った。

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