月 日 ノンちゃん

 ノンちゃんと昔、迷子の迷子のおじいさんを家まで送ってあげたことがあります。そのおじいさんは、山の麓の川沿いのベンチに一人座っていて、ノンちゃんが「あの人ちょっとおかしいから声をかけてみよう」と言ったのでした。私にはそのおじいさんがただぼーっとしているだけに見えて、私自身ベンチでぼーっとすることがよくありますから、特段その景色に奇妙な点は見受けられませんでした。


「なに見てるんですか?」


 ノンちゃんがおじいさんに声をかけますと、おじいさんは顔をゆっくりと動かしノンちゃんを見ました。そして虚ろな目が焦点を結ぶと、


「ああ」


 と一言発しました。そして極めてゆっくりと顔を川に向けました。


「鴨がな、おったんや」


「かも? ああ、鴨」


「鴨をな、撃って帰ると、妻が喜ぶんや」


「へえ、いいですね」


 ノンちゃんはおじいさんの言葉に合わせて極めてゆっくりお話していました。おじいさんは枯れ木のような緩慢さを持っていましたが、次第に饒舌になり、目は光を帯びるようになっていました。


「おれは頭の出来が悪かったもんやから、子どものころから親父の鉄砲を持って山に入り鳥を撃ち、川で魚を突いて、それを食ったり売ったりしよったんや」


「ふうん」


「家は六畳ひと間に両親と妹ふたり。十三の年、おれはメキメキ背いが伸びてな、そうすると家がどうしても窮屈になる」


「うん」


「山の浅いところに、お気に入りの洞穴があってな。そこを自分の部屋にしとったんや。ゴザを敷いてな、煙で燻してな。中は真っ暗や。そこでタバコをプカプカしながら、洞穴を通って入ってくる自然の音を楽しむんや。シャカシャカ、オウオウ。学がないもんやからシューベルトはよう聞かんが、自然の音は好きやったな」


 おじいさんは私達に聞かせるためというより、蓄えられた記憶をそのまま再生するかのように話し続けました。


「ある日な、暗い洞穴を手探りで進んで行くとな、柔いものに触れた。おれは熊かと思ってな、ウワァーっと叫んだ。恐れたわけやなく、相手を威嚇したんや。本当やぞ。そしたら手が触れた相手が、女の声で『かんにん、かんにん』言うてな。驚いたのなんのって、おれはまたウワァーっと叫んだ。おれがウワァーであいつが『かんにん、かんにん』や。ああ、やっぱり咄嗟のときにも頭の出来の違いが出るもんやな。相手が『人ですか、人ですか』言うてな、おれが『人や、人や』言うてな。そしたら『私も人です、人です』言うて、二人暗闇で手を取って生の喜びに泣いたんや。お互い互いを熊やと思っとったんやなあ。それが妻との出会いや。妻はな、サチコ言うんやが、おれなんかとは釣り合わん、良いところのお嬢さんなんや。年はおれが十三でサチコが十九のときのことや。その日サチコはピアノの厳しいレッスンから逃げ出してきたんやと。それから、おれたちはその洞穴でたまの逢瀬を楽しんだんや。なんてことはない、家におるのに疲れたら洞穴に行き、サチコがいることもあれば一人のこともある。途中でサチコが入ってくることもある。そうして話しをするんや。不思議なもんで、サチコと話しているとな、いつも聞いていた自然の音が耳に入らんようになる。サチコの話しはおれにはようわからんことが多かった。シューベルトがどうとか、アレがどうとか。サチコはな、おれの足を鍵盤に見立てて、タンタラタンやら歌って、指を滑らすんだ。おれは恐ろしさを感じたよ。女っていうのは、熊よりよほど恐ろしいもんや。サチコがおれの足に指をすべらせている間、おれは声もあげられず固まっていた。ザワザワと胸がざわめき、苦しいような、しかし止めてほしくないような、不思議な気持ちやったんや。ある日、洞穴に入るとな、サチコの様子がおかしかった。おれは洞穴に入るとき、『入るぞ』と声をかけるのが習慣になっていたんや。そうするとサチコがいるときには『あい』と返事をくれるんや。でもその日は返事がなかった。だから、おれは一人だと思って奥に入り、人の気配を感じて驚いた。『サチコか』言うたら、『うん』言うてな、どこか様子がおかしいと感じたんや。しばらく横並びで洞窟の奥に背を預けとった。いつもサチコはおれが入るとすぐに話し始めるんやが、その日は無言やった。シャカシャカ、オウオウ、自然の音を聞いてな。ふたり黙っとった。やがて雨が降ってきてな、洞窟の中は雨の音一色になった。彼女は泣いとった。声も出さず体を震わせ泣いとった。おれは一世一代の勇気を振り絞って、彼女の手を探り当て、握ったんや。おれと同じ指とは思えんくらい細い指やった。サチコはおれの肩に縋って泣いた。サチコはな、おれの肩に一層顔を押し付けてな、『うち、旦那さんができてん』と言った。おれはただ、サチコの手を握っとった。サチコの言う言葉の意味がわからんやった。しばらくしてな、サチコはおれの方から顔をあげると、『タバコくれへん』て言うた。おれはサチコの前ではタバコを吸わんやったから、驚いた。匂いでわかったんかなあ。渋々タバコを握らせてな、マッチを擦った。おれはすっかり忘れていたが、マッチを擦るとな、明るくなるんや。おれは初めてサチコの顔を見た。想像よりもな、ずっと綺麗な人やった。くわえたタバコが恐ろしく似合わん人やった。サチコはおれの顔を見てな、ハッとした顔をしたよ。おれはそれに傷ついてなあ。『何歳なん』って聞かれたときには、サチコがずっと遠くに思えた。すっかり悄気げて『十三』と言うとな、サチコは雨の中走って行ってしまったよ。おれは情けないやら腹立たしいやら、彼女が吸わずに落としたタバコを細切れにちぎって投げてな、もったいないことしたなあ。それからは木の洞をみても星空を見てもサチコの顔が浮かんでな。でもそれはいつもおれを見て失望した顔で、ずいぶん引きずったよ。お袋は妹の世話で忙しくしていたが、親父はおれの様子がおかしいことに気づいてな、でもなんも聞かんでくれて、ただおれに鉄砲撃ちとしての仕事を積極的に教えてくれるようになった。親父が山から滑落して死んだときには、おれは一人前になっていたよ。そのころ街は好景気に浮かれとってな、レストランも仰山できて、それぞれが他所とは違うもんを出そうと躍起になっとった。おれが撃ってくる雉や鴨、雀なんかをジビエなんてけったいな名前つけてありがたがってくれるレストランもあってな、おれは母と妹ふたりに贅沢させてやれた。ある日な、いつものように契約した店に納品に行ってな、便所を借りた。そこは昼は仕込みの時間はコーヒーだけ出す店でな、まばらに客があった。そこで懐かしいサチコの声を聞いたんや。衝立の影から様子を伺うとな、サチコの横に青年、正面に高齢の男女が座っとった。『サチコさん、私等が今日なんであんたを呼び出したかわかるか』高齢の女がそう言った。サチコはじっとうつむいとった。『黙っとったってわからんえ』高齢の女がそう言うと、サチコは『申し訳ありません』とますますうなだれた。『謝ったって、伸之の六年は帰ってきません』高齢の女性の言葉に、サチコはかわいそうなくらい謝っとってなあ。あの日おれの肩で泣いとったんと違う涙やった。蝋燭が半紙をチリチリと焼くような涙やった」


 おじいさんは震える手でタバコに火をつけました。川の鴨はすっかりいなくなっていました。


「おれはな、気がつくとサチコの前に立っとった。サチコの隣の男が最初に気がついて、奇妙なものを見る目でおれを見とった。遅れて男の両親と思しき高齢の男女がおれを振り返った。そして最後にサチコが顔を上げた。ハッとした顔をしたよ。おれは怯みそうになってなあ。『十九になった』やっとそう言った。その日帰ると、家にお袋や妹たちがいたかは覚えてねえ。ただ身の回りのものと鉄砲を一丁もって家を出た。夕暮れすぎにサチコは洞穴に来た。そして、電車に乗って町を出たんだ。そんときにな、サチコから、子供を産まない体を責められいじめられとったんやと聞いた。おれはサチコの分まで怒ったよ。サチコをいじめる町に未練など感じなかった。お袋や妹たちには悪いことをしたなあ。でも、おれたちは幸せだったよ。山で鳥を撃ってそれを売って、あるいは食って、毎日幸せだったよ。若かったおれはサチコと同じ日に死ぬもんだと信じとったんや。十年、二十年、三十年立った頃、サチコの様子がおかしくなった。物忘れがひどくなり、ぼんやりする日が増えた。夜中に外を徘徊するようになった。おれがなにか問いかけても曖昧に笑って、気のない返事しか帰ってこんようになった。なあ、お嬢ちゃん、何がサチコを変えてしまったんや。おれはサチコを柱に縛って世話をしとった。最初はサチコがいつか正気に戻ると信じた。でもなあ、駄目かもしれんという気が日に日に強くなる。おれも体が動かんようになってきてな。夜になると悪い考えが頭をぐるぐる回って、その時間は長くなる。サチコは一日柱に縛られとるからか、夜になっても眠らんやった。暗いなか目を開いてじっとしとる。そしてときに何処かに行こうとして、腰紐に引かれキシキシと音を立てる。しばらくするとまた座り、虚ろな目で暗闇を見つめる。そして短い時間眠る。ある日な、ああ、あれから五年経つのか。おれは眠ったサチコの髪を解いてな、体を念入りに拭いてやった。そして、布団でサチコの体をぐるぐるに簀巻きにした。眠ったサチコは大人しく巻かれた。そしてなあ、鉄砲を持ってきた。なかなか撃てんでなあ。おれは簀巻きの布団に照準をあわせたまま、じっとしていたよ。やがて夜の闇が失われ、恐ろしいほど青い靄がかった光が窓から入ってきた。間もなく太陽が昇ると察したおれは、引き金を引いた。布団の羽毛がぱっと舞った。サチコが縫ってくれた布団や。おれが獲ってきた鳥の羽毛を集め、冬が来る前にこさえなきゃねと言って縫った布団や。二発、三発とおれは布団を撃って、そのたびに羽毛が散った。初めて迎えた冬の前に、ようやくできたたった一枚の布団や。それを二人で使ってな、体の大きなおれの右肩はすうすうしとった。サチコはな、二枚目の布団を作ろうとしとったが、おれは羽毛は売れるからと言って止めたんや。本当は、一緒に寝たかったんや。サチコはな、布団からおれの腕がはみ出していることを案じてな、布団の長さを継ぎ足してくれてな、次の年も、また次の年も、ずうっとおれたちは一緒の布団で暖かく寝ていたよ。部屋中に舞う羽毛は青い光を受けて幻のようやった。日が昇る前に自分を撃って、それで仕舞いやと思った。おれはサチコと同じ日に死ぬもんだと、ずっと信じていたんや」


 おじいさんは何本目かのタバコをもみ消し、シャツの胸ポケットに入れました。


「ああ、長く座っとったせいで、足が固まってしまった。お嬢さん、肩を貸してくれんか」


 ノンちゃんがおじいさんに肩を貸し、私が反対から支えてあげました。私はおじいさんの話が頭の中で渦巻いて、何も言えませんでした。ノンちゃんもきっとそうだったのでしょう。ヨタヨタと歩くおじいさんを支えながら、家まで送ってあげました。


「すまんなあ。ああ、情けない」


 おじいさんはそう言って、山を少し登ったところにある山小屋のような家に入っていきました。開いたドアから玄関に無造作にかけてある鉄砲が見えました。


「サチコ、帰ったよ」


 おじいさんがそう言いますと、部屋の奥からキシキシという音がしました。部屋の奥には女性が柱にしばられ、胡乱な顔つきで、扉へ向かって手を伸ばしていました。

 そしてすぐに扉は閉じ、私は何が何なのかわからなくなってしまい、ノンちゃんと顔を見合わせたのでした。


 ノンちゃんは今頃何をしているのでしょうか。





「人の気持ちは変わるものよ」


 いつかシェリー奥様はそう言いました。

 先月、私はシェリー奥様らしき人がひとりヨタヨタと歩いているを見かけました。


「シェリー奥様」


 私が思わず声を駆けますと、その人は振り返り私をみて、曖昧に微笑みました。そしてすぐに虚無の顔となり、またヨタヨタと歩いて行きました。私はゾッとしました。お顔はシェリー奥様ですのに、どこがどうとは言えないのですが、その人は全くの別人でした。あれはいったい何だったのでしょう。


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蛆でモダンな気分のガール mimiyaみみや @mimiya03

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