5月9日 広瀬くん(6)
途中で道に迷いすっかり遅くなってしまいましたが、先ほど、ロビーに戻ってきましたので、続きを書きます。
広瀬くんを待つ間、私の心は不安でいっぱいでしたが、正直なところ期待もありました。だって、お泊り学習の夜にロマンチックなことが起きないなんておかしいでしょう?
「すまない、待たせてしまったね」
そう言って現れた広瀬くんはさっぱりとした顔で、それが私の胸をますますざわつかせました。私の口内は乾き、返事をしようにも口をパクパクさせることしかできませんでした。
広瀬くんは及び腰の私の手を引いてまっすぐ立たせますと、
「いいところがあるんだ」
と言って、外に出て、みんなの声がする方とは逆の、山道に向かい始めました。
私は広瀬君がわからず、半ば引きずられるようについていくしかありませんでした。
私が途中木の根に足を取られちょっと躓くと、広瀬くんはとっさに私の手を取りました。「ありがとう」そう言おうと彼を見上げると、木々から漏れる月の逆光で、その顔には黒黒とした影が落ち、表情をうかがい知ることはできませんでした。
私はなぜでしょう、広瀬くんを怖いと感じました。その気持ちを知ってか知らずか、彼は取った私の右手をこと離すなく、「こっちだ」と強く引き、また山道をずんずん行くのです。
その手枷はガッチリと固く、容易にほどけないことは肌から伝わってきました。
そして開けた場所に出て、その邸宅が姿を見せたのです。その門扉には鎖が巻かれ、大きな南京錠がいくつもついておりました。
「こっちだ」
彼はそう言うと壁沿いをまたずんずんと進み始めました。
彼は本当に広瀬くんなのでしょうか。ふとそんな疑問が首をもたげ、私の全身の細胞という細胞が恐怖でザワザワと動いておりました。そしてあるところで立ち止まり、
「ここだ」
と言いました。
そこはおそらく落石のせいで塀が大きく崩れおり、ちょっと頑張れば中に入ることができそうなところでした。振り返った広瀬くんは月明かりを受け、柔らかな表情を見せていました。
「ちょっと悪いことをするが、一緒に来てくれるかい?」
彼はちょっと照れたように、ちょっと不安そうにそう言って、私はいつもの広瀬くんに大きく安心し、それから恐怖の感情は言いようのない喜びとなって私の全身を震わせました。
「行きましょう」
私はそう言って、崩れた塀を率先して登り始めました。広瀬くんにお尻を持ち上げてもらってどうにか壁を乗り越えますとそこは屋敷の裏手で
「ここからぐるりと回ったところに、いい場所があるんだ」
と広瀬くんが言うので、二人で並んで歩いてゆきました。先ほどまでの恐怖はどこへやら、私は右手に寂しさを感じておりましたが、そんなことは言えるはずもなく、ただただ並んで歩いておりました。
やがて木柵でぐるり覆われたバルコニーに出て、そこに上がりますと私は目を見張りました。柵のすぐ下は森の黒、その向こうには街明かりが海を縁取り弧を描く絶景が広がっておりました。
「うわあ」
私が感嘆の声を漏らすと
「君に見てほしいと思ったんだ」
と彼は照れたようにそう言いました。
「ここは、僕の病気を治療するために父が手放した別荘なんだ」
彼は慣れた様子でバルコニーの端から身を乗り出し、「伝えたい事があるんだ」と、遠くの街明かりに目を向けたまま、しかしはっきりとそう言いました。
「僕は君ほど勉強ができないし、頭の回転が鈍いところがあるらしい。だから昔、君に気持ちを伝えられたとき、どうしていいかわからず君を傷つけてしまった。あれから、ずっとずっと君のことを考えていたんだ。そしてようやく、僕は君のことが好きらしいと気づいたんだ」
彼はひどく緊張しているようで、言葉の端が震えておりました。彼の背中からは大きな不安が伝わってきました。
「君の今の気持ちはわからないが、村中さん、僕は君が好きだ」
彼は柵に手をつき、街明かりに宣言するようにそう言いました。私は眼の前がチカチカするような、頭がグラグラするような、不思議な心地になっておりました。彼の背は相変わらず華奢に見えました。しかしシャツの下から突き上げる肩甲骨の影には確かな存在感がありました。その背に触れたいと思いました。
「広瀬くん」
私は彼に駆け寄ると、その背をどんと押しました。彼は出来損ないの前回りをするように黒い森に落ちてゆきました。
夜の森からは寒さが立ち上がってきておりました。私が一つくしゃみをすると、どこかに止まっていたのでしょうか。数十のハエが眼前を飛び、しかしそれらはすぐに森の方へ飛び去っていったのでした。
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