5月9日 広瀬くん(5)

 花は桜木、日の眩しい四月のこと、私は中学の二年生になりました!

 五月、葉が青々と茂りますとだれも桜木に目を留めなくなりますが、私はこの季節の桜も精悍で素敵だと思います。もう少しすると毛虫が湧いて気持ち悪くなりますが。


 学校で教わったところによりますと、ソメイヨシノという桜は接ぎ木接ぎ木で増やされた種なのだそうです。私はそれを聞いてから、もし自分が桜だったらと想像して少し恐ろしくなりました。


 だって、右にもルリ子、左にもルリ子、自分もルリ子ということなのでしょう? 若いルリ子や年寄りルリ子、いろんな年齢のルリ子がずらっと並んでいるようなものです。全員が全員私ですから、みんな同じように考え、意見が食い違うこともないのでしょう。


 それはとてもつまらないことだと思います。自分と違う人がいて、意見が食い違って、たまに一致して喜んで、そういう刺激が恋を育んだりもするのです。


 実は最近、私と広瀬くんはちょっといい感じになっておりました


「君の新人戦での健闘をみて、僕も闘志が湧いてきたよ。この体を必ず治して、また思い切りバドミントンをできるようになってみせるさ」


 などと言って、「今日から新しい薬を試すことになったよ」や、「少し数値が良くなったようだ」などとお話する機会が増えておりました。そして最後には


「僕の体が治ったら、勝負してくれるかい」


 など言うものですから、練習に一層身が入るというものです。


 広瀬くんは自然とクリニックに行くことが増え、しかし合間合間に五分や十分などの短い時間を毎日過ごすようになっていました。私は広瀬くんと勝負することなど想像もつきませんでしたが、次あった日に少しでも驚かせたくて、ノンちゃんにバドミントンの教えを乞うておりました。


 広瀬くんはたまに「いいかい、ラケットは卵を手のひらで包むように柔らかく握るんだ。そして打つときにはそれを思い切り潰すように握る」などと意味のわからないことを言いましたが、ノンちゃんは「ハエを叩くように打つのよ」とわかりやすく言ってくれました。


 実際、ハエは狙いすましてピシャリと素早く叩かないと打ち取れませんから、バドミントンの練習に最適なようでした。だから私は家や学校で、毎日毎日ハエを見つけては叩いて練習しておりました。


 そして部活でうまく打てると、広瀬くんは「ナイス・ショット」と声をかけてくれるのでした。広瀬くんがクリニックに行って見てくれていないときには、「ナイス・ショット、だったのよ」と後日に教えてあげました。そうしてまた私は好きでもないハエをせっせと叩いたのです。


 いい感じだとはいいましても、なにせ未知な世界なものですから、向かう先への不安はなかったと言っては嘘になります。つまり、私は広瀬くんとたくさんお話できて嬉しかったのですが、広瀬くんは私をどう思っているのかは全く持ってわからなかったのです。


 もしかすると、友達や家族のように話しかけるだけで、私に少しの恋心も抱いていない可能性もあったのです。こういう事情があったからこそ、先にノンちゃんに恋人ができたことを素直に喜べなかったのです。




 さて。中学二年生といえば、お泊り学習です。


 私はこれを中学に入学したときからずっと楽しみにしていました。入学式で配られたシラバスによると、みんなでバスに乗って山奥に行き、協力して料理をしたり、火を囲んで踊ったりするのだそうです。そして夜はみんなで一緒に眠るのだそうです。


 なんて楽しそうなのでしょう! 


 私たちの学校では、クラスを超えた交流を促す目的で、他クラスの生徒とグループを組まれることになっておりました。私のグループは、大迫さんと林さん、尾根くんと権田くん、そして、なんと、広瀬君と同じグループになったのです! 


 私はもしかすると感情が顔に出やすい性格なのかもしれません。自然教室前のグループ活動で、研究テーマを決めたりしているうちに、同じグループの女の子たちから「広瀬君と一緒になれるように応援するからね」などと言われるようになっておりました。


 私の恋心は広瀬君とノンちゃんにしか打ち明けておらず、二人ともそんなことを言いふらす性格ではありませんから、やはり私の態度が原因でしょう。確かにグループワークでは広瀬君の隣に座りたくて座るタイミングを調整したり、広瀬が発言するときにはここぞとばかりに顔をみて、彼が私に視線を向けるとそっぽを向きと、ちょっと不自然な態度だったかもしれません。


 でも、好きな人にそのような態度を取るのは当たり前のことでしょう? 


 自然教室当日の今日、グループの女の子たちは結託して「ふたりは隣に座りなさいよ」とバスの座席をあてがってくれました。私はクリニックデートを思い出し、胸がチクリと痛み、それから体中がソワソワするような変な心持ちになりました。


 それはバスが発車してからも続き、なぜなら窓際に座る広瀬くんが外の方を向いてむっつりと黙っていたからです。私はしばらく緊張して鏡餅のように黙って座っておりましたが、やがて緊張することにも飽きて眠ってしまったようです。


 バスはエアコンが付いており、窓は締め切られておりました。しかしなにせ満席なもので、生暖かい空気が漂っていたのです。そして前日の私ったら、自然教室があまりに楽しみで寝付けなかったものですから、それはそれはすやすやと眠ってしまったのです。


 鼻がむずむずして私は目を覚ましました。右耳が暖かく、私は広瀬くんの肩に耳を押し付けて眠っていたのだと直感しました。あまりにびっくりしてすぐには起き上がれませんでしたから、ついでにもう少し広瀬くんの肩を借りようと思い目を開けませんでした。


 左耳から「しっしっ」と広瀬くんの声が聞こえてきて、私はたった今起きた風を装って、顔を上げました。広瀬くんは優しいことに、私の方に飛んできたであろうハエを追い払ってくれていました。


「やあ、起きたのかい」


「うん。昨日、眠れなくて」


「僕もだよ」


 広瀬くんの柔らかな笑みに私の頬は赤く染まっていたことでしょう。それをハエがブンブン囃し立てておりました。


「村中さん、今夜の自由時間に、話したいことがあるんだ」


 広瀬くんの言葉はある種の緊張を孕んでおりました。


 私は(愛の告白をされるに違いない)と直感し、体が天に昇るような気がいたしました。私の前世は妖精か何かだったのかもしれません。「だからちょっと時間を貰えるかな」といった広瀬くんの言葉ははるか下方から聞こえてくるようでした。


 バス車内の生徒たちをを上から見下ろし自由気ままに空を飛んでいるような浮遊感に包まれていたのです。「ハエだ」「ハエがいる」「いったいどこから」「窓を開けろ」といったクラスのざわめきは太古の木々の葉ずれの音のように感じられました。


 そして私はようやく広瀬くんに向かってこっくりとうなずきました。相変わらずハエは車内を飛んでいて、生徒たちはわあわあと騒いでおりました。


 私はきっとひどく赤面していたでしょうから、ハエが皆の注目を集めてくれていたのはむしろ好都合でした。どこかで女の子が、「あのハエ、あの子の鼻から出てきたように見えたんだけど」とつぶやくのが聞こえました。



 日中終始上の空だったことは言うまでもありません。無我にして夢中にいるようでした。しかしむしろそれが魚の警戒心を煽らなかったのか、魚つかみ大会で私は両手で次から次に魚をつかみ上げ、気づけば魚籠はいっぱいで、私たちのグループは金賞を得ることができたのです。


 魚つかみ名人だと囃し立てられても私の心は動きませんでしたが、グループの女の子に「広瀬くんとなにかあったの?」と耳打ちされたときには「きゃあ」と動転して川にひっくり返る一幕もありました。


 山歩きをして天狗が腰掛けにしていたとされる大木を眺めたり、カレーを作ってみんなで食べたりしている間も私の頭は広瀬くんでいっぱいでした。


 山の中腹のロッジに到着する頃には、日が暮れかけておりました。普段住んでいるところより標高が高いというのに、山の中というのは暗くなるのが早く、私はソワソワと落ち着かない心持ちでおりました。


 そして今、皆が二段ベッドを揺らして遊んだり、手持ち花火で石を焼いたりしている中、私は共用ロビーの大きな柱時計の横でこれを書きながら広瀬くんを待っております。壊れた柱時計はむっつりと黙り込み、私の日記を覗き見ています。早く広瀬くんに来てほしいと思いながらも、私の胸はザワザワとかき乱されております。


 胸の中にハエを飼うとこんな気持になるのでしょうか。


 広瀬君はなぜ私を呼び出したのでしょうか。


 今、足音が近づいてきています。


 これは広瀬君の足音です。


 またあとで、何があったか書こうと思います。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る