1月7日 ノンちゃん(4)

 部活や勉強、日々の生活に忙しく、日記がご無沙汰になってしまいました。

 今日はノンちゃんに関して重大な事件がありまして、それを書いていきます。



 順を追って説明しましょう。今年は正月らしい正月を過ごさぬまま年が明けました。その元日のこと、私はひとり初詣に近所の神社にゆきました。


 今年の冬は暖冬だそうであまり気温が下がりませんでしたが、元日だけは一年の始まりにふさわしいキリリとした寒さで、私は手持ちの服で一番温かな、ウサギのような白い毛のコートを着て、神社に行ったのでした。


 神社は裏手に立派な庭園を持っており、そこは人通りが少ないものですから、私のお気に入りの場所でした。そして、いつかここでシェリー奥様が(あら、蝋梅の良い香りがするわね)と言っていたのを思い出し、さみしくなったのでした。


 その時私は(鼻が冷たくて、香りなんかしないわ)と言ったと思います。しかしなるほど、裏庭の黄色い花からはキュンとする香りがして、シェリー奥様が隣にいてくれたらいいのに、と思いました。


 ふと人の気配がして、私は思わず隠れるようにしゃがみました。すると蝋梅の香りは遠のき、土の香りが鼻につきました。


 裏庭に入ってきた男女は、並々ならぬ関係のように見えました。女は羽毛のたっぷり入った薄黄色の上着を丸く着て、男は茶色の膝丈のコートを長く着て、それはちょうど蝋梅の花が一つついた枝を思わせました。


 男は真面目な大学生ほどの年齢でしょうか。野次馬根性旺盛な私は女の顔を覗き見ようと身を乗り出しました。


「なあ、ボクとお付き合いしてくれないかい」


 男がそういうのが聞こえ、私は亀のように首をすくめました。そしてやはりムクムクと沸き起こる好奇心を抑えきれず、私は亀のように首を伸ばしました。


 女はニット帽を被り、マフラーに顔を埋めていて、その人相をうかがい知ることはできませんでした。


「ノゾミさん、好きだ」


 男はそう言うと女を抱きしめ、その表紙にニット帽は落ち、女の肩上で切りそろえられた髪がフワリ広がりました。


 ノンちゃんです。女はノンちゃんだったのです。私はもうびっくり仰天してしまって、天地がひっくり返ったかのように尻もちをつき、這うように裏庭を逃げ出したのです。




 今日、遊びに来たノンちゃんは全く持っていつも通りで、私は元日の出来事は夢ではないかしら、と疑いました。最近の私達は、シェリー奥様が残した様々な衣装を着て遊ぶことに夢中になっておりました。


 シェリー奥様はお洋服を作るのが好きな質でしたから、小劇団に様々な衣装を提供していたのです。だから、探偵や侍、ドレスやピエロなど多種多様な衣装が仕舞われてあったのでした。


 今日も同じように遊んでいたのですが、私は、袖を折り返したツイードのジャケットを着た名探偵になりきって、大きい犬になりきったノンちゃんにこう言いました。


「先日私はある事件を目撃してしまいました。元日の午後、神社の裏のお庭でのことです」


 そう言っただけで、ノンちゃんはひどく狼狽したのがわかりました。それは同時に私をも狼狽させました。


 私はやはりあの日の出来事に現実味がなかったのでしょう。嘘だと信じたかったのでしょう。ノンちゃんが狼狽えたことでそれが真実だとわかり、私は胸を抉られるような思いがしました。


 私は頭が真っ白になっていましたが、口だけは自分の意思と反して流暢に動いておりました。


「そこにあらわれた男女は、なにやら睦まじげな様子で抱き合いはじめたのです」


 私がそう言うと、ノンちゃんは顔を真赤にして、とつとつと語り始めました。


「あのね、私、家庭教師をね、大学生にね」


 ノンちゃんの言葉に、どうしたことか私はひどい裏切りを感じました。


「それでね、付き合うことになって、手をね、つないで」


 ノンちゃんに恋人ができたのです!


 ああ、今思えば私はなんと狭量で偏屈で意地悪な人間なのでしょう。ノンちゃんの話しを聞いて、あの日見た男女が手を握りあって帰る様子を見て、私は激しく嫉妬したのです。


 競争していたわけでもないのに、先を越されたと思いました。親友の恋を喜べないだなんて、私はわたしがこんなにも小さな人間であることがほとほと嫌になります。


 しかし自分に嘘はつけません。私の胸は餅が焦げそうなほど嫉妬に燃え、胸でチンチンに焼いた石に熨斗をつけてノンちゃんに投げつけてやりたいとさえ思いました。


「ふうん、じゃあ私達、あまり遊べなくなるわね」


 まるで私の体が誰かに乗っ取られたかのように勝手に口が動き、気づくとこのような意地悪を言っていました。


「そんなこと言わないで」


 ノンちゃんがスンと鼻をすすり、私の脳裏にぱっと広瀬くんが浮かびました。そして、ノンちゃんを傷つけたことにハッとしました。嫉妬して意地悪を言う人のことを、はたして広瀬くんが好きになってくれるでしょうか。そう思い私は顔の細胞一つ一つに神経を集中させ、動かし、精一杯の笑みを浮かべ


「嘘よ、ノンちゃんに恋人ができて嬉しいわ」


 と言いました。しかしまぶたの細胞だけが言うことを聞かずひくひくと動き思い通りにならなくて、私は顔をそむけました。それが、私の精一杯でした。


 隙間風がピイと鳴きました。私は鼻をスンと鳴らしました。胸がシクシクと痛んでどうしようもありませんでした。


「ルリ子ちゃん、私と親友でいてくれる?」


 ノンちゃんはか細い声で私にそう尋ねました。私達はこれまで喧嘩らしい喧嘩などしませんでしたが、唯一このときだけは関係が終わる危うさがありました。


 私は急にノンちゃんを失うことが怖くなって、彼女の体に抱きつきました。いつか広瀬くんに手首を掴まれたとき、男性の肌というのはこうもゴワゴワしたものかと驚いたのですが、ノンちゃんの肌はもっちりと厚く、細糸で織られたウールのような滑らかさがありました。


 私の肌は、昔シェリー奥様に「絹のようね」と言われていましたから、肌というものは男女ではなく人それぞれで違うのかも知れません。


「ごめんね。羨ましかったの。私、さっきノンちゃんにとても酷いことを考えたわ。ごめんね」


「うん、うん。あのね、私も酷いのよ。ルリ子ちゃんが広瀬くんに恋してるって聞いて、大人なルリ子ちゃんに嫉妬したの」


「悪い子の私をきつく抱いてちょうだい。うんときつく抱いて」


「うん、うん。私も、私のこともきつく抱いて」


 昔の私であれば打ってちょうだいとお願いしたことでしょう。


 しかしシェリー奥様のお陰で、きつく抱かれることで悪い気持ちが霧散することを知りました。私の胸の中では感情がひしめき合っておりました。恋人がいるノンちゃんのことは嫌いでしたが、親友のノンちゃんのことは大好きでした。その気持が胸の中でワンワン鳴っておりました。


 学校で習ったところによると、熱というのは分子の運動だそうです。熱いお湯の中では分子がワンワン飛び回っていて、その運動が熱の正体なのだそうです。


 私の胸も熱く、中で羽虫ががワンワン飛んでいるようでした。大嫌いで大好きなこの感情を、ノンちゃんに知ってほしいと思いました。感情の羽虫が私の胸を食い破って、ノンちゃんのおへそから中に入れば良いと思いました。


 そうして感情を交換できれば、簡単にわかり合えるのに。同じ温度になれるのに。しかしそんなことはありませんから、私達はたっぷりと抱き合い、ゆっくりとその熱を交換しました。そして西日が窓から差し込んだところでその体を離しました。


「ノンちゃんと恋人が幸せになれますように」


「ルリ子ちゃんと広瀬くんが幸せになれますように」


 私達はそう言い合い、赤い顔で照れあったのでした。


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