9月30日 シェリー奥様(2)

 シェリー奥様が家を出ていく予兆は前々からあったように思います。


 観劇だなんだと理由を付けて家を空けることが多くなったなあとは感じていましたが、私は学生生活を謳歌しておりましたし、村中先生は研究がうまくいっておらず、ラボにこもり切りになっておりました。だから誰もシェリー奥様の様子に気に留めておりませんでした。


 以前村中先生が発見した万能細胞には、重大な欠陥がありました。あらゆる傷や病気の細胞を治すことができる蛆ですが、蛆は寄生した生き物の体の中で分裂、増殖することがわかったのです。


 蛆は細胞に擬態した後、細胞が分裂するように分裂し、周りの細胞を食べてまた大きくなり、分裂を繰り返すのです。脳まで蛆に侵食されたネズミは、一見ただのネズミですが、その実蛆の集合体なのです。


 蛆化したネズミは、およそ感情というものが欠落しているようでした。他のネズミと仲良く喧嘩していたり、恋人と仲良く睦語っていたりしていたネズミでさえ、蛆化すると他のネズミには興味を失い、虚無の表情で何かを求めてグルグル歩き回るだけとなるのです。


 村中先生は投薬によって蛆の侵攻を止めようとしていましたがとても難しいようで、多くのネズミが犠牲となりました。私は先生に代わって、蛆化したネズミを処分するのを手伝っていました。でないと何かを求めてグルグル回るネズミたちでラボが溢れかえってしまいますから。


 桶いっぱいに入ったネズミを洗浄槽に入れてスイッチを入れますと、ブーンという低い音とともに部屋が少し暗くなり、ガラスの洗浄槽に水が満たされます。殺菌のための青い光に満ちた光の中で、ネズミたちは溺れまいと懸命にもがきますが、ぐるぐる回る水の中でやがて力を失っていきます。


 そしてぐるぐる回っていた大量のネズミ達は示し合せたように脱力し、水中をただ回るだけになります。やがて、ネズミ達の体は解けるように崩れてゆき、蛆たちが正体を現します。


 白い蛆たちは澄ました顔で洗浄槽の中いっぱいに渦巻いて、それは青い光と相まって、スノードームのようでした。そして私が見とれているうちに排水が始まり、蛆は水とともに排水溝へと流れ、低いモーター音の底へと消えていきます。


 床下で高速で回転する刃に刻まれる蛆を想像すると、少しかわいそうな気もしますが、儚い命の美しさも感じることができました。


 それにしても、村中先生が私の体から蛆を取り除いていなかったら一体どうなっていたことでしょう。私も蛆化ネズミと同じように、虚無の顔でぐるぐる回るようになるのでしょうか。そんなことを考えますと、どうしようもない気持ち悪さが、私の胸の中でザワザワと蠢くのでした。




 昨日も同じように蛆化したネズミを排水しておりますと、背中にふと視線を感じました。振り返りラボの入り口を見ますと、そこにはシェリー奥様が立っておりました。


 その時村中先生は精も魂も尽き果てた様子でラボの真ん中でお腹を出して眠っておりました。シェリー奥様は眠る村中先生をぼうっと眺めておりました。その顔は青い光に照らされていて、私はぞっとしました。


 まるでシェリー奥様が感情を失ったネズミのように見えたのです。そういえば、初めて村中先生が万能細胞を見つけた日、シェリー奥様は


「じゃあ、その万能細胞で私の顔のシミやホクロも取れるのかしら」


 とおっしゃっていました。私は


「いやあねえ、シェリー奥様。シミやホクロは普通の治療で取れるでしょう。万能細胞はもっと上等な治療に使わなくちゃもったいないわ」


 と言いました。青い光に照らされたシェリー奥様の顔は、いつ治療したのか、シミもホクロもなく、全く持ってきれいなものでした。やがてラボに白い光が戻ると、シェリー奥様はハッとしたように私を見て、「研究もいいけれど、夕食が冷めちゃうわ」と繕うように言いました。



 私はシェリー奥様がいなくなってしまうことを予感していたのでしょうか。夕食を食べてからはシェリー奥様に付きっ切りでおりました。一緒に食器を洗い、今朝の朝食のための北里巻きを一緒に拵えておりました。


 どこのご家庭にも独自の料理があるように、北里巻きというのはシェリー奥様の創作料理です。それは、北里柴三郎紙幣に刷毛でごま油を塗り、海苔の佃煮を巻いたごく簡単な料理です。


 そしてそれは村中先生の大好物でした。一晩おいてシナシナにさせた普通の北里巻きも「うまいうまい」と言って食べ、素揚げにしたものも「うまいうまい」と言って食べ、海苔の佃煮の中に少しのワサビや明太子、時には短冊に切ったゴボウや山芋を巻いたものも「うまいうまい」と言って、毎朝ごはんのお供にしておりました。


 シェリー奥様は材料の準備を私に手伝わせることはあっても、具材を紙幣で巻く作業は必ず自分でやっていました。


「一緒に暮らすようになってから、これだけは私の譲れない仕事なのよ。先生が『うまいうまい』って喜ぶ顔を想像しながらこうして巻いている時間が私は好きなのね」


 と以前おっしゃっていました。だからその晩もシェリー奥様が北里巻きを拵え始めたことに安心しておりました。


 やはり胸のどこかで、奥様の村中先生への愛情がなくなったのではないかと危惧していたのでしょう。しかし、北里巻きを巻き始めたということは、シェリー奥様はまだ村中先生のことを愛しているのだと愚かな私は早合点してしまいました。


 洋風のキッチンは裏庭に面していて、大きな出窓からは手入れの行き届いた木々と、鯉が泳ぐ池を眺めることができました。私がふと気分を変えようと窓を開けますと、「エイ、オー、エイ、オー」の掛け声とともに、食後の四足散歩に励む村中先生が通りかかりました。


(あら、奥様が愛する人のお通りよ)


 と冷やかそうと奥様を振り返りますと、シェリー奥様は手を止め、窓の向こうに虚ろな目を向けていました。口を半分開き静止する様は、急に痴呆になったのではないかと思われるほどでした。その虚無の表情に、私はぎょっとしました。


「シェリー奥様は、村中先生を愛しているのよね」


 私が恐る恐る聞きますと、シェリー奥様は首を捻り私に顔を向けました。そして表情を変えず「ええ」とおっしゃいました。一拍遅れて、シェリー奥様の顔の上で筋繊維がざわざわと動き、笑みをかたどりました。


「ええ、愛しているわ」


 それは、嘘をついている人の顔でした。


 その晩私はなかなか寝付けず、頭のなかで青い光と渦を巻く白い蛆たちがグルグルしておりました。私は村中先生とシェリー奥様が大好きで、ずっと一緒にいたいと思っておりました。


 シェリー奥様は昔、「人の気持ちは変わるものよ」とおっしゃいました。それを思い出しておりました。夜半過ぎ、ギイ、ギイ、という階段を上る音が近づいてきたかと思うと、私の部屋の扉が静かに開かれました。シェリー奥様です。私は明かりを落としてベッドで目をつむっておりました。


 部屋の床がギイと鳴りました。私はなんだか怖くて、目を開けられずにおりました。


「愛しているわ」


 シェリー奥様は一言つぶやくと、ギイ、ギイ、と部屋を出て行かれました。そして、しばらく後に車のエンジン音がしました。


 私は目を瞑っていましたが、そのエンジン音から情景をありありと想像することができました。シェリー奥様は、大きなボストンバッグを持っていることでしょう。羊毛のブルーのブラウスに、白い真珠のネックレスをしていることでしょう。そして、ヘンドリックの車に乗り込むのです。


 そしてシェリー奥様とヘンドリックは愛の抱擁の後、村中家を後にするのです。車が砂利を踏む音が、私の耳に遠のいていきました。そして夜は、全くの無音になり、私は眠りに落ちました。




 今朝、私は早くに目を覚まし、シェリー奥様の部屋に伺いました。調度品の類はそのままに、シェリー奥様だけがポッカリといなくなったその部屋に、私は深い悲しみを覚えました。


 村中先生はシェリー奥様がいなくなったことに、「そうか」とただ一言放ったきりでした。しかし言い知れぬ悲しみが伝わってきました。村中先生はシェリー奥様をまだ愛していたのです。


 シェリー奥様の気持ちが変わってしまった今、村中先生の気持ちはどうあるべきなのでしょうか。私は村中先生がとても可愛そうでなりませんでした。



 北里巻きに使われる海苔の佃煮は週に一度、漬物屋の大河内おばさんが「いつもの置いてくよ」と持ってきてくれます。今日の午後、私は漬物屋さんに出向いて、「他の種類の海苔の佃煮もあるのかしら」と聞きに伺いました。


 今思えば、シェリー奥様がいなくなったことで、私も心の在りようがわからなくなっていたのでしょう。


 大河内おばさんはちょっと怪訝な顔をして、「いつもの奥さんが、普通の海苔の佃煮だと体に悪いからって減塩を選んでるけど、変えるのかい」と言いました。


 私はシェリー奥様の気遣いにはっと心打たれ、そして同時にこれだけ深く愛していても心変わりしてしまう人間の業を深く恨みました。


 シェリー奥様もきっと心変わりなどしたくなかったことでしょう。村中先生も可愛そうですが、シェリー奥様もまた不幸の人なのです。そう思うと自然と涙が溢れ、シェリー奥様がいなくなって初めて私は涙を流しました。


「あら、ルリ子ちゃん、どうしたんね。おばちゃんに話してごらん」


 私はそんな大河内おばさんの優しさに触れ、ことのあらましをすっかり話してしまいました。大河内おばさんはそのふくよかな体で私を抱いてくださり、漬物の甘酸っぱいような、塩辛いような香りは私の涙腺を刺激し、私は大河内おばさんの胸の中でわんわんと泣いてしまいました。


「ルリ子ちゃん、悲しくなったらおばちゃんのところにおいで。いつでも泣いていいからね」


 そんな大河内おばさんの優しい言葉に甘え、日が傾くまでおばさんの胸の中におりました。


 大河内おばさんの力は絶大で、私はすっかり大丈夫です。家に帰ると村中先生の脱ぎ放したお洋服をチャキチャキと洗濯し、お夕飯をこさえました。


 男やもめに蛆と言いますが、私は村中先生に蛆がわかないよう、シェリー奥様の代わりにこれから先生の身の回りのお世話をしてあげようと思います。


 先生は相変わらずラボにこもっておいででした。様子を見ると、動作の節々から悲しみを発散しており、研究こそが先生のぽっかり空いた穴を埋める手段なのでしょう。


「先生、研究もいいけれど、お夕飯の時間よ」


 そう言って、私は先生と二人きりの夕食をとったのでした。


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