6月14日 村中先生(2)

 今日はすごい実験を村中先生に見せていただきました。

 昨日はとても疲れて、今日はずいぶんお寝坊でしたが、村中先生の「ルリ子くん! ルリ子くん!」という声で目が覚めました。


 村中先生のお宅は昔の政治家が別荘として使っていたらしい西洋のデザインを取り入れたお屋敷で、山の中の「村中医院前」のバス停を降りるとすぐのところにあります。


 一階にも二階にも採光用の大きな窓があり、それは白い窓枠で均一に区切られています。そして白い壁はブラウンの付け柱によって碁盤目に区切られており、ヤモリを模した鋳物の門扉とその奥の手入れの行き届いたお庭、そして瓦屋根のお家は不思議と自然と調和していて、すこし古いことを除けばとても素敵なお家です。


 一階にはリビングやダイニング、ベランダ、シェリー奥様のお部屋、浴室や台所、納戸など生活の一切が完結するお部屋たちがあります。本当は村中先生のお部屋もあるのですけど、


「毎日同じ部屋で同じ向きで寝るなど我慢ならん」


 と村中先生が言うので、村中先生のお部屋はシェリー奥様が集めた趣味のコレクション置き場になったそうです。ですから、村中先生はいつも好き勝手なところで寝ています。


 そういえば昔、夜中に暗い中手探りでおトイレに行き、中で寝ていた村中先生のお顔を踏んでびっくりしたことがございました。私は心臓が止まるほどびっくりして「ギャア」と叫び、先生におしっこを引っ掛けてしまったことがあります。あれも今となってはいい思い出です。


 私の部屋は、玄関を入ってすぐの階段ホールを上った二階の洋室にあてがわれました。とは言っても二階は普段村中先生もシェリー奥様も使いませんから、手前の学習机とベッドがある洋室も、奥の何も無い広い和室も、二階のすべてが私の部屋だと言っても過言ではありません。


 その二階への階段をバタバタと鳴らし、村中先生が駆け上がってきますと、


「ルリ子くん、君に私の世紀の大発見を見せてやろう」


 そう言って私を起こしにきたのです。

 なにか良い研究結果が得られたのでしょう。村中先生は興奮を抑えきれないといった様子でした。




 先生のラボは離れにあり、外から見るとただの古びた物置蔵に見えますが、中に入るといくつも扉があり、ホースから出る強い風で全身のホコリを飛ばす部屋だとか、顔や手足を洗う部屋だとか、顔や手足にクリームを塗る部屋だとか。そしてそれらをこなさないと次の扉が開かないカラクリが施されていました。


 ようやくすべての扉を抜けて地下に降りますと、そこは一面銀ピカのステンレス製で、それはそれは未来的な内装をしていました。


 入って一番最初に目を引くのは、正面の巨大な円筒形の洗浄槽でしょうか。私は先生のお手伝いでこのラボに何度か入ったことがあるのですが、この洗浄槽が大好きでした。


 それは大人の人でも悠々入れる大きさで、分厚いガラスでできていました。


 実験が終わって、汚れた器具やゴミなどをまとめてこの中に入れスイッチを押しますと、ぶうん、と言って起動します。そして、この洗浄槽に電気を取られて部屋が少し暗くなります。そしてそして、槽が殺菌のための青い光を放つのです。


 やがてゴボリ、ゴボリと泡の音がして槽は洗浄水で満たされます。層の中で銀ピカの器具たちが青い光とともにくるくる回り、その光はラボいっぱいに広がって、反射し、とてもとても幻想的な空間になります。


 あとは床下のモーターの駆動音とともに排水が始まり、ゴミは床下のディスポーザーの回転刃に砕かれ、全ては下水に、ラボはいつもの白い光に戻り、現実世界に帰ってくるのです。




「ルリ子くん、君に特別な実験を見せてあげよう」


 咳払いをした先生の手には、ネズミが入った籠がありました。


 ラボの更に下の階では、大量の実験用ネズミを飼育しております。そのネズミは、デバデバナブタネズミという種類で、外国のネズミだそうです。出っ歯で出っ鼻で、世を拗ねたおじさんのようで、なんだか可愛い見た目をしていました。


 出張った歯で噛まれたら痛かろうと思いますが、私がネズミ籠に手を入れますと、何匹かのネズミは私の指に噛みつこうと一生懸命になりますが、残念ながら出張った鼻がぶつかるばかりで噛みつけないのです。


 そうして何度か噛みつこうとしては鼻をぶつけ、最後には「どうしましょ」と言うように私を見上げるのです。そういうところも可愛いなあと思います。


 ネズミたちには体毛が無く、長湯にふやけた親指のようにも見えます。毛が生えていませんからラボを汚すことなく、子供をよく作り、おまけにほとんど鳴かないものですから、実験のためには最適な種類なのだそうです。


「ルリ子くん、君のお腹から取れた虫卵を覚えているかい」


 先生はほんの少し息を潜めてそう言いました。その様子に私は、(これはいよいよ大変な実験らしい)と持ち前の好奇心がむくむくと沸き起こりました。


 私がこっくりとうなずきますと、村中先生はステンレス台の下の扉を開け、海苔の佃煮の瓶を取り出しますと、その中にびっしり詰まった虫卵を見せてくれました。


「虫卵が生きていることまでは容易にわかったのだが、こいつの孵化条件が分からんでな、いろいろ試しておったのだ。これがなかなか苦労しての、しかしようやくそれがわかった」


 村中先生は興奮されておりましたが、私には卵が孵化したからと言って、大騒ぎするほどのこととは思えませんでした。ネズミは呑気に籠の中でウロウロしていました。


 村中先生はゆっくりと籠からネズミを取り出し、それをまな板の上に押さえつけますと、ナイフで腹の一部を小さく切りました。そしてその横に一粒の虫卵を乗せました。


 私は先生に促されるまま、大きなルーペで虫卵を観察しておりました。ネズミの腹の切り口からは、血がゆっくりと滲み、ぶどうのような玉になったかと思うと肌を滑り落ちました。するとどうでしょう。傷の隣に置かれた虫卵の中で黒い点がクリクリと動き始めたのです。


 そして、中から白い蛆が虫卵を破って顔を出したのです。先程の黒い点は蛆の目でありました。蛆は身をよじって虫卵から這い出してきたのです。


「こいつは、傷口から発せられる酸に反応して孵化するんだ」


 私は蛆の様子から目が離せませんでした。蛆はぬたぬたと這って、ネズミの腹の傷のもとに行きますと、その傷の周囲を食み始めました。そしてしばらく食べ続け、傷口を広げますと、そこに自身の体をすっぽりと収めたのです。


 私が観察を続けますと、蛆の輪郭がやおら崩れ始めました。私は「あっ」と声を出して顔を上げました。そして次にルーペを覗くと、蛆も噛み跡も一切消えてなくなって、いつものふやけた親指のような肌があるだけでした。


「次にこのネズミを見てごらん」


 先生が示したネズミは、両の目が白く曇っておりました。


「生まれつきの病気でな、かわいそうに、目がほとんど見えんのだ」


 村中先生は愛おしそうにネズミを左手で包み、指先で器用に頭を撫でました。それから、右手に持ったナイフでネズミの両目をぷっつり、ぷっつり、と刺しました。そしてまな板の上に押さえつけますと、いくつかの虫卵を小さなネズミの額に盛りました。


「蛆は宿主の身体を食い、その細胞に擬態するんだ。筋繊維を食えば筋繊維に擬態し、胃を食えば胃に擬態する」


 村中先生は興奮を押し殺そうとしているのか、その声は震えておりました。私はじっとルーペを覗き込んでおりました。ネズミの目の傷に反応したのか、虫卵から一斉に蛆たちが這い出してきました。


「擬態した蛆はその細胞の役割を全うしようとする。筋繊維になったものは伸縮し、胃になったものはは胃酸を出す」


 村中先生の声は次第に熱を帯び、ラボのステンレスに反響しておりました。蛆たちはネズミの目を思い思いに食い進め、潜り込み、その穴に体を収めてゆきました。


「欠陥のある細胞を食ったときには、宿主のため、正常な細胞に擬態する!」


 先生の声がわんわんと頭に響いておりました。蛆はその輪郭をゆっくりと崩し、黒い色彩を帯び、ネズミの目を形作りました。


「万能細胞だ! 万能細胞、ワシが発見したんだ!」




 こんなに素晴らしいことがあるでしょうか! この蛆はあらゆる病気や怪我を克服する可能性を持っているのです。ネズミはキョロキョロと辺りを見渡しておりました。その口は呆けたように開いておりました。初めて見る鮮明な景色に驚いた様子でした。しかしすぐに両目をキラキラさせて、ピョンピョンと喜びいっぱいに跳ね始めたのです。



「万能細胞バンザーーーイ!」



 村中先生はあまりに興奮されたため白目を剥いて卒倒し、体を痙攣させ始め、私は大慌てで常備のトンプクを取りに行ったのでした。


 私はあまりに感動し、まだ夕食前だというのにこれを日記に書かずにはいられませんでした。やはり村中先生は偉い先生なのだなあと尊敬します。私もいつか、世のため人のためになるような、偉いことができるのでしょうか。いいえ、これはきっと選ばれた人にしかできないのでしょう。しかしほんの少しでも、誰かのためになるようなことができればいいなあと思います。


 そう思うと、胸の内でやる気がムクムクと湧き上がってくるのです。


 シェリー奥様が夕食の準備を始めてので、手伝ってきます。今日はここまで。

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