6月13日 広瀬くん(4)

 今日はたくさん泣いて眠れそうにありませんから、ゆっくり書いていきます。


 さて、世の女性は、初めてお化粧姿で外出したときのことを覚えているものなのでしょうか。家の中では素敵に見えても、いざ一歩外に出て、人目にさらされた途端に不安になったりするものなのでしょうか。


 少なくとも私はそうでございました。今朝は早起きし、シェリー奥様にお風呂でもみあげとうなじの産毛を剃っていただき、髪を丁寧に解いてもらいました。それからパンとサラダのブランチを食べ、あの衣装に袖を通しました。


 シェリー奥様は私の肌にごく薄くお化粧を施してくれました。目元と小鼻に影を入れ、鼻筋に光を入れ、唇と頬の色を整えるだけのごく簡単なものです。それだけですが、自分のことながらハッと目を引くほど美しく見えました。


「じゃあ、行ってくるわ」


 しかし、そう言って一歩外に出ますと、急に不安に襲われました。なんだか自意識を肌に過剰に塗っているようで、一歩進むごとに自分がピエロに思えて仕方なく、すぐに家に駆け込んで顔を水で洗いたいような気持ちになってきました。


 しかしそれはシェリー奥様に悪いですし、「とっても素敵よ」と言ってくれたシェリー奥様の言葉を胸の内で念仏のように何度も繰り返し、ようやく待ち合わせの校門前にやってきたのでした。


 待ち合わせの三十分前だというのに、広瀬くんはもう私を待ってくれていました。広瀬くんは学校指定のシャツとスラックス姿で、いつも見る運動着とは違ってとてもシックで素敵に見えました。私は自分が変じゃないか不安で不安で一杯でした。


「広瀬くん!」


 そう呼びかけた私の声は随分上ずっておりました。


「待った?」


 広瀬くんはその問いには答えず、私の身体をまじまじと眺めました。


「やあ、いつもと様子が違って見えて、遠くからじゃ分からなかったよ」


 私はそれだけでは広瀬くんの真意がつかめず、(いい意味かしら、それとも悪い意味かしら)とざわざわ胸をかき回されているような心持ちになりました。


「あのね、お化粧したの。お洋服もおろしたてなの」


(変じゃないかしら)そう尋ねたかったのですが、言葉が胸につっかえ、私はいつものように話すことができませんでした。

 広瀬くんは再びしげしげと私を眺め、


「なんだか眩しく見えるよ」


 と柔らかくほほえみました。バドミントンではいつも眉をしかめてああだ、こうだ、言っている、ちょっと意地悪な広瀬くんが私を褒めてくれたのです! 褒めてくれた!


 私は空っぽのヤカンで脳天を叩かれたかのようにぼうっとのぼせ上がり、喜びが胸の内から迫り上がってくるのを感じました。


「エヘ、エヘ」


 胸の内の喜びは喉を通って笑いとなって口から漏れ出ました。私はそれが恥ずかしくって、「エヘ、エヘ」と口から漏れる笑いを、必死になって両手で抑えつけたものです。


 今思えば、私も広瀬くんのことを(シックで素敵よ)と褒めてあげるべきでした。しかし許してください、私はこれ以上ないほど舞い上がっておりましたので、とてもとてもそんなことはできませんでした。

 



 隣町のクリニック行きのバスの中で、私はいったい何を話したのでしょう。ただただ舞い上がって、ひっきりなしに他愛もない話をしていたように思います。それはおそらく、バスの座席がそうさせたのでしょう。


 バスの座席を設計した人は、きっと恋をしていたのだと思います。静止しているときにはふたりの肩は触れないのに、バスが右に左に曲がって揺れると身体も揺れて、袖口がふわりふわりと当たるのです。それだけで、会話が弾むというものです。


 隣町は私達の町よりよほど栄えていて、その中でもクリニックは一層近代的な見た目をしていました。壁の白も大きなガラス窓も清潔で、中に入るのはちょっと落ち着かない感じがいたしました。


 クリニックの待合室では何人かのご老人がむっつりと彫像のように座っておられました。広瀬くんが受付をしている間、私はどうにも居心地が悪く、ソファにも座らずソワソワとしていました。


 そこは村中先生のラボとは違い、よく整頓され、院内の空気はほのかにハッカと白樺の香りを含んでおりました。しばらく待ってようやく広瀬くんに声をかけられ、待合室のご老人の視線を感じながら、広瀬くんを追って長い廊下を進んでいったのでした。




 広瀬くんは慣れた様子で廊下を進み、ひときわ大きな扉を開けると、学校の体育館のような部屋に出ました。学校と違い、そこには様々な運動器具やコンピュータが並んでおりました。


 最初こそ圧倒されましたが、私は広瀬くんと手を繋いでランニングマシンで走ったり、見つめ合いながらステップで昇降運動する様子を思い浮かべ、その甘美な妄想に心をときめかせました。


 スニーカーを履いてきた私を褒めてあげたい気持ちになりました。本当は白いヒールの付いたサンダルのほうが似合うかと思ったのですが、もしかするとクリニックの後に公園に行くかもしれないと、玄関ではっと気づいてスニーカーにしたのです。


 そうして(ぶら下がり器にぶら下がった私の背を広瀬くんが押して揺らしてくれたら、それはとてもロマンチックだわ)などと考えたところでお医者様がいらして、私は端で見ているよう言われシュンとしたのでした。




 広瀬くんは運動着に着替えて、体中に電気ケーブルの伸びたシールを貼られ、ランニングマシンで走ったり、ダンベルを持ち上げたりしておりました。最初はその姿にじっと見入っておりましたが、だんだん退屈してきまして、こっそりお医者様のパソコンを覗き見ますと、何やら複雑な波形が動いているのがわかりました。


「知っているかとは思うけれど、彼は難しい肺の病気なんだ」


 お医者様は肩越しにチラチラと画面を見る私が気になったのか、どこか取り繕うようにそう言いました。


「ほら、これが正常な酸素摂取量の線だが、広瀬くんのはどれもこの線に達していないだろう」


 広瀬くんの呼吸に合わせて、パソコンの画面の中の線が膨らんだり窄まったりしておりましたが、お医者様が指さした正常な線にはちっとも届いておりませんでした。広瀬くんのゼエゼエという呼吸が私の耳にやけに大きく聞こえてきました。


「可哀想に」


 お医者様はポツリと言って、私は広瀬くんのなにか重大な秘密を知ってしまったようで、ゆっくりとつばを飲み込みました。その時の広瀬くんは自転車を漕いでいて、規則的なペダルの軋む音と、不規則な呼吸が響いておりました。


 広瀬くんはとても辛そうな汗を流し、顔を真赤に歪めておりました。そしてあろうことか、私は彼から目を逸らしたのです。


 これはいったいどういうことなのでしょう。普段は広瀬くんのことをいつまでも見ていたいと思うのに、このとき私は広瀬くんのことを見ていられないと思ったのです。


「人の気持は変わるものね」


 いつかシェリー奥様が言った言葉が急に思い出され、私は胸の内で「違うの」と反論しました。広瀬くんの知らない一面にびっくりして目を逸らしただけで、私が広瀬くんのことを嫌いになったわけではないのです。


 そうしてもう一度ゆっくり広瀬くんのことを見ました。私が恋をしている男の子が苦しそうに自転車を漕いでおりました。私はもう目を逸らすことはなく、「広瀬くん、頑張って。広瀬くん、頑張って」と胸の中でエールを送っておりました。


「つまらなかっただろう」


 検査が終わり身体を拭いて着替えた広瀬くんは、さっきまでの辛そうな顔はどこへやら、いつも通りの顔色でそう言いました。どこか私はホッとして、「ううん。疲れたでしょう」と言いました。


「検査の後はクールダウンのためにね、少し中庭を歩くことにしているんだ」


 売店で広瀬くんはペットボトルのスポーツ飲料を、私は甘い乳酸菌飲料を買って、中庭に出ました。広瀬くんはよほど喉が乾いていたのか、買ったばかりのスポーツ飲料をゴクリ一息に半分ほど飲みますと、ふうっと大きく息を吐きました。


 土と木の多い中庭は心地よい暑さで、蝉の鳴き声やそよ風、歩いている鳩が私達を賑やかしておりました。


「スマッシュ! 白羽根マリン」によりますと、デートをすると、男性は女性に愛の告白をするものだそうです。私は緊張しきりで広瀬くんの横顔をチラリと見ては素敵だなあと思ってすぐに恥ずかしくなり、また我慢できずにチラリと見ることを繰り返しておりました。


「がっかりしたろう」


 日の当たり具合がちょうどいいベンチを見つけてふたりで座りますと、広瀬くんはそう言いました。先程私が彼から目を逸らしたことを責められているような気がして、胸がチクリと痛みました。


「僕はあと何年生きられるかわからないと言われている」


 広瀬くんは意図的に感情を排したように言葉を続けました。


「だけどね、僕はきっと治ると信じてトレーニングしているんだ」


 広瀬くんは私のことをまっすぐに見て言いました。私は勉強のよくできる生徒でございます。国語のテストもいつも満点です。恋愛学には疎い私ですけれど、広瀬くんが私の気持ちに気づいて、それを断ろうとしていることを察してしまいました。彼の真剣な眼差しに私の心は動揺しておりました。


「私、広瀬くんが好きだよ」


 その言葉は、私の口から自然とこぼれました。愛の告白は男性からするものなのに、私は自分の口からこぼれ出た言葉に本当に驚き、思わず乳酸菌飲料のペットボトルを落とした程です。飲料はドクンドクンとボトルから溢れ、それは土に染み込み黒い染みとなって消えてゆきました。


 しかし私の胸は広瀬くんへの想いでいっぱいいっぱいで、ほんの少し揺れただけでこぼれてしまうのは仕方がないことだったのです。そう言ってしまうと、私が彼をどれほど慕っているか、言葉を尽くして語らずにはいられませんでした。いっぱいいっぱいのこの感情を、すべて吐き出したいと思いました。


「すまない」


 しかし、私の気持ちは広瀬君の「すまない」の一言で、すべて引っ込んでしまいました。


 そして行き場を失った私の気持ちは、目から大粒の涙となってこぼれました。私自身その目まぐるしい体の変化に取り残されておりました。涙を落として、「アレ?」と思った後で、広瀬くんに拒絶されたことを理解したのです。


 理解してしまうと悲しみが胸の中でごうごうと渦巻き、次から次に涙が溢れ頬を滑り落ちました。そして気がつけば、私は人目もはばからず赤ちゃんのようにワァワァと声を上げて泣いておりました。広瀬くんはひどく狼狽して、私はどんどん悲しくなって、一層の声を上げて泣き続けました。隣の広瀬くんはただただオロオロするばかりでした。




 日が傾きかけたころ、ようやっとのことで落ち着きますと、広瀬くんは「すまない」ともう一度言いました。私はまた泣きそうになりましたが、今度はぐっと堪え、「うん」と言いました。


 広瀬くんは私を傷つけたことを気負ってか頭を垂れていて、それがとても可愛そうで、私は広瀬くんの背中を撫でてあげました。彼の背は細く見えましたが、病気など嘘であるかのような筋肉の弾力と骨の硬さ、そして体温が手の平に伝わってきました。そうして、私はやはり広瀬くんが好きなのだと再認識したのです。


「暗くなる前に帰りましょう」


 こうして悄気げたふたりは無言でバスに揺られ、帰路についたのでした。


 シェリー奥様、何も聞かないでくれてありがとうございます。

 少し眠くなってきましたので、ここまで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る