第12話
葉月は秀の温かな視線から逃げるように、スマホのタスク管理アプリを起動した。
「上屋敷くん。じゃなかった、専務。今日は9時から葛城工業との打ち合わせです。8時半にタクシーを予約していますからね」
かしこまって言った葉月の顔に、不意に秀の手が伸びてくる。
「ケチャップ付いてます」
「え、嘘」
葉月が口に触れる前に、秀のゴツゴツした指が葉月の唇を撫でた。くすぐったくて、葉月は思わず顔を引く。
「嘘です」
「……は?」
秀は何事もなかったかのように手を引っ込め珈琲をすすった。人の唇に触れるだけ触れておいて、一体どういう了見だ。
「ちょっと!」
「失礼。ケチャップではなく口紅でした」
ふざけた言い訳をして、秀は続ける。
「その色、源さんにとても似合っています。綺麗です」
「は……はあ?」
この男はまたそういう事を言う。葉月の顔が熱くなる。マイペースで調子の良いところが、秀は本当にずるい。
「な、なによ綺麗って。ケチャップと間違えておいて何言ってるの」
「……失礼。確かに褒め方を間違えました。精進します」
「精進って」
でも、秀なら本当に誉め言葉を勉強しそうだ。そう思った葉月は、つい吹き出してしまった。そんな葉月を見て、秀も柔らかな笑みをこぼす。
なぜだろう。秀は葉月の人生を滅茶苦茶にした元凶なのに、それを忘れてしまいそうになる。
二人で笑いあう時間が増えるたび、葉月は不思議な気持ちになっていった。
◇
葉月が秀の秘書になって3ヶ月が経過した頃、葉月には気付いたことがあった。
まず、秀はありえないほど多忙だった。
国内屈指の大企業である上屋敷ホールディングス。その専務取締役である秀は、分刻みのスケジュールが当たり前だ。会社の責任者として全国をあちこち飛び回っているし、社外との付き合いも多い。
また、秀は葉月の思った以上に頭の切れる男だった。
二十代前半という若さで取締役を務める秀。そんな彼に近づいてくる人間は味方ばかりではない。秀もそれはよくわきまえていて、人と関わる時には常に気を張っていた。敵を牽制しつつ、重要な人材を味方につけて自分の地盤を固めていく。それが華麗で見事だった。
ただ――。
「上屋敷くん、まだ寝ないの?」
秀の自宅リビング。時刻はもうすぐ午前1時になろうとしている。
終業後、帰ってきた葉月と秀は交互に風呂を済ませた。掃除や片づけを終えて部屋に戻ろうとした葉月は、風呂上がりに秀がリビングでタブレットを眺めている事に気付き声をかけたのだ。
(真剣な顔……)
秀がこんな時間まで何をしているのか、葉月だって本当は知っている。
新聞や経済誌、企業のプレスリリースを片っ端から読み、社会情勢や今後の展望を把握しようとしているのだ。
この努力こそが彼の見事な手腕の
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