第3話

 葉月は布団の中で目を覚ました。


「ああ。また『あの日』の夢」


 リアルな夢だった。

 父の顔、母の声、押しつぶされそうな葉月の感情が、嫌というほど身体にまとわりついている。手が震える。この胸の苦しさは、あれから5年以上経過した今も執拗に葉月の身体をむしばんでいた。


 葉月は今、長野県の山間にある旅館、若松莊で生活している。

 5年前のあの日から親と離れ、住み込みで働いているのだ。


(……何時?)


 カーテンの向こうはまだ暗い。が、時計を見れば午前4時になるところだった。そろそろ起きて朝の仕事を始めなければ。そう思うものの、前日の疲れが残った葉月の体は思うように動かない。


(でも、働かなきゃ)


 大企業のお嬢様だったのは遥か昔のことだ。葉月はもう、金も身寄りもないただの貧乏人でしかない。働かなければ住めないし、食べられない。生きていくことは許されない。


(……起きなきゃ)


 ジリジリとスマホのアラームが鳴り始めた。

 また本格的に一日が始まってしまう。

 一日がこんなにも早く始まることを、葉月はこの5年で初めて知った。人間はみな平等なんかではなく、勝者と敗者に分かれているという事実も、嫌というほど痛感している。


(全部あの男のせいだ)


 忌々しいあの男。葉月の父の会社を倒産に追いやった男。それは葉月の元クラスメイト、上屋敷かみやしき しゅうである。

 嫌な記憶に蓋をした葉月は、身支度を整えて朝の仕事へと向かった。


「おはよう、葉月ちゃん。今日も早いね」

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」


 旅館の炊事場では、板前さんが朝食の準備を始めるところだった。

 葉月は気合いを入れなおし、顧客リストを眺めた。アレルギー対応、メニューの確認、食材の在庫チェックに発注準備。早朝の炊事場だけでもやる事は沢山ある。


「働き者だねえ、葉月ちゃんは」


 業務をこなす葉月を見ながら、板前さんが米を研ぐ手を止めて笑った。


「葉月ちゃんは女将さん以上に働いてるよな。えらいよ」

「とんでもないです。私は女将さんたちに恩返しをしているだけですから」


 父の会社が倒産したあの日、父も母もお金になる仕事を求めてそれぞれ地方へと移住してしまった。当時17歳だった葉月を一人、東京に残して。

 恩情だったのか、足手まといだったのかはわからない。学歴も職歴も、お金も住む所も何もない葉月は路頭に迷っていた。

 その後、親戚を頼ってこの若松莊にたどり着き、ご主人たちの好意で雑用として置いてもらっている。


「無知で何も出来ない私を雇ってくれた女将さんたちには、本当に感謝してるんです」


 最悪、葉月はずっと路上生活をしていたかもしれない。働けることも、衣食住を得られることも、当たり前ではないのだ。

 だからこそ葉月は、こうなってしまった元凶の上屋敷かみやしきしゅうをずっと許せずにいる。

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