第3話 香澄のイタリア

 香澄さんに再会できたのは、結局それから一カ月後だった。その間に、購入した本は読んだ。本人が言うだけあり、いつもより性描写は生々しく、終盤には複数人での性交もある。


 香澄さん……乱交もいいんだ……。


 複雑な気持ちになる。作品だけならただのエロ本だが、本人と会ってしまうと一体どんな気持ちで書いているのか気になってしまう。


 香澄さんは、男性ともできるんだろうか。だとしたらどっちなんだろう。受けも可愛いな……。攻めでも優しそう……。香澄さんのあの長い指で撫でられることを妄想する。


 よく会ってくれる気になったよな……。この本読んで、僕が何してるかわかってるよね、普通……。そんな奴に、住んでる場所、教えちゃう? 無防備すぎ……。まあ、俺なんてチビだし、細いし、怖くなんかないんだろうけど……。


 僕はまた本を開いて、自分と香澄さんを作品の登場人物に重ね、攻められる妄想をした。



♢♢♢



 香澄さんの最新作には男の娘も出ていたので、動画やサイトを見ながら自分もやってみた。なかなか上出来だ。香澄さんが男の娘好きなら気に入ってもらえる自信があった。姉は他県に就職して実家を出てしまっていたから、この姿を見ることはない。見たらきっと喜ぶだろう。



 いよいよ、再会の日。夜、イタリアンバーで飲むことになっていた。その日は朝から何も手につかなかった。待ち合わせの一時間も前から店の近くに行き、喫茶店で時間を潰した。ふと、香澄さんに彼氏がいたらどうしよう……と不安がよぎる。妄想の中で独り占めしていた香澄さんが、他の男に攻められているところを想像する。


 か、可愛い……。無茶苦茶可愛い……。


 思わず口元が緩んだことに気づいて、慌ててアイスコーヒーを飲んだ。好きな人のネトラレもありだったことに、ちょっとショックだった。


 攻めの香澄さんは想像できない。彼女がいることも想像できない。そのパターンだったときは、その時考えよう……そう思った。



♢♢♢



 待ち合わせ時間になり店に入ると、間もなく香澄さんも来た。今日はマスクをしていなくて、素顔を見ると確かに三十代の大人な顔つきで、細い顎の割には少し大きめの口元だった。黒いシャツに黒のパンツ。シンプルな服装だから、スタイルの良さがより際立つ。見惚れてしまった。



「良かった、間に合って。油断してたら道に迷って、遅れるところでした」


 香澄さんは笑って言った。


「すみません、忙しいところ」


「いえいえ、方向音痴なのに、移動を始めるのが遅いのがいけないんです」


 香澄さんは頭を掻きながら言った。


 方向音痴なのか……それも可愛い。



 お酒と料理を頼む。

 香澄さんはイタリアが好きで、これまでニ回行っている。


「もう一回行きたいんだけど、ヨーロッパだとお金がね。趣味の物書きをやめて、収入に繋がるような何かをすればいいのかもしれないけど」


 香澄さんは、人生初の海外旅行がイタリアだった。一度目はイタリア縦断。二度目はローマを主に観光したという。


「ドゥオモはどれも好きだけど、あの装飾の細かさを見たら気が遠くなったね。昔の人と今の人は時間の流れが違うんだなって思った。それに、どこもかしこもゴテゴテしてるから、日本の侘び寂びがウケるのも、納得したよ」


 僕は、親戚がスペインにいて、中学の時一度だけみんなでスペインに行った。サグラダファミリアが良かったと話すと、あれはデザイナーズチャーチって感じだよね、と香澄さんはにこにこしながら言った。



「自分には芸術の才能がないんだと思い知らされたのは、バチカンのシスティーナ礼拝堂でミケランジェロの『最後の審判』を見た時だね。すごかったよ。たしかに。美しいし、迫力があって。狭いあの空間に観光客が鮨詰めになって見上げていて、国籍問わずみんな感動でため息を漏らしているんだ。それくらい素晴らしかった。でも、私がイタリアで一番好きなところはポンペイの遺跡なんだ。そういうところが、人とズレてるんだ」


 香澄さんは、スマホでポンペイ遺跡の画像を見せてくれた。


「ポンペイは、日本が弥生時代の頃に噴火で滅ぶんだけど、すでに大きな神殿や劇場を作ってたんだよ。街は道路が舗装されていて、車道と歩道に分かれるの。歩道より車道が低いんだよね。ここ見て。道路を横切るようにいきなり飛石があるんだ。横断歩道なんだよ。石をよけるように馬車や荷車の車輪が通って、人は雨が降っても足を水溜りで濡らさないように道を渡れるようになってるんだ。街にそんな工夫があるなんて、なんかくすぐったくない?」


 くすぐったい、ってなんだろう。


 でも、そう言われればそうかもしれない。とびきり偉い人でなく、普通の人たちの街でそこまでの配慮がある。約二千年前の人も、足元は濡らしたくなかったらしい。


「だから、逆に3日で滅んでしまうことがね……人間の儚さを感じるというか、どんなに立派に生きていても死ぬ時はみんなただの人間に還るんだな、って」


 香澄さんは少し遠い目をして微笑んだあと、赤ワインの入ったグラスを傾けた。ワインがグラスの上を滑り、香澄さんの形の良い唇を濡らす。香澄さんのBLには死別や心中もあった。周りには理解されない愛を、このワイングラスよりも薄くて華奢に描く。


 

 香澄さんはペース良くワインを飲んでいた。僕も最初はお付き合いで飲んでいたが、飲み慣れないせいもあり酔ってきたので、ブラッドオレンジジュースを頼んだ。


 香澄さんはイタリアの話を続けた。それよりもっとイタリアを好きな理由は、現地の人のさりげない優しさだという。水の出し方がわからない蛇口の開け方を一緒に考えてくれたり、たくさんあるダストボックスのどれにゴミを捨てていいかわからない時にわざわざ蓋を開けて教えてくれたり、そんな小さな親切がいっぱいあったのだという。


「宗教は詳しくないけど……もし、宗教のおかげで人が優しさを臆することなく出せるなら、宗教って大事だなって思った」


 優しく”なれる”……じゃなくて、”出せる”ってことは、香澄さんは人間はみんな優しいと思っているんだろうか。

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