第8話.夏休み
――――夏休み。それは学生たちの憩いの時間であり、恋する者たちが燃え上がる青春の煌めきである。
*
「宿題はね。やらなくても何とかなるのよ」
木製の本棚が整然と並び、古い書物の香りが微かに漂っている図書館で、紙のめくれるわずかな音と共にエリシアが呟いた。
「去年の惨劇を踏まえて?」
砂羽ルミナはジトッとした視線を向けた。
エリシアは頷く。
「だって結局提出してないもん」
「でも補習たっぷりだったよね?」
「そちらの方が労力が少ないと判断しました」
ルミナはこれ見よがしに溜息を洩らした。
「でもやって。すぐやって。あの空気はもうやだよ」
「あー……」
エリシアも思う所があったのか、渋々といった様子で手を付け始めた。
彼女達の様子を見て、アクトは困ったように笑った。
「ははは、大変だったみたいだね」
彼の言葉に疑問を呈したのはディアナである。
「アクト様もご存じないのですか?」
「うん。俺も1年の終わりに転校してきたから、その時のことは知らないんだ」
「まあ、そうだったのですね」
その後は会話が交わされることもなく、鉛筆が紙面を滑る音が黙々と続いていた。
夏休み一日目は、そんな真面目な学生生活を過ごしていた。
その日の夕方、エリシアは3人達と最初に別れた。
アクトとルミナは方角が同じで、ディアナは護衛とのことなのでアクトに付きっきりである。
ディアナの事情については、アクトとの迷宮転移の後に知った。
希少な精霊適合者であるアクトを守るために護衛しているのだとか。
半年程度でどうにかなると聞いているが、それ以降については濁されている。
ディアナが居続けるのか、そしてアクトがこの学園に居られるのかも。
(半年ね)
振り返り、3人の後ろ姿を視界に収める。
低い位置にある太陽が彼らの影を引き伸ばしていた。
アクトとルミナの影は重なっていて、実際の距離も随分近いように思える。
仲が良くなった――というわけではないだろう。
意識的に距離感を縮めているように思われた。
(アクトのこと好きなのかな)
ディアナのことが起爆剤になり、意識し始めたのだろうか。
嘘とはいえ婚約者を自称する相手に随分と積極的である。
(……だからこそ、かな?)
結果が分かっているからこそ挑めるのかもしれない。
だとしたら彼女にとっての大番狂わせもありそうだが――――
(う~ん、でも先に目を付けたのは私だしなあ。友情かプライドか、難しいね)
悩むふりをして、帰路についた。
*
時の流れを拒絶するように、その豪邸は聳え立っていた。
錆付いてはいるが重厚な鉄の門を抜けると、苔と蔦の絡みついた外壁が目に入る。
(そろそろ業者に頼まないとな……)
無駄に広いものだから、個人でやるのは少々厳しい。
この豪邸は昔お爺様が買い上げたのだとか。
当時から古い家だったようなので、余計な買い物をしてくれたものである。
(お爺様も転生してるのかね)
死んだ人間がどうなるかは分からないが、天国や地獄の方が夢があると思う。
「ただいま」
伽藍とした玄関に投げかける。
声は廊下を突き抜け、空気にすり減らされ霧散する。
やはりこの家は、あまりにも広すぎる。
「おかえりなさい。エリシアちゃん」
私と母の2人暮らしには。
私と母は割と瓜二つである。
同じ銀色の髪、近い背丈。鏡を思わせる顔立ち。
父は私が産まれる前に死んだらしいが、本当のところはわからない。
あまり開けるべきではない箱だと思うので、そういうものとして納得していた。
ファンタジー的なアレコレだったら良いのだけど、やり捨てとかだったら気まずいってレベルじゃないし。
そんな訳で私の家族には謎が多いが、ノータッチで過ごしてきたのだ。
「エリシアちゃん、ちょおっと、お使い頼んで良いかな?」
「え、今から? 勘弁してよ」
「ごめんねぇ」と母は口と態度は申し訳なさそうだが、譲る気はないようである。
「ママは100m走20秒だから、エリシアちゃんの方がいいかなって」
「走れってか?」
「ごめんねぇ」さっきも聞いた。
ため息が漏れたが、一応話だけは聞いておくことにした。
「で、何買ってくればいいの」
「冷蔵庫の魔石が切れちゃったみたいで」
「一大事じゃんか」
母がおずおずと差し出した空の魔石を奪うように受け取った。
冷蔵庫には氷結系の魔石が組み込まれており、これにより電気なしで冷却する。
魔石はバッテリーみたいなもので、素人でも魔力を込め直すことはできるが保証が効かなくなるので業者に頼むのが普通だ。
魔石の魔力切れは死活問題なので、普通は厳格に管理するものだが、母のようなうっかり者はこういう事をやらかしがちである。
ちなみに冷蔵庫の場合冷却機能が失われる。
夏場なので一日も放置したら大変だぞ。
「もう! 予備も空なんでしょ?」
「あ、そうだった。取りに行ってくるね」
「その感じ、絶対失くしてるやつじゃん。今日はとりあえずこれ一個だけ貯めてくるから、ちゃんと探しておいてよね!」
今度ちゃんと私が家中の魔石を点検しておくべきかもしれない。
エリシアは走りながら、未来の苦労に憂いていた。
*
風のように通り過ぎたのは、確かにエリシアだった。
「どうしたんだろう」
アクトの脳裏に以前の迷宮事件が駆け巡った。
しかし同時に狙われているのは自分だから問題はないだろうと思い直した。
「彼女はいつも騒がしいですね」
「う〜ん」
ディアナの呟きにアクトは曖昧に返事をしながら、そのまま彼女と帰路についた。
そう、彼女と共にである。2人は同じ屋根の下で暮らしていた。
これは護衛である以上当然の措置なのだが、誰かに知られたらとんでもない事になると推測されるので、2人だけの秘密である。
ディアナも理解を示してくれたのが、アクトにはとても助かった。本当に。
2人だけの秘密で済んでいるのは、アクトが1人暮らしだったからである。
彼は元々帝国で暮らしていたのだが、ちょっとした都合で彼1人で王国へ越してきたのだ。
彼の保護者が所有している屋敷に今は住んでいる。
そのため居候は特に問題にならなかった。1人は勿論、2人でも広すぎるくらいなのだ。
「……」
「どうしました? アクト様」
突然黙り込んだアクトの顔を覗き込むディアナ。
彼女の大きな目に差し掛かった長いまつげが、まばたきと共に揺れていた。
ディアナは美少女である。
彼女と一つ屋根の下というのは、敢えて考えないようにしていたが、これは本当に駄目だと思うアクトだった。
一波乱の前の、ちょっとした休息の時間。
そんな夏休みが始まった。
魔法学園迷宮科召喚士エリシア PSコン @PScon
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