別れの儀式 4

 ゾフィに割り当てられた王妃居住区はアナリゼにとってなじみ深い場所である。

 まだ10代の少女であった頃から、彼女とゾフィはここで共に過ごすことが多かった。故国で半ば人形のごとく生きた彼女に外界への興味を植え付けたのはまさにこの部屋の主である。ゾフィは彼女にを教えた。


 かつては衣装部屋で服を見繕い、着飾って笑った。やがて共有する夫の話題で盛り上がった。そして20代も半ばを過ぎれば会話の種は子どものことになる。

 つまりアナリゼにとって、ゾフィは友人であった。

 それは彼女の出自からすれば最高の幸運といえる。友を持つとは。


 ゾフィの息子が亡くなったときアナリゼは一晩彼女の側にいた。何も言わず、背をさすり肩を抱いた。平素は若々しく、天真爛漫な笑顔に溢れた友の見せる落ちくぼんだ瞳は、アナリゼに強烈な感情を惹起せしめた。それは言葉にすれば惻隠であり、同情であり、憐憫である。だが、それ以上の何かだった。


 ゾフィの娘、マルグリテはアナリゼに懐いた。母の親友として頻繁に顔を合わせる中で自然と距離は縮まる。同時にアナリゼの息子グロワスもまた、マルグリテの最も身近な兄となった。

 姉メアリ・アンヌに憧れながら、妹マルグリテには格好を付けようとする息子の姿を、彼女は微笑ましく見守った。


 マルグリテが将来プロザンに嫁ぐことが定まったとき、彼女は帝国語の練習相手を買って出た。プロザン宮廷では中央大陸公用語たるサンテネリ語が使用されているものの、王を含めて宮廷人の母語は帝国語である。帝国語を喋れずとも生きてはゆけるが、”楽しく”生きるためには覚えていた方がよい。


 帝国語での会話内容は二人の秘密だった。

 母には喋れない悩みや不安を、マルグリテは帝国語で彼女に打ち明けた。まだ数年先のこととはいえ、明らかな仮想敵国であるプロザンに父母と離れ一人赴かねばならないというのは、幼い少女にとってどうにも恐ろしいことだった。

 異国で”上手くやる”コツを尋ねられたアナリゼは、いつものように生真面目に、そしていつもよりも真心を込めて答えた。

「お友達を作りましょう。素晴らしいお友達を。それだけで世界は楽しいものになります」


 彼女の息子グロワスもまた、かわいい妹分のプロザン輿入れに複雑な思いを抱いた。ゾフィとマルグリテ、彼女とグロワスで行った内輪の食事会の席上、少年はふと呟いた。

「何か嫌なことがあったら俺に必ず伝えるんだぞ。俺もロベル兄さんエネ・ロベルも黙ってはいない」

 それは幼い真情である。


 アナリゼはそこに夫の面影を

 ”嫌なこと”は必ず起こるが、それを耐える以外に道はない。彼女自身が通ってきた道である。

 マルグリテは幸せになるためにプロザンに赴くのではない。サンテネリとプロザンの紐帯となるべく行くのだ。幸せな結果はありうるが、それは目的ではない。

 王として、夫はそれをよく理解している。

 理解した上で、その枠の中で、よりよい結果を目指すだろう。

 どちらがよいとも悪いとも彼女には判断できなかった。ただ、いずれにせよ、息子の言葉はマルグリテに幾ばくかの安心を与えるだろう。それは将来のサンテネリ王の言葉なのだから。


 アナリゼは息子と、親友とその娘、3人と共に過ごしてきた。そして夫と。


 夫と語り合った夜を越えて、翌日アナリゼは招かれた。親友に。






 ◆






「王太子様はお元気ですか?」

「ええ。この上なく」


 二人は慣れ親しんだ応接間でくつろぎながら、ゆったりと言葉を交わす。


「アキアヌ殿の姫と、でしょう? 実際のところ、どうですか?」

「殿下は詳しくは話してくださいません。でも、お気に召してらっしゃることは分かりますね」


 友の息子のお相手は気になるところ。ゾフィの愉快げな問いに、アナリゼは軽く首を振りながら答えた。


「身だしなみを気になさるようになりましたから」

「それはとてもいい傾向ですね! 殿方は本当に、分かりやすくって」

「ええ。隠すところがかえって真情を伝えてくださいます」


 ゾフィは小さい首肯を繰り返す。

 それは少女の頃からの癖のようなものだった。30代も半ばを過ぎてなお可愛らしさを薄らと残す友の姿を、アナリゼは感慨深く眺める。


 何も変わってはいない。

 ただ二人が大人になったという、一事を除いて。


「ところでアナリゼさん、あのお話は考えてくれましたか?」

「ええ。もちろん。——でも、私には判断が付きません」

「難しいですよね。私も悩んでしまいます。…ただ分かるのは、セリーヌさんがいい娘であることだけ」


 それは政治だった。

 ゾフィの弟、ガイユール若公の娘セリーヌは今年14歳になる。どこに嫁がせるかを真剣に検討する年齢といってよい。

 正妃子のガイユール大公女として、少女が嫁ぐことが可能な相手は相応に限定される。国内の同格公爵家か王家の係累のみが候補だった昔に比べて、帝国諸侯も視野に入る近年は多少はましになった。だが、依然難しい選択であることに代わりはない。

 さらに、政治的な変動を最小限に抑える相手となると候補は大きく絞られる。


 王太子グロワスか、あるいは王子ロベルか。

 この2者が相手であれば、事は王家の枠内で収まる。いずれを選んでも王家は荒れるが、少なくとも国外への影響はない。

 王太子を相手とした場合、太子の政治的基盤の強化に繋がる。一方でアキアヌ、ガイユールという外様の二大巨頭に支えられた政権であることを満天下に示すこととなる。

 ロベルを相手とすればルロワ譜代勢力との融和が進む。だが、軍に隠然たる影響力を誇るデルロワズ公家とガイユール大公家がロベルの元に集結する図式は、王太子の立場をかなり不安定なものとするだろう。


「本当に…どうしましょうか…」


 ゾフィ自身には確固たる意見はなかった。強いて言えば、姪のお相手が”お友達”の息子というのは悪くない。グロワス少年とも長い付き合いだ。姪との仲を取り持ってやることもできるだろう。そう思っていた。


 実際のところ、この縁談を進めたのは彼女の父ザヴィエである。

 一年の半分は自領で過ごす、半引退状態の父だが、政治の核心部分は未だ手放していなかった。未練とも権勢欲とも思われる、性格に似合わぬその姿勢を父に強いたのは夫の不予であろうと彼女は推測していた。


 ゾフィの夫、グロワス13世が万全の状態にある場合、この縁談はどう転んでも構わない。いわば些事である。

 王がいる限り、国内は治まりうる。

 ガイユールもアキアヌもルロワ派諸侯も、軍も、商人達も、なんとか”上手くやる”ことができる。差配する者がいるからだ。

 しかし、それがもはや望み得ない今、国家にとって最も大切なものの一つ、つまり”安定”は極めて貴重なものとなった。普段豊富に流れ省みられることもない水が、いざ干ばつとなれば金よりも重い価値を持つように。


 アキアヌ大公女と王太子の婚姻話と前後して、セリーヌの話も持ち上がってはいた。まだ王が健全であった時分である。王の内諾さえもなされていた。

 つまり、今後10年以上続くであろうグロワス13の治世下における婚姻として。

 だが、グロワス14の世が始まるとなれば話は変わってくる。


 王が倒れて一ヶ月、人々は回復を信じた。王はまだ40代半ば。若くはないが、死を見据える歳でもない。よって既定路線に変更は加えられなかった。

 そして二ヶ月が経ち、復調が難しいと周知される頃には、王はもはや判断を求める相手とは見なされなかった。かくしてガイユールの縁談は宙に浮いたままとなった。


「——陛下のご判断を、仰ぐほかありませんね」


 ゾフィは自身の口調が秘めたひんやりした響きに驚く。

 それは彼女の心が吐き出したものなのだ。頭ではなく。






 ◆






 ゾフィは既にけりを付けていた。夫への想いに。

 彼女が愛した男は煌めく知性と雄弁を備えた人だった。

 巷に流行る小説や歌劇から、詩作、思想書、絵画と、二人はそれらを肴に語り合った。彼は彼女に様々な知見を与えた。小説の読み方、歌劇の見所と意義、詩の構造と味わい方、思想書の内容、絵画鑑賞の技法。

 ゾフィにとって夫は知を愛する人であった。

 くすんだ玉座に座する不気味な存在などでは決してなかった。


 彼女は夫の言葉を愛した。

 修辞に知を、勢いに雄々しさを感じた。二転三転しながら鮮やかな結論を引き出す才に酔った。囁くように始まり、満場を支配して終わるその口調が女の身体を心から揺さぶった。


 共に時を過ごすに足る人。これ以上は望み得ない人。それがゾフィにとってのグロワスだった。10代の始めに出会い、そこからずっと離れずに生きてきた。それは敬意の成せる技である。

 等身大の男に幻滅する瞬間もあった。数え切れないくらいに。

 しかし、それでもなお男はゾフィにとって尊敬に値する人だった。

 息子を失ってなお。娘を政治の道具とされてなお。


 よって今、巨大な寝台に横たえられたは、既に彼女が好んだ存在ではない。それは一つの抜け殻である。

 穢れ。そう表現することもできよう。


「グロワス様、起きていらっしゃいます?」


 彼女は椅子に座ることさえない。枕元に立ち、を見下ろし、平素の調子で声をかけた。


「…珍しいな。ああ…ゾフィ殿か」

「はい。陛下。お加減はいかがですか?」


 形式的な言葉を投げかける妻に夫はいつものように答えた。息苦しさにあえぐ、その合間を縫うように。


「悪くはないよ。…あなたが、来てくれたから」

「それはよかったです。今日はご相談があって参りました」


 ゾフィは間髪入れずに本題に入る。

 胸をなで下ろしながら。

 まだ死んでいない。

 つまり、”王の言葉”で裁定を得られる。

 求めるものはもはやそれだけだ。抜け殻に対して。


「なんだろうか」

「王太子様とセリーヌ殿の婚姻の件です。予定通りに進めてもよいでしょうか」


 一息に言い切ってゾフィは静かに返答を待った。

 夫の顔を眺めながら。


 散った金の髪はもはや白く、枕の生地と同化して見える。かつては鮮やかに立ち上がり精気を秘めて靡いた髪は。

 その翠の瞳。少女の頃に惹かれた緑玉石のごとき塊。初めは腫れ物に触るように、時を経ては射貫くように自身の身体に触れた視線。もはや濁ってしまった。

 屹立した鼻梁は肉が削げ、随分と険しくなった。

 そして、彼女が最も愛した口。

 あかぎれて所々血の塊を残す唇。かつて彼女を鼓舞し、笑わせ、泣かせた。


 王の答えはない。

 ゾフィは待った。

 毛布の下に隠された身体を想像しながら。

 かつて馬上で彼女の胴を抱きとめた腕を。背中に感じた大きな胸板を。

 それは少女が感じたである。女は彼以外のを知らない。


 やがて王が口を開いた。

 粗い呼吸の最中に、それでもなお。

 妻に返事を返さねばならないのだから。


「…ゾフィ殿、申し訳ない。——私には分からない」


 分からない。

 王はそう言った。


「分からないとは? 分からないとはなんです! 陛下のお子のことです!」


 高めの声質は感情に合わせて刃のごとく響いた。


「あなたのお子のことです。ご決断ください! あの時のように! 自身満々に! マルグリテを犬のようにプロザンにとお決めになったあの時のように!」


 全身の血液が頭部を満たしている。

 そして女の優美な口から解放されようとしている。


 何が自分を駆り立てるのか、彼女には見当も付かなかった。

 恨んでなどいなかった。

 女はしかるべきところに嫁ぐのが幸せであり、娘に与えられた場所は明らかに一等地である。それはサンテネリの女であれば誰もが羨む場所の一つだ。

 分かっていたはずだ。そして納得していたはずだ。

 夫の愛も、想いも。

 にもかかわらず、彼女は夫を切りつけた。言葉で。


「陛下! さあ、いつものように私を諭してください! さぁ!」


 男は何も写さぬその瞳をゾフィの方に傾ける。

 そして答えた。


「ゾフィ殿。ぼくは…むずかしいことは…わからない。もう」

「なにを…」

「頭がね、はたらかない。がらくただ。——もうしわけない…」


 彼女の足は力を失った。

 だからそこに椅子が備え付けられていたのは、あるいは幸運だった。

 崩れ落ちるように女は全身を椅子に預けた。


「…グロワス様」


 彼女は既にけりを付けていた。夫への想いに。

 そのはずだった。

 しかしそれは理性がなしたものだ。全身で感じたわけではない。

 人の死は自然の摂理である。そして、彼女の愛した男は既にその価値を全て失ってしまったのだから、話はそれで終わりだ。

 そのはずだった。


 かつて憧れた男の口が、こう言った。

 ”むずかしいことは…わからない”と。

 彼女が愛した男と最も縁遠い言葉を、自身に詫びながら言った。


 ——グロワス様は、まだ


 夫は生きて、目の前にいる。

 ゾフィがきつく目を閉じて見ようとしなかったものが、今眼前にある。

 彼女の脳内に生きる夫が決して吐かぬ台詞を吐いて。

 わからない、などと。


 女の心内に生きるグロワスは彼女の意のままに振る舞い、しゃべり、生きる。だが、眼下に横たわるこのは思い通りにならない。

 それは彼女が最も聞きたくない言葉を弱々しくしゃべる生き物だった。


「…みなに、おまかせする。…うまく、やってほしい」


 荒い呼吸の合間に男は辛うじてそれだけ言い切った。


 ——グロワス様が、いなくなる?


 彼は存在する。それを知覚してしまえばゾフィの心を守るものは何もない。何一つ残されていない。

 存在しているということは、存在しなくなるということだ。

 つまり女は夫を失う。永遠に。


 うなだれる妻に、男が唐突に語りかけた。体力の最後の一滴を絞り出すように。


「ああ…ゾフィどのは、きょうもお美しい…。そのくびかざりは、あなたにとても合うね…」

「首飾り?」

「…ルー・サントルでの買い物、ほかにほりだしものは…おありかな?」


 彼女は首飾りなど身につけていない。

 だから夫が女の姿は、もはや記憶の中にしか存在しないものだ。

 二人の。







 ◆






 自室に戻ってきた母の姿を見てマルグリテは動転した。明らかに何かがあった。それが一目で分かる憔悴を娘は感じ取ったのだ。


 母は豪奢な椅子に腰を下ろした。一言も発することなく、無表情で。


「お母様?」

「マルグリテ、こちらへ」


 少女は恐る恐る近寄り、やがて母の前に立つ。

 常に明るく喜色絶えない大きな瞳は、今、がらんどうの穴に嵌まった安い硝子玉のように、娘には思われた。


「それを、お母様に着けてくれる?」

「はい…もちろん」


 母が指さす自身の首元。

 もう何年も前に母から譲られた首飾りを少女は手早く外す。侍女の手を借りる必要はなかったし、借りるべきとも思われなかった。


 小鳥を模した金細工のそれは、やがて女の首元に収まった。

 娘の手によって。


「マルグリテ、しばらくの間、これを貸してほしいの」


 15の少女に似合う、可愛らしい、ちっぽけな、しかし繊細な首飾りを、ゾフィは身につけたかった。


 男と彼女が、共に生きた証として。

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