王女の肖像

 正教新暦1716年10月2日。

 その夜、シュトロワ新市の光の宮殿パール・ルミエと勝利広場、旧市の勇者の宮殿パール・クールールにおいて、三発の白い花火が上がった。


 それはあまねくシュトロワ市民に赤子の誕生を告げる。

 赤子は多くの人々に望まれて、この世に生を受けた。


 王の子女の誕生は花火によって人々に告知される。

 緑であれば男児。白であれば女児。

 よって今回は王女である。


 王家の出産はこれまで力点を「家」に置いてきた。それはまずは私事である。王と王妃という一組の男女の間に子が生まれ、親族や友人——つまり家臣がそれを祝う。

 だがグロワス13世のそれは、過去の感覚を明らかに一歩踏み出した認識を人々に与えた。


 シュトロワの街頭で、あらかじめ用意されていた新聞が一斉に配布される。

 そこには王と王妃の関係性や、抑えめであるものの明らかに読者の興味を喚起する様々な交際の逸話が綴られている。王家と極めて近しい情報源がなければ書けない様々な記事が、新聞に掲載された。


 その夜、シュトロワの街は人で溢れた。

 薄暗い、あるいは完全な暗闇に包まれる夜の街路に人々が繰り出すことはほとんどない。犯罪の危険があったし、何よりもある種の根源的な恐怖があった。

 しかし今日は違う。

 市民達は片手に貴重な手提げ灯籠を持ち、もう片方の手には杯を、あるいは酒瓶を掴んで参集する。男女、子ども、老人。身分も貧富も超えて人々は集った。


「王女万歳! グロワス王万歳! メアリ妃万歳!」


 定型の台詞が繰り返される。至るところで無秩序に打ち上がる。それはやがて同調し、一つの巨大な声に収斂する。

 それは民衆の声であった。


 彼らは身体を酒で酔わせ、頭を言葉で酔わせた。

 それは確認である。それは自己認識である。

 自分たちがルロワの王の民であり、サンテネリ王国の民であることの。

 王とその子ども達が率いる偉大な国の一部であることの。


 ”所属”の快感に彼らは、あるいは彼女らは酔った。






 ◆






 サンテネリ貴族の女は出産を終えたのち、お産の場となった寝室で赤子と共に一週間を過ごすのが習いだ。

 母親の衰弱が著しい場合、やむを得ず乳母に引き取られることもあったが、できることならば母子が一緒にいるのが望ましい。

 正教の教えでは、この7日間で母親の魔力が子にしっかりと染み渡ることが、後の正常な発育に重要な役割を果たすとされていたからだ。


 7日を過ぎ、母子の健康が確認されると客の訪問が始まる。お産の直前期から一切近寄ることが許されなかった男達——中でも父親が、子と初対面を果たす。

 だが、赤子の身体を抱くことは許されない。

 距離を取り、母親が抱くその姿を眺めるのみ。

 近寄りすぎると男の魔力が過度に作用し、自然のさがに歪みが生じてしまう。正教はそう説明する。


 だから、初子との顔合わせに際してグロワス王が取った行動は明らかに掟破りのものと言えるだろう。


 娘をその胸に抱える妻を、王は大きく両手で抱き留めたのだ。妻を、あるいは、妻ごと娘を抱きしめた。この上ない宝物を受け止めるように。

 妻と娘を。


 それは一瞬の出来事であった。


「メアリ殿、ありがとう」


 王は静かに一言、妻の耳元で囁いた。

 そしてゆっくりと、名残を惜しむように身体を引いた。


 この逸話が王の存命時に広まることはなかった。立ち会った女官や侍従達は口をつぐみ、王も妃もそれをことさらに触れ回ることはなかった。

 しかし、母と共に抱きしめられた当の娘はそれを知っていた。恐らくは母から聞いて。


 ”私は生まれた時から、定められたのです”


 後年、王女が群衆を前に言い放ったこの台詞は広く人口に膾炙かいしゃしている。

 小説に、戯曲に、あるいは絵本に必ず描かれる場面である。


 なぜ”こうあるように定められたのか”。その理由を本人が語ったがゆえに、この出来事は歴史に残っている。






 ◆






 約一ヶ月の静養ののち、王の初子は人生初の重要な儀式に臨む。

 ”聖印の秘蹟”授与である。


 正教僧の手によりこの儀式を施されることによって、人は初めて正教徒、つまり”オン”と認められる。王の子であれ庶民の子であれ、そこに違いはない。

 ただ儀式の規模が異なるのみだ。


 聖印の秘蹟は至極単純な儀式である。

 僧が祝詞を読み、母に抱かれた赤子の額に水滴を一度垂らす。

 そして母に、子の「名」を訊ねる。

 母が答えたそれが、子の「名」となる。


 父はその様を傍らで見守るのが習いだ。


 グロワス13世と妻メアリの子がその儀式を施されたのは、光の宮殿パール・ルミエの敷地内にある小礼拝堂においてであった。

 ”小”と名付けられながら、その建物は100人程度の収容が可能な規模であり、イレン教区の大聖堂に次ぐ巨大さを誇る。


 聖印の秘蹟授与式には両家の親族と友人達——つまり家臣達が招待される。

 小礼拝堂の左右の座席には、王母マリエンヌを筆頭に、王妃の実家たるバロワ侯爵家、ルロワ家の家宰フロイスブル侯爵とその家族といった、いわばルロワ王家ゆかりの貴族達が顔を揃える。

 加えて今回は、デルロワズ公爵家とアキアヌ公爵家の参加があった。デルロワズ公爵は王妃の妹を妻として娶る関係性において、アキアヌ公爵は枢密院を代表しての参列だ。

 両者ともに関係性はあれど、出産がルロワ家の行事であった過去においては見ることができなかった”他家”である。


 礼拝堂の奥、巨大な色硝子で描かれた”神の御裾”の元、天窓から落ちる光の滝壷には、イレン教区大僧卿と助祭、そして子を抱く女が佇んでいる。


 大僧卿は祈りの定型句を三度繰り返す。

 そして黙する。

 光と静寂。


 そして老人は、助祭から手渡された銀の小さな水差しから一滴、赤子の額に水を落とした。

 王女は泣かなかった。


「母よ。御裾の元、汝の神に子の名を告げよ」

「御裾の元、お伝えいたします。その名は、メアリ・アンヌと申します」


 純白の貫頭衣を纏い、肩からルロワ紋の入った大判布カルールを羽織った女は、静かに、囁くように、だが強い輪郭をもって娘の名を告げた。

 その声は低く、しかし礼拝堂を満たす。

 娘の笑いとも叫びともつかぬ甲高い声とともに。


 礼拝堂の中央を満たした光の祭壇から外れて、暗闇の中に一人の男が立っている。


 その身を青灰色の軍装で包み、腰には剣を提げた男。

 いかに妻の出自とはいえ、公式行事における王の軍装は明らかに異例だ。

 しかし参列者たちが動揺することはない。最近、王はルロワ家伝来の衣裳を身につけることをほぼ止めていたからだ。

 それは無言の政治的意志である。


 佇まいでその意志を示しつつ、王は妻と娘の姿をじっと見つめていた。


 メアリ・アンヌ・エン・ルロワ。

 サンテネリ国王グロワス13世の第一子である。


 中央大陸においては、男児の名は父が、女児の名は母が付ける慣習がある。実態は一族の合議によることがほとんどだが、建前上そのような優先権が設定されていた。

 王はそれを厳密に守った。


 名付けを任されたメアリは悩んだ末に、いくつかの候補の中からメアリ・アンヌを選択した。

 メアリは自身の名であると同時にバロワ家始祖マリーに遡る。

 アンヌは夫の母たる母后マリエンヌにあやかったものだった。


 決断した彼女がその名を伝えると、夫は微笑んだ。

「よい名だ。娘は素晴らしい方になるだろう」

 そう彼女に告げた。


 メアリは照れと微量の危惧を込めて王に返した。

「それでは婚期が遅れてしまいます。近衛軍の将校になるのだと言い出しかねません」


 王は笑った。


「ならばそれでいい。それもまた素晴らしいことだよ」






 ◆






 光の美術館ガレ・ルミエの一階、巨大な近期絵画展示室には、第17期から19期にかけて描かれた世界的名作が所狭しと飾られている。地方の美術館に展示すれば単品で一室を用意されるほどの名品ばかり。


 その中でも極めて著名な一枚が展示室最奥に掲げられている。縦が成人の背丈ほどある、比較的大きな絵だ。


 それは若い軍人の立像である。

 恐らく夜明け直前の薄明、枯れ木と茶褐色の岩がまばらに広がる荒野を背景にその人物は直立している。

 右を向き宙を見上げるその顔は、風に靡く金糸の長髪に包まれている。

 笑みなどない。口元はきつく結ばれている。

 翆の瞳は中空のなにかを射貫く。それは結晶した意志だ。


 灰がかった青地の軍装。

 腰には剣を佩き、左手が柄に添えられている。

 柄の終端についた翆貴石が鈍く光る。


 独特の粗い筆致で対象を活写したこの人物画は、19期中葉に活躍した心情主義の大家エルナン・ヴィクトの代表作。

 題を『共和国の守護女神』という。


 サンテネリ国民でこの絵を知らぬ者はいない。

 描かれた対象が誰であるかも。


 ただし、呼び名は区々まちまちである。

 人々は自身の政治的立場や思想に従ってを様々な名で呼ぶが、代表的なものは以下の二つだろう。



 王女メアリ・アンヌ・エン・ルロワ


 あるいは


 市民メリア・ルロワ







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第2部第1章はこれで終わりです。

ここまでお読みいただきありがとうございました。


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