王妃の証 4

 エストビルグ宮の貴賓室に招かれたフロイスブル侯爵は、黒羅紗張りの長椅子に腰掛けてしばし相手を待った。

 部屋を見渡しても、そこは光の宮殿の応接室と大差ない。それもそのはず、100年ほど前に新造されたこの区画は、まさに光の宮殿の建築様式に強い影響を受けて作られたものである。

 大きな窓から取り入れられた陽光は白い壁に反射され室内を照らす。空中を舞う微小な埃が星の欠片のごとく漂っていた。

 サンテネリに比して寒冷なエストビルグといえども、7月になれば少々暑い。


 マルセルは自身の首元を締める大判布カルールの存在に意識を向けた。うっすらと息苦しさがある。軽く緩めようと布に触れる。

 羊毛の滑らかな手触りが男の脳裏に女の姿を想起させた。正妻の侍女としてフロイスブル家にやってきた女。

 彼女と過ごした日々は早くに亡くなった正妻との歳月をとうに超えていた。


 思えば不思議な成り行きだった。

 彼自身、フロイスブル家を継ぐ予定などなかった。兄を支え宮廷で政治に携わる。その未来は確実なものであったが、あくまでも一実務者としてである。同時に、伯爵家の娘を娶り子をなす。

 宮中で出世し、傍系子爵となる。あるいは功績いかんでは伯爵にまで届くかもしれない。兄と力を合わせフロイスブル一門を盛り立てていく。

 20代の彼が思い描いた将来は、名門譜代に生まれた嫡男以外の男子が抱く典型的なものに過ぎなかった。

 軍か、宮廷か、教会か。いずれにしても、ある程度の落とし所が定まっている。


 だが、が彼の人生を変えた。二つの死が。

 兄の急逝と妻の産褥死。

 前者は彼にフロイスブルの家督をもたらし、後者は彼に男爵家の娘をもたらした。どちらも彼が望んだものではない。できることならば兄にも妻にも健在であってほしかった。家を継がない立場は気楽なものであったし、妻は美しく気立てのよい女だったからだ。

 しかし、彼の意図など一顧だにせず、二つの死が彼を否応なく今の立場に導いた。


 サンテネリ王国宮廷大臣にして枢密院全権特使。

 一人きりの側妻と、娘を一人、息子を二人持つ。

 そして、国王の義父である。


 お触れの声すらなく、ごく自然に部屋に入ってきた一組の男女をその視界に捉えながら、彼は大判布カルールがもたらした感慨の最後を締めくくる。


 ——私の”物語”は少々複雑だ。






 ◆






「フロイスブル侯爵殿、遠路はるばるのご来訪ご苦労であった。神の御裾の元、御身の健勝を言祝ぎたい」


 上背のある、自身と同年代の男。

 肩まで伸ばした茶の髪は見事にくしけずられているものの、齢相応に分量が少なくなりつつある。

 その面長な顔は、中心に高く聳える鼻梁と目元に入った深い皺が見るものに印象を残す。過ぎ去った若き闊達さの名残と、倦み疲れた現在の痕跡を。


 黒い上着にはほとんど装飾はなく、平服であることが一目で分かる。目を惹くものといえば胸元を締めた大判布の模様だけ。

 黒地に二頭の獅子が左右を睥睨する形で白く描かれている。

 エストビルグ家の双獅子紋である。


 フロイスブル侯爵は片膝を着き、頭を垂れる。


「エストビルグ王陛下に於かれましては、神の御裾の元、ご健勝お喜び申し上げます。また、労りのお言葉ありがたく」


 彼が両膝を着いた跪礼を行うことはない。二重の意味で。

 一つは、彼はサンテネリ王の名代であり、サンテネリ王はエストビルグ王と同格の存在である。

 そしてもう一つ。この会談は公式のものではない。サンテネリ領域の名門貴族フロイスブル侯爵と帝国の柱石エストビルグ大公が同じ貴族として顔を合わせるものだ。


「さあフロイスブル殿。楽に。貴殿に紹介したい者もいる」


 王のしゃがれた声を合図にマルセルは立ち上がり、皇帝にしてエストビルグ王ゲルギュ5世と対面した。


「こちらは帝国正妃にしてエストビルグ王国正妃、アウグステ・ヴォー・エストビルグ殿だ」


 王の横に立つ女性はマルセルやゲルギュ5世よりもおそらく一回り若い。

 一目見てその美貌がよく分かる。

 女性的な卵形の柔らかい輪郭の中に適切な配置を与えられた両の瞳は青く、目尻のかすかな浮き上がりが女の明確な自我を物語っていた。そして、細く繊細な鼻と唇。


 四十間近の色香よりも清潔な——ある種潔癖とさえ感じられる空気を纏った女。

 日の光を浴びてやや明るさを増した深紅の布地に金糸で描かれた細かい文様が敷き詰められた貫頭衣は、女の身体を足首まで覆う。

 結い上げられた明るい茶色の髪と相まって、その形姿は殊更にほっそりとして見えた。


「これは正妃様、お初にお目に掛かります。マルセル・エネ・エン・フロイスブルと申します。以降お見知りおきくださいませ」

「偉大なるサンテネリのまさに柱石たる枢密院宮廷大臣殿。こうしてお会いできるとは、なんと素晴らしいことでしょう。陛下よりご紹介賜りました、アウグステです。以降よしなに」


 疲れの見える初老の夫にまだ年若い妻。貴族の世界ではよくみる組み合わせであり、特段の驚きはない。

 マルセルは目の前の男女を視界に入れながら、彼らの一粒種たる主君の正妃アナリゼの姿を思い返した。細身の伸びやかな肢体は母から、鳶色の瞳と屹立する鼻梁は父から受け継いだのだろう。


 一通りの挨拶を終えて、三者は長椅子に腰掛ける。

 会話の口火を切ったのはゲルギュ5世。


「まずは貴殿に御礼を。我が娘を奥方と共に後見してくださっていると。まだ幼さを残す娘ゆえ、ご苦労をおかけしていよう」

「恐れながら、そのようなことは決して。アナリゼ様はそれはもうご立派にサンテネリ王国正妃のお勤めを果たしていらっしゃいます」


 未だ硬い、儀礼的な会話の殻を破ったのは、アウグステの発する甲高い声だった。


「まぁ! それは母として至上の喜びに存じますわ。フロイスブル殿、アナリース様はグロワス陛下のお気に召しまして?」

「はい。とても仲睦まじく。グロワス陛下の住まわれる光の宮殿パール・ルミエには、壁を一面硝子張りにした大回廊がございます。アナリゼ妃様はそこを大層お気に召され、陛下と共に二人きりでご散策されるのが日課でございます。側仕えの者に聞くに、回廊にお二人の楽しげな笑い声が響き渡ることもしばしば、と」


 エストビルグ正妃は満面の笑みを湛えて、何度も小さく頷きながら彼の返答を聞く。


「噂に聞く”光の大回廊”でございますわね。遠くヴェノンにも知られるそのような素晴らしい場所で若いお二人がご歓談されるなど、それはまさに一幅の絵画のよう」


 そのは何が満たされたゆえのものなのか、マルセルには分からない。だが想像は付く。

 それは娘の幸せに対するものであり、同時にアウグステ自身のものでもある。グロワス王とアナリゼ妃の婚姻を強く後押ししたのはこのエストビルグ正妃なのだ。


「絵画といえば、アナリゼ様がシュトロワのさる施設をグロワス陛下とご訪問の折りには、そのお姿があまりにも神々しく、民が読む新聞にすら挿絵が掲載されたほどです」


 勇者の宮殿への行幸が新聞の紙面を賑わしたことは事実である。

 全て内務卿の監督下に製作されたものであったが、手の込んだ広報を繰り返した結果、シュトロワの民に比較的好印象を残したとの報告を受けている。


「バダン伯より聞いた。それは例の?」

「はい。グロワス王陛下より私が伺ったところによりますと、陛下はアナリゼ様に”サンテネリの国母となってほしい”と伝えられ、その証として”おそろい”の衣服で行幸に臨まれました。また、アナリゼ様がとても嬉しそうになさっておいでだったと正妃女官長より聞いております」


 父母共に事のあらましは聞いている。

 グロワス王の政治的意図については理解するが、いささか奇矯な振る舞いが過ぎるのではないか。ゲルギュ5世は立派な顎髭をしごきながら喉の奥を鳴らした。


「そういえば、アナリース様の女官長殿は、聞くところによればフロイスブル殿の奥方様でいらっしゃいますのね。アナリース様は幸せでいらっしゃいますわ。若くして故国を離れ、異郷に暮らされるご不安もございましょうに。エストビルグから送った女官たちはおりますが、やはりサンテネリで身辺を見てくださる方が必要です。その点奥方様はもおありになるのですから」

「ええ、左様です。我が妻は亡くなった正妻の侍女をしておりました。元の身分も低く、正妃様に近侍するのは恐れ多いと陛下に申し上げたのですが、”是非に”と仰せになりまして」

「よいのです。かえってアナリース様も気楽でしょう」


 笑みを崩さず明るく言い放つアウグステ。

 その姿にマルセルは内心を覚えていた。


 ——エストビルグ正妃様はまつりごとをご存じない。これならばバダン殿が上手く動かしてくれよう。


「侯爵殿、私からも奥方の献身に感謝申し上げたい。娘からの手紙を見るに、奥方フェリシア殿をとても慕っている様子が伝わってくる。まさにサンテネリ淑女の鏡にして自身のお手本になる方だと」


 ゲルギュは妻の放言を打ち消すべく努めて明るく告げた。

 皇帝が独立諸侯でもない一陪臣の妻の名を覚えており、それを告げるのは稀だ。


「光栄に存じます。ゲルギュ5世陛下。妻は幸せな女です。サンテネリ国王陛下からは”義母はは”と呼ばれ、皇帝陛下からも感謝のお言葉をいただけるなど」


 意に介した風もなくマルセルもまた上機嫌な笑顔で返した。

 実際のところ、彼は全く立腹などしていない。むしろ真逆だ。

 アウグステはごくの貴族女性だ。だからこそ、その普通を娘に受け継がせなかったことがサンテネリにとってありがたい。


 ——に染め上げることができる。


 マルセルの含意ある言葉に気づく風もないアウグステはローテン・リンゲン大公女である。シュトゥビルグ王国と並び帝国内で大きな影響力を持つ選帝公家の存在を夫たるゲルギュ5世は無視することができない。それはつまり、娘の婚姻に際して彼女の意向が強く働いたことからも明らかだ。


 同じことが将来のアナリゼにも起こりうる。

 むしろ状況はさらに深刻だ。なにせアナリゼの実家はエストビルグ家である。帝国の一大公家とは比べものにならない。


 グロワス王と臣下達は来るべき将来を憂慮した。

 特に王の危惧は強かった。王はこの問題に自身の権力を弱めることで対処しようとした。枢密院への大権委任である。


 だが、アナリゼが文字通りになってくれるのならば、内政干渉の危険性は格段に薄まるだろう。

 マルセルが妻から聞く限り、アナリゼにはいわゆる”普通の貴族女性”の感覚が薄い。つまり、愛着ある実家の栄達とその影響力行使に興味がない。彼女に比べれば自身の娘ブラウネですらかなり”普通”だ。


 ——陛下が上手くやってくださるだろう。


 アナリゼは恐らくエストビルグの意向を「伝達する」存在として作られた。フロイスブル侯爵はそう予測する。

 自我を強く出さず、実家の指示を受けてそれを実行する存在。


 だが、今のところ計画は裏目に出ている。

 妻フェリシアが女官長に就任した際、アナリゼは母国からついてきた女官達を一顧だにしなかった。本来であれば抵抗があってしかるべきところだが、彼女はごく自然にフェリシアとともに過ごすようになった。

 そして娘ブラウネを中心に、王の妃達の輪の中に取り込まれた。滑らかに。

 これらはつまり、アナリゼの無抵抗が予定された方向と逆に作用した結果である。


 最近になってアナリゼは徐々に積極性を見せるようになったが、それはもっぱら王との邂逅の中で引き出されたものだ。実家からの指示によってではない。


 マルセルは苦笑交じりの賛嘆を禁じ得ない。

 ブラウネの様子を見れば、王から致命的といってもよいほどの影響を受けていることが手に取るように分かる。ある程度の世知を備えた娘ですら引き寄せられるのだから、中身がはるかに空疎な——まっさらな少女がどうなるかは火を見るより明らかだ。


 自身の主君たるグロワス13世はその妻達を政略の道具と見なさない。

 逆に、一女性としての彼女達と努めて触れあおうとする。ブラウネの菓子作りなどまさに王の指向の表れである。

 だが、一方で、王は驚くほど見事に彼女達を道具として使う。傍から見ればそれは計算ずくの政略だ。

 マルセルは王のこの二重性に頼もしさを感じている。同時に恐ろしくもある。矛盾する二つの姿勢が一個人の中に無理なく同居しているのだ。妻達の”女”に溺れながら、それを自己の、あるいは国家の利益につなげようとする冷えた心性がある。


 ——複雑な方だ。


 自国と中央大陸を二分する大国の主とその妻を相手に闊達な会話を交わしながら、フロイスブル侯爵の心内は主君に向かっていた。





 ◆





 アウグステが上機嫌に退出したあと、残された二人の男は”本題”に入った。

 エストビルグとしては異論はない。

 フライシュ3世がエストビルグの帝位を正式に認め、不当に占拠したシュバル公領を大部分を返還するというのだ。その上シュトゥビルグ王国の権益すら独占できる。

 問題となる帝国諸侯の動向も、大管長ワイゼンベル公の同意を得たことで解決した。

 大切な娘を嫁に出しただけの見返りは得た。


 だが、ゲルギュ5世の不安はその見返りの巨大さから生まれる。

 プロザンは飛び地を解消し、帝国は権威を回復し、エストビルグはシュトゥビルグ王国への影響力を増す。一方でサンテネリは何を得たのか。それが分からない。

 帝国内の戦から距離を置きたい心象は理解できる。戦争がサンテネリ経済に大きな影を落とすであろうことも分かる。

 だが、それはどこの国も変わらない。

 ある種いつものことであり、いつものように凌ぐべき懸念だ。つまり、国内の金のあるところから搾り取る。これまでのように。

 なぜそれを厭うのか。


 ここ数年のサンテネリの動きがゲルギュ5世を過敏にさせる。

 年若い王の気まぐれかとも思うが、それにしては行きすぎている。枢密院制の導入など、まさに目の前に座るルロワ家の家宰が断固として首を縦に振らない変革であるはずだ。にもかかわらず、それは平和裏になされ、家宰は枢密院特使としてヴェノンにやってきた。ならば、この男フロイスブル侯爵を納得させる何かがあるはずだ。

 皇帝の興味はその「何か」に向かう。


「フロイスブル殿。この”問題”に片が付いたら一つお骨折りを頼みたい」

「私に出来ることであればなんなりと」


 皇帝はその手に持った数枚の上質な紙をゆっくりと、丁寧に二つに折った。

 それはフロイスブル侯爵が皇帝に手渡したグロワス13世からの「私信」である。国書ではなくあくまで私的な手紙として王が直筆で綴ったものだ。


「この手紙をに、一度お会いしたい」

「何か問題がございましたでしょうか?」


 封印された私信である。当然のことながらマルセルは中身を読んでいない。

 王の書いた文章に何か不味いことがあったかと一瞬気をもむが、ゲルギュ5世に怒気はない。ただ、瞳の中には微量の困惑があった。


「いや、とても情のこもった真摯な言葉を頂いた。これまでと同様に。——そこでふと思ったのだ。やはり一度婿殿にお会いすべきだと。いかがかな、ルロワの家宰殿」


 マルセルはサンテネリの宮廷大臣であると同時にルロワ家の家宰でもある。


「我が主君ルロワ大公様とエストビルグ大公様が、ですな」

「そうだ。聞けばプロザン殿は御身の御主君と会われたとのこと。私だけ仲間はずれというわけにはいくまい」


 ゲルギュ5世がぎこちない笑みを浮かべて軽口を付け加える。日頃笑い慣れぬがゆえの不器用な表情。


「左様ですか。では、戻り次第調整いたしましょう」


 断ることはできない。王がフライシュ3世と会見した以上、ゲルギュ5世と会わない選択肢は存在しない。立場としてもゲルギュ5世は王の義父にあたるのだから。


「ご快諾感謝する。婿殿にお会いできる日を楽しみに待とう。——ところで家宰殿、この手紙を読んで驚いたが、ルロワ大公殿は最近名乗りをなさるようになったのだな」

「我が国はその体制を一部改めましたので」


 枢密院発足以降、グロワス13世は自身が関わる全ての書面で名乗りを改めている。ゲルギュ王の手にある私信と同様、今回マルセルが持参し公式な謁見で捧呈する予定の国書においても新たな署名が使用された。


 サンテネリ国王ロー・エン・サンテネリ

 枢密院主催者コントゥール・ドゥ・コンシー・エン・サンテネリ

 グロワス


「”導き手コントゥール”とは。前例にないが良い名乗りだ」


 それは賞賛か、あるいは揶揄か、あるいは困惑か。

 ゲルギュ5世の掠れた声色はマルセルに特定を許さなかった。


 あるいは全てか。

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