暗君とフロイスブル家

 残りの執務を全て棚上げにして、家宰フロイスブル侯爵は急ぎ屋敷に戻った。

 妻と息子達、家臣達、主立った者達を食堂に集める。

 そして長女ブラウネも。


 これはフロイスブル家の話であり、彼女の話でもあるからだ。




 ◆




 マルセルはルロワ家の家宰を数多く輩出した譜代の名門貴族フロイスブル侯爵家の次男として生を受けた。兄が早世し、側妻の子である彼が家督を継いだ。長じてはフロイスブル家の家職である政治の世界に飛び込み、以降順当に要職を歴任。先代王の治世末期に父の後を継いで家宰となる。

 若き日は活力に溢れた王もその晩年はすっかり大人しくなっていた。政治的挫折に身体の不調も重なり、政務に関わることはほとんど無くなった。王太子は成人しておらず摂政の勤めを果たすことも出来ない。だからこの時期、サンテネリを動かしたのは彼マルセルである。


 ルロワ家の家宰、つまりサンテネリ王国の宰相として彼は王太子に期待した。荒削りなところが目立ち現実を軽んじる傾向があるが、何せまだ十代の若者。それらの欠点は成長と共に消えてゆくだろうと考えた。

 王太子には「活力」がある。王の無気力を間近で見続けた彼にとって、その一点だけでも他の欠点を押しのけて期待に値するものだった。


 王が亡くなり新王が立つ。

 グロワス13世。


 そこからの1年は上手く事が運ばなかった。

 グロワス13世は少々”行きすぎて”いた。

 親政の意図は早くから見えた。だが、まだ王権がサンテネリ北部にしか届かない昔と異なり、今の王国はサンテネリ全域に加えて海外に植民地まで持つ中央大陸でも有数の大国である。そこで起こる全ての問題を完全に単独で捌くことなど不可能に等しい。情報の収集と加工、大まかな判断を経て上がってくるいくつかの「草案」を元に、そこから臣下の意見を参考にしつつ一つを選び取る。現代の「親政」とはそういうものだ。マルセルは当初、グロワスの求める親政の形はそのようなものであると認識していた。

 そして齟齬が生じる。

 グロワスが求めたものは「草案」段階からの参入であり、臣下の意見は必要とされなかった。むしろ王はそれを夾雑物きょうざつぶつと見なしたのである。


 王が「現実はこうあるべき」と定めるものがまず存在し、それが群臣の討議を経ることなく「理想を実現するための案」となり実行に移される。

 王の理想案は当然のことながら機能しなかった。


 マルセルは家宰として職務を全うした。諫言である。

 当然のことながら、王は彼を受け入れなかった。出仕を停止された彼はある種の無感動をもって待遇を受け入れた。やがて職を解かれる。それでよい。やるべきことはやった。


 そんな諦念の日々、突如王の不予が起こる。

 グロワス王は近年珍しい一人子である。世継ぎを残さぬまま万が一のことがあれば王権は傍流に移る。アキアヌ大公家に。

 それはそれで仕方が無い。捨て鉢というわけではない。マルセルはただの事実として状況を受け止めた。政治の世界に身を投じて30年、人間には操縦不可能な何か、「運命」とでもいうべき何かがあることを、彼は様々な体験を通じて学んできたからだ。


 王が回復し、自身に召喚の命が下ったとき、それもまた「運命」であろうと受け入れた。家宰職を解かれ引退を宣告される。あるいは過酷な運命が待っているかもしれない。

 長く権力の座を占めた彼を疎む者は少なくない。政治家の常として、潔白とはいいきれない行いもある。彼を疎む王の下、政敵達は色々な工作ができることだろう。


 光の宮殿パール・ルミエに向かう道中、彼は屋敷に残した家族のことを思った。宮殿で拘束され、罪の自白を促すが為されるかもしれない。恐らく自分一人の命で収まるだろう。しかし、収まらなかったときは?


 彼はに正妻と側妻、二人の妻がいる。いや、

 正妻は娘を、側妻は息子達を産んだ。フロイスブル家と同じ譜代伯爵家から嫁いだ正妻は身体が弱く出産の折りに命を落とした。側妻は男爵家の娘にして正妻の信頼篤い侍女だった女。自身の病弱を案じた正妻が彼に勧めた娘だ。

 正妻を失った彼は以降新たな正妻を迎えなかった。王国指折りの大物貴族としては異例のことである。

 ただ一人の妻となった女が、自身が生んだ男児達とともにブラウネを養育した。ブラウネにとっては継母である。その状況に彼は当初不安を感じたが、やがて解消された。

 ブラウネは女にとって「お嬢様」の生まれ変わりであり、娘でもある。そんな存在だったのだ。立場を超えた親友の忘れ形見と言ってもよい。

 妻はブラウネを慈しみ育てた。どこに出しても恥ずかしくない立派な淑女であれと。栄えあるフロイスブル家の姫にして、親友の忘れ形見、そして我が娘であれと。


 執務室で数ヶ月ぶりの再開を果たした王の様子は、彼の予想を完全に裏切った。

 王はこれまでの冷遇を心からわび「マルセルの目から見た」王国の現状を知りたいと要望した。儀礼的に身を控えようとする彼に懇願さえもした。手を取り「助けて欲しい」とさえ口にした。

 王が口にしてはならない言葉だ。しかしそれは本心からのもの。マルセルは王の驚くべき変化に困惑しながらも協力を約した。


 彼はサンテネリにおける政務の要として復帰した。密かに打診がなされていたエストビルグとの和約についても拍子抜けするほど何の抵抗もなく決定が為された。陸海軍の縮小と改革、近衛軍の段階的な解体。これもまたあっさり決定された。関係各所との折衝は骨が折れるが、まとまったものを王が止めることはない。

「皆の討議が尽くされたのであれば、私はそれを理解したうえで、そう為すよう諸君に命令する」

 この王の言葉で物事は決する。


 最初はグロワスの理解を喜んだ彼だが、徐々に違和感を覚えるようになっていく。

 王が無能であり、臣下に言われるがままになっているのならば「それでよい」。そのような王を補佐するのが臣下の存在意義である。

 グロワス13世、この20歳の若者、つい先日まで夢想を飛ばすしかなかった若者は、今では玉座に腰掛けたまま発言することはほとんどない。退屈そうに手元の懐中時計を眺めているときすらある。しかし、公式な会議が終わり個別会合の段になると態度は一変する。鋭い疑問を矢継ぎ早に投げかけてくる。その内容から、”王が大体において状況を理解しており、ときには彼ら臣下の想定の先を読んでさえいる”ことが理解できた。


 ——陛下は英明でいらっしゃる。

 それはとても喜ばしいことだ。しかし危険でもある。全てを理解しているにもかかわらず、何も言わず臣下の動きを眺めている絶対権力者。これほど怖いものはない。

 一挙手一投足を採点されている。そんな感覚に陥ることすらあった。五十を過ぎた家宰が三十も下の若者に。


 ——そして、臣下を信頼なされていない。

 王の行動は表面的には臣下への全幅の信頼から来るものだ。しかし真逆の心象が浮かび上がってくる。この疑心暗鬼を同僚の聡い者達は多かれ少なかれ皆、感じている。

 家宰の地位を筆頭に王国の重職は垂涎の椅子である。座りたがる者は多い。マルセルとて長い争いの末にそれを手にしたのだ。未だに地位を狙う者達が宮殿には数多くいることとて分かっている。しかし、もう彼ら政敵の動向は気にならなかった。

 この椅子はとても”座り心地が悪い”のだ。代わりたい者がいれば譲ってやってもよい。そう考えるまでになっていた。




 ◆




 今日起こったのあらましを語り終えたとき、フロイスブル家の子ども達は皆一様に血の気をなくしていた。


 王が襲撃された。

 その一事だけでも悪夢である。おぞましい。我らが王の神聖な身体が傷つけられたのだ。にもかかわらず、彼らの父と、そして被害者たる王までもがそれを「なかったこと」にしようとする。大逆の罪には極刑をもって報いねばならぬはず。

 父の後を継ぐべく政治を学び続けてきた兄弟は、父と王がやろうとしたことの意味をかろうじて理解できる。感情は追いつかないものの。

 しかし、そこからの展開は理解できない。父はなぜ命をかけて、さらに家を犠牲にしてまでも「責任」を取ろうとするのか。


「グロワス陛下は善性のお方。そして極めて英明なお方だ。私がどう申し出たところで、”おまえたちが”死を賜ることはなかっただろう」


 妻と子ども達、主立った家臣にマルセルは告げる。

 最悪の場合でも死ぬのは自分だけで済むだろうと彼は考えていた。グロワス13世は底知れぬが、無意味に事を荒立てることを好まない。それだけは分かる。賜死も公式の刑罰によるものではなく、館で毒杯を勧められる形式になる。息子娘の経歴には「公式な」傷はつかない。病死として処理される。

 そう読んだ。

 何しろ王の身体が害されたのだ。家宰が責任を感じて毒杯を煽るのは不自然ではない。

 王の身体は神聖にして不可侵。


 にもかかわらず「公的な処罰を」と言を重ねた彼は、明らかに冷静さを失っていたといえる。頭で事の推移を慎重に予測しながら、もう一方で心が喚き立てていた。

 ——王の本心が知りたい。

 だから無益を承知で挑発した。


 その後に起こった王の激発はマルセルにとって半ば予想内、半ば予想外のこと。

「王を完璧に演じきる役者」である王が、その演技をかなぐり捨てた。いや、それもまた演技のうちなのか。悩ましいところだが、あのように感情をあらわにしてことも可能性の一つとして予想していた。いや、願っていた。それこそが彼が望むもの。臣下たちが望む姿だった。


 だが、たった一つ、彼が全く予想できなかった発言がある。

 娘ブラウネを出仕させよ。「世話」をさせよ。という。




 ◆




「ブラウネ、陛下のご命令はこの通りだ」


 強く唇をかみしめる最愛の娘。見つめるマルセルの瞳は悔悟に満ちていた。


「…承知いたしました。——陛下のご下命に従います。お父様」

「そうか。…父を恨んでよい」


 涙を必死でこらえながら言葉を吐き出す娘。これも運命なのか。これまで様々な運命と出会ってきたが、これは特大の酷いものだ。自分が求めたもの——陛下の本心——が娘への辱めとして返ってきたのだ。


「マルセル様、ブラウネ、少しよろしいかしら?」


 今まで黙していた妻の突然の発言に父娘は弱々しく視線を向けた。

 フェリシア・エン・フロイスブル侯爵夫人。サンテネリ王国家宰の側妻。今はただ一人の妻。


「ブラウネを”下女”とせよ、と。”遊び女”とせよ、と陛下はおっしゃったのですか?」

 遙か昔、正妻の侍女として侍っていた頃から変わらぬ、相手を射貫く強靱な視線。


「——そうはおっしゃられていない。当たり前だろう。そのような直截な発言を陛下が為されることはない。だが、つまりそういうことだろう」

「では、ご命令はただ、陛下の御手が傷つかれたので世話をせよ、とのお申し付けのみですね?」

「そうだ! 何度も言っておる」

「マルセル様に罰を下されないのは”ブラウネを連座させたくないから”だと陛下はおっしゃったのでしょう? そして”ブラウネを出仕させよ”と。あなたに家宰を続けさせるおつもりでいらっしゃる一方で、その娘を辱めるというのですか? わたくしまつりごとなど分からぬ女です。なので、殿方には当たり前のことを不思議に思ってしまってもお許しくださいませ。——”手放さぬ”と言った女をなぜ下女に落とすのです?」


 何を馬鹿なことを。フェリシアの表情がそう語っていた。


「ブラウネ、お聞きなさい」

 彼女は夫から視線をはずし、今度は娘に狙いを定める。


「——ある山村の男爵家の娘の話です。14になった少女は行儀見習いのため、近隣の大領の御領主様のところに奉公に出ました。そちらのお嬢様は少女とちょうど同い年。お嬢様はご幼少の頃よりお身体が弱くていらっしゃいました。一方男爵の娘は健康です。顔も身体つきも性格も正反対なのに、なぜか二人は仲良くなりました」


 ブラウネは目にたまる涙を布で拭いながらじっと聞いた。継母ははの声は低く、心地よい。


「少女は籠もりがちなお嬢様を慰めるために外に出て”楽しいこと”をたくさん持ち帰りました。お花やときには噂話も。逆にお嬢様は色々なご本をお読みになり、その内容を無知な娘にお話しくださいました。そんなある日、お嬢様に素敵な縁談が舞い込んできました。お相手は侯爵家の次男。お二人は縁を結ばれ、少女はお嬢様とともに侯爵家に参ります」


 マルセルは母娘の会話を横目に息子達と視線を交わす。少し間が悪い。気恥ずかしさだ。


「少女とお嬢様はお友達でした。身分は離れているものの心は姉妹のように通じ合っていました。そんなお嬢様がある日、娘にささやいたのです。旦那様の側妻となってほしいと。娘は即答できませんでした。日頃からお嬢様との間で旦那様の話題も多かったので、娘もまた旦那様のことをよく知っています。良いところも悪いところも。——そして、なぜお嬢様が娘にそう頼まれたのかも。娘の気持ちとご自身のお身体」


 そこで女は一呼吸付いて目を閉じる。

 目の前の娘は”お嬢様”を思い出させる。優しげに少し垂れた瞳。均整の取れた女性的な肢体。穏やかな物腰。それはお嬢様だった。

 そして同時に思い出す。痩せてちっぽけな、そのくせ元気と負けん気だけは強かった侍女を。


「やがてお二人にお子が生まれました。——そしてお嬢様は亡くなられました。侍女はそのお子をお育てしました。そんなある日、旦那様が侍女にこう言ってくださったのです。正妻になって欲しい、と。侍女は不遜にも一つだけ条件を付けてお受けしました。正妻ではなく側妻としてであれば、と」


 そうですね、あなた。

 フェリシアの目がマルセルに同意を求めるかのように夫に絡んだ。


「ブラウネ。あなたはサンテネリ中にその名を知られるフロイスブル侯爵家の姫です。ですから、姫であると同時に”侍女”におなりなさい。——侍女から側妃になった女は数多いのですよ」


 フェリシアがグロワス13世と直に言葉を交わしたことはほとんどない。ほんのひとときの挨拶程度。マルセルからの情報や夫人達の噂話を総合する限り、太子時代の彼は若者特有の粗暴さはあれど女性を手ひどく扱う素振りはなかった。むしろ、女性を守ってこそ男であるという古くからの父権的性格を備えているように感じられた。そして、その粗暴さを娘が嫌っていることも。

 しかしここ一年、ブラウネは明らかに王に惹かれている。王と会えた日は上機嫌で、いつにもなくはしゃいでいる。「陛下はこうおっしゃった」「陛下にこうして差し上げた」「陛下にこうしていただいた」と逢瀬の一部始終を嬉しそうに話す娘の姿は、権勢や地位ではなくグロワスという個人に対する好意の表れに見えた。

 娘の反応を見る限り、王もまた彼女を憎からず思っている。もし強い好意がなくとも、下女として水場で下働きをさせてやろうと思うほど嫌われているとは考えづらい。


 ことは単純で、マルセルが取りうる”軽率”な行動、つまり自害や出仕拒否を防止するためにブラウネを手元に置こうとしただけなのではないか。王本人がそう言っているのだからそのまま受け取ればよい。


「万が一にもそんなことはないと思いますが。もしも。もしもどなたか他のご令嬢方の中にあなたの侍女姿を嗤う者があれば、わたくしとお父様にお知らせなさい。ブラウネ。——サンテネリ王国家宰であるお父様がなんとかしてくださいます」


 フェリシアは明確な意味を込めて夫を射貫いた。

 ブラウネを絶対に護れ、と。


 彼女の瞳はマルセルに、心の基層に沈む古い思い出を引きずり出させる。

 些細なことで”お嬢様”と喧嘩をし、泣かせてしまった夜の食卓。お嬢様に近侍する”侍女”の「お嬢様を傷つけることは絶対に許さない」想いが凝縮した視線を受けた夜のことを。




 ◆




 王の居室は光の宮殿パール・ルミエの二階にしつらえられている。居室といって一部屋ではない。寝室に書斎、茶の間、私的応接室、そして使用人の控え室の五部屋からなる広大な空間だ。


 グロワス13世はそこで、朝食前のひとときに異例の訪問を受けた。

 家宰フロイスブル侯爵である。


 昨夜のうちに伺候の連絡を受けたグロワスは、いつもより心持ち起床時刻を早め、準備を整えていた。


「家宰殿。おはよう。今日こうして出会うことができてうれしい」


 侯爵が待つ応接室に入るやいなや、グロワス王は快活な素振りで挨拶を交わす。声が少々掠れているのは昨晩の痛飲のせいだろう。


「おはようございます。陛下。本日は急な申し出にもかかわらずお時間をいただきましたこと、感謝申し上げます」


 王の顔を、身振りを、侯爵はじっと観察している。

 見たところ”普段の王”だ。穏やかで落ち着いている。


「家宰殿の要望であれば是非もなし。昨日は感情が高ぶって色々無礼なことを口走ってしまった。申し訳なく思う」

「もったいないお言葉です。私のほうこそ、臣下の分を超えた無礼をいたしました」

「難しいことではあるが、あれは異常事だ。互いに目を瞑ろう。——ところで、本日のご用はなんであろう。急を要する案件かな?」

「はい、陛下。昨日のご命令を果たしに参りました」


 王の薄い笑顔が固まる。


「ああ…そうだな、侯爵殿。覚えている。覚えているが…、私もあの後よく考えてみたのだが…」


 はっきりと困惑、焦り、ばつの悪さが乗った声色。グロワス13世が普段このような姿を見せることはまずない。


 王がもし娘を”下女”として扱うつもりであれば父子揃って自害も辞さぬ。

 彼はそう心に決めて会見に臨んだのだ。王の家宰とはいえ一貴族である。貴族は名誉を何よりも重んずる。


 侍女と下女。

 職域は一見近いがその意味は大きく異なる。

 主人に近侍し秘書に準ずる業務を行う侍女には家柄と知性を求められる。行儀見習いの名目で貴族の娘がより高位の貴族の家に侍女として仕えるのも普通のことだ。これが王宮となると下は騎士爵から上は伯爵家まで、様々な家柄の娘が集うことになる。つまり男性の宮廷勤めとさほど変わりがない。もっとも、男性の場合と異なり侯爵家以上の娘が宮廷勤めをすることは稀だが。

 一方で、下女は洗濯や清掃、汚物処理などを行う存在であり、貴族の娘がその役につくことはあり得ない。富裕層の平民でさえ娘を下女として出仕させることは非常に稀である。主に中流以下の平民が担う、生活の実務担当者。それが彼女たちだ。

 ただし、下女の仕事には一つだけ注意を要するものがある。

 それが「世話トレ」だ。

世話トレ」というサンテネリ語には様々な意味がある。

 食事の準備や面会の手配から身体の不自由な者の介護まですべて「世話」である。ただ、やっかいなことに、それら通常の意味の他にある種の隠語が存在する。

 つまり、性行為である。明文化されることはないが、下女はを担う存在でもある。下女は特定の個人に付く存在ではない。つまり、貴族平民問わず王宮に集う男性すべてを潜在的な”相手”として、ときには性欲の発散をも「世話トレ」する存在として認知されていた。


 だが、この反応を見る限り、王に娘を辱める意図はない。

 マルセルは心内安堵した。妻の言うとおり深読みは必要なかったのだと。


「本日まかり越しましたのは、我が娘、ブラウネ・エン・フロイスブルを陛下の御許に出仕させるためにございます。陛下の”御手の代わり”として是非”お世話”をお申し付けください」

「ああ、うん。そのことだ。侯爵殿、よく考えてみればブラウネ殿は侯爵家の令嬢だ。そのようなことをさせるのは申し訳ないと思ったのだ。あの時は私も興奮して…」


 弱々しい王の弁明を、マルセルは丁寧に、しかし断固として断ち切った。


「陛下、ブラウネはただいま控え室にて待たせております。こちらに呼び寄せても?」

「今?」

「はい」


 王が押し黙る。

 年甲斐もなく、マルセルは王の焦りを愉快な心持ちで眺めた。

 ——せっかく王が「ご厚意」でブラウネをお召しくださったのだ。「責任」を取っていただかなければ。


「ブラウネをこちらへ」

 無言で立ち尽くす王を尻目に侯爵が従僕に告げる。


 扉が開き、ブラウネが姿を現した。

 短い袖の付いた黒の貫頭衣。装飾が一切施されていない簡素さだが、明らかに上質な生地で仕立てられている。恐らくこの一着で平民の外出着が二、三着ほど作れるだろう。

 王との茶会で彼女が纏ってきた色とりどりの豪奢な衣裳とは比べるべくもない。しかし、この無地の黒が逆に、女の類い希な容姿を際立たせている。

 服と同様、装飾品の類いも一切身につけていない。指にも首にも腕にも、なにも。だからこそ、女の指が、首が、腕が映える。白く細く柔らかく甘い。


 侍女には特段制服のようなものはない。貴族の娘達の基準で見て「少々控えめ」な格好であればよい。装飾品も当然付ける。

 だからブラウネの衣裳は少々簡素に過ぎる。本来はまばゆい宝飾品や鮮やかな大判布カルールとともに身につける用途で作られた、いわば「土台の服」なのだろう。

 それをブラウネはあえて単体で着用し、王の前に臨んだ。

 母フェリシアの発案である。


「ブラウネ殿…」


 女は進み出て王の前に立ち、ゆっくりと両膝をついた。


「ブラウネ・エン・フロイスブル、お召しにより参上いたしました。全身全霊を持って陛下の身辺に侍りたく存じます」

「ああ、ブラウネ殿。立たれよ。…その、お父上との間に少し誤解があったようだ。その…」


 王は包帯に包まれた両手を所在なげに浮かせながら弁明を試みる。だが、ブラウネもまた丁寧に、断固としてそれを遮った。


「陛下、お手のお怪我、ご不便でございますね! ブラウネが”お世話”いたしますのでご安心くださいませ」

「いや、これは実は大したことはない。私は痛がりで、ちょっとした怪我なのに大げさに騒いでしまった。暇つぶしに小刀をもてあそんでいたら切ってしまった。私はうっかりものだから」

「そうでございましたか。でも、そのようなことは起こりません! ブラウネが”お世話”いたしますので」


 目は口ほどにものを言う。

 ブラウネの青い目が告げていた。


「逃がさないぞ」と。

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