暗君とゾフィ
公爵という称号が貴族に付されるためには、二つの条件どちらかを満たしている必要がある。
一つは、元は王家と並ぶほどの独立勢力であったこと。
もう一つは、王家の近しい親族であること。
ガイユール公爵家は元を辿れば「諸民族のうねり」後期に誕生した独立勢力ガイユール公領に端を発するサンテネリ地方北西端を領する大家である。形式上サンテネリ王への臣従を誓ったものの、その実は完全な独立国家といえた。
軍制改革により力を付けたルロワ朝との間に明確な争いが起こったのが第9期。騎士達が華々しく活躍した最後の時代である。
幾度かの合戦に敗れて弱ったガイユール家はルロワ朝の婚姻政策に絡め取られ、最終的には独立を喪失。ルロワ朝サンテネリ王国の「正式な」一部となった。
このような過去を持つがゆえに、ガイユール地方はサンテネリ王国の中でも
そんな国家内国家の色を残すガイユールだが、統合から800年近くを経て、ルロワ王家との関係は意外にも深い。ガイユールの姫がルロワの王に、またはその逆、と幾度となく婚姻を繰り返してきた。その結びつきはそれぞれの家の親戚筋にまで及ぶのだから、もはやガイユール家はルロワ朝の傍流と言っても過言では無い。
つまり、公爵号の二条件をどちらも達成している。名実ともにサンテネリ最大の貴族家である。
そんな大家でありながら、ガイユール公家は宮廷に役職を持たない。一見冷遇にも思われるが内実は全く違う。未だ王家の「家」と国家機構が分化しきっていないサンテネリ王国において、宮廷の役職とはつまりルロワ家の「家臣」であることを意味する。それはルロワ家の家宰という、いわば「家の使用人頭」であるはずの役職がサンテネリ王国宰相を表すことからも分かるだろう。
ガイユール公爵家はルロワ家の親族ではあっても家臣ではない。よって官職ももたない。
この絶妙な距離が公爵家にもたらしたのは、王家の「家臣」には持ち得ない自由だった。領土が西海に面していることから海運業が栄え、交易の収益が蓄積される。その富は銀行を始めとした金融資本の元手となり、今ではサンテネリ王国のみならず、中央大陸全体にガイユール商人達の商業網が張り巡らされている。彼ら商人の活動を裏書きするのは当然ながらガイユール公爵家である。王家がその膨大な富に目をくらませたところで、商人達から毟ることはできない。それをやればガイユール公家と事を構えることになる。軍事力の面では国軍を握るルロワ朝の有利だが、そもそもその国軍の運営費用の一部を供出しているのはガイユールであり、ガイユール地方出身の兵も多い。
さらに、ルロワとガイユールの両家は、かなり近しい親族でもあるのだ。
王家と確たる関係を築き、商業で富を積上げ、サンテネリ第一の諸侯として純然たる力を持つガイユール家。
その血縁ゆえに下位ながら王位請求権も保持している公家の現当主ザヴィエ・エネ・エン・ガイユールは、新王グロワス13世の存在を一種の危機感をもって眺めてきた。
若さ、野心、そして宗教的熱狂。
この三つのうち二つまでは、若年で即位したほとんどの王が大抵持っている。程度の差はあれ。
最初の一つ。若さは、若年即位なのだから皆が持っている。
だから、この「若さ」ともう一つ、何が組み合わされるかが問題だ。
若さと野心。これは領土の拡張に向かう。若さと宗教的情熱。これは正教との関係性の変化に繋がる。ガイユール家として困るのは明らかに前者、若さと野心の組み合わせである。ただ、これもまた「上手くやる」ことは出来る。
若さは世知の不足を伴うが、一方で柔軟な思考を持つことも可能にする。ガイユール公が接し方を誤らなければ互いに話し合いの余地がある。話し合えるならば妥協は可能なのだ。
若さと宗教心の組み合わせについては多少面倒ではあるものの、ガイユール公領にとってそこまでの影響はない。あちこちに聖堂を建てたりちょっと過激な禁令を発するのが関の山だ。
だが、上記の三つが備わってしまったとき、それはガイユール公家の悪夢と化す。
若さゆえに常識と経験が無く、野心ゆえに賭博的政策を為し、宗教的熱狂ゆえに妥協がなされない。その矛先が自領に向かったとき、最悪の結末、軍事力の行使がありうるのだ。
ザヴィエは新王グロワス13世を王太子時代から観察してきた。明らかに危険な兆候が見られる。先祖の英雄王に憧れ、過激な宗教的純粋主義にそまった王子。
手綱を付けなければならない。
◆
ゾフィ・エン・ガイユールはガイユール公爵家の長女として生を受けた。
ザヴィエは彼女を「深窓の令嬢」として育てはしなかった。様々な人と出会わせ、様々な体験をさせてきた。彼女が「どこか」に嫁いだとき、夫の言うことに唯々諾々と従うだけの女でいられては困るのだ。ガイユールに仇為さぬよう、上手く夫を操縦できる聡明さが必要だった。
ザヴィエのこの教育方針は、天真爛漫な物怖じしない性格を彼女に植え付けた。宮殿の奥で女官達と日々おしゃべりに興ずるのではなく、父とともに旅行に出かけ、父の仕事を見学する毎日は、幼いゾフィの心に未知なるものへの興味と関心を育んだ。
そしてもう一つ。ゾフィは父を心の底から敬慕した。色とりどりの世界を見せてくれる父、全ての危険から庇護してくれる父。ザヴィエの絶大な権力あってこそ、彼女は恐れることなく新しい世界に飛び込めるのだということを、聡明な彼女は幼い頃から理解していた。
本当に幼い頃は「お父様の側妃になりたい」とだだをこねて母を困らせたこともある。しかし、長ずるにつれ自然の成長過程としてそのような感覚は消えた。
しかし、消えなかったものもある。父のような包容力を持った男性。その好みだけが残った。
そんなゾフィがグロワス王太子と出会ったのは十歳のとき。グロワスはまだ十六歳の少年だったが、思春期の年の差は成人のそれに比してかなり大きい。家族といえば弟が二人いるばかりの彼女にとって、グロワス太子は一種の「お兄さん」であった。
ガイユール家は国家官職を持たないため、王国の都シュトロワに滞在する機会はそう多くはない。年に3、4度。長期にわたる滞在をすることもあったが、稀な出来事だった。
10歳、11歳、12歳、13歳。四年間、年に数回会える「お兄さん」のことを彼女は嫌いではなかった。父とは違う、より身近な”大人”である。そして、威厳と落ち着きに溢れた父に比して、若く、ともすると粗暴に見える振る舞いも新鮮だった。
最初のうちは。
女児の精神発達は男児のそれよりも早い。会うたびに少しずつ少しずつ「お兄さん」との距離が縮まっていく気がした。よくよく話してみれば意外と幼いところがある。人なつこい笑顔と活力溢れる振る舞いの下で、うっすらとそう感じていた。
そして14にもなれば、そろそろ先も見えてくる。
”自分はこの人の妻になるかもしれない”
幼い頃から周囲に仄めかされてきた未来が現実味を帯びる。
サンテネリ王国の女性誰しもが憧れる王妃である。悪い気はしない。ただ、ほんの少し物足りないところもある。
この頃になると父との違いは明白に分かってきた。
王子は観念の世界に生きている。思い切りのいい台詞を吐き、潔癖症で、虚勢をはっている。それを「かわいい」ととるか「幼い」ととるかは人次第だが、ゾフィの場合はどちらも半々といった具合。
自身の好みとはかなりずれてきたが、それも仕方が無い。
貴族の結婚は政治である。14歳にもなれば受け入れられる。受け入れた上で自分が相手とどう接するか、そしてどう立ち回るか、それを考えるべきなのだ。
素直で快活を絵に描いたようなこの少女。緩やかにうねる深い茶色の髪を凝った片編みに仕上げたこの少女はあくまでも前向きだった。
人生に完璧はない。それを知る年頃である。
◆
王子が病に倒れ、一週間ほどで回復したと自分に伝える父の顔は、いつもと変わらぬ落ち着いた風情を保っている。だが、その裏に落胆があることも何となく分かった。
14歳のゾフィにとって父は未だ憧れの存在であった。
だが、父が自分を”一人の娘”としてだけ見ているわけではないことにも気づいている。父の目に映る自分は「かわいい一人娘」が7割。残りの3割は硬質の何か。有用な道具を見つめる何か。
王子の見舞いに行くために準備を始めて二ヶ月。彼女は父にこう告げられた。
「今回のシュトロワ滞在は少し長くなるかもしれない」
そして、久しぶりに王子——即位を経て今はグロワス13世を名乗る——と再開した彼女の心内を満たしたのは、最初は微かな違和感。次に明確な驚き。
◆
「ゾフィ殿、ルー・サントルはいかがであった?」
「とても素晴らしかったです! ガイユールにはないお店がたくさんあって…並んでいるお店を全部制覇する勢いで歩き回ってしまいました」
「それはよかった。何かお気に入りのものは見つかったかな?」
「金細工と紅玉石で作られた鳥の首飾りを見つけました。お父様が買ってくださったんです。もう可愛くって! 本当は今日も着けて参りたかったのです。でも、陛下がお相手だから失礼になると止められてしまいました…」
ゾフィの属するガイユール家は中央大陸有数の富裕な公家である。最上級の宝石をちりばめた国宝級の宝飾品を大量に所有している。幼い頃からそのような品々に親しんだ彼女にとって、いかに富裕とはいえ所詮は平民向けの路面店に並べられた首飾りなどおもちゃのようなものだ。
しかし、少女はそのおもちゃ——庶民が10年ほど暮らしていけるほどの金額だが——を心から愛した。何しろそれは”彼女だけのもの”である。今身につけている、直視すれば目が潰れんばかりの輝度を誇る巨大な白輝石の首飾りは”彼女のもの”ではない。それらは全てガイユール家のものである。
「今身につけておられる首飾りも美しいが、その鳥の首飾りもまた、とても良いものなのだろうね。ゾフィ殿自身が選ばれたものなのだから。是非見てみたいものだ。——次に御家の方に止められることがあれば、私が許したと伝えて欲しい」
「それはその…えっと、陛下のお気に召すような素晴らしいものでは…」
王の予想外の言葉にゾフィはたじろいでしまう。ガイユール家伝の首飾りと比べれば大したことはない代物だ。王を落胆させる、あるいは、自身の審美眼を侮られてしまうのではないか。そんな不安が少女の胸を去来する。
「それは違う。私はガイユール家の家宝を見たいのではないんだ。ゾフィー殿の宝物を見たいのだ。私にもそういう宝物がある。我が家にも色々な
グロワス13世はそう言うと、自身の上着から小さな懐中時計を取り出し少女に見せた。宝石など一つも付いていないごく普通の金時計。少々余裕のある平民ならばなんとか買える程度の代物であろうことは、時計に全く興味が無い彼女にも分かった。
「正教の守護者たる地上唯一の王国」の主である彼は、それが好きだという。懐中時計を見たゾフィがどう思うかなど気にしていない。つまり「これが自分なのだ」と見せている。
堂々たる振る舞いだ。
”帝国を攻め滅ぼす!” やら ”正教の教義を糺すためレムル半島に遠征する”やら、口角泡を飛ばして大声を上げていたこれまでの彼からは全く感じることがなかったもの。王の静かな自信を聡明な少女は確かに感じた。
ちっぽけな時計一つを見せられただけで、目の前の殿方を大きく感じた。例えば、自分がその胸に飛び込んでも受け止めてもらえるくらいの分厚さを。
「分かりました! 陛下のお言葉で自信回復です。私が選んだとっておきの小鳥さんを陛下にお見せして差し上げますね!」
自分は受け止められている。
グロワス王はガイユール公家の姫を見たいのではなく、ゾフィーという一人の娘を見たいのだ。それはついぞ抱いたことがない新鮮な触感だった。
「ルー・サントルでの買い物、他に掘り出し物はおありかな?」
ゆっくりと語りかける王の言葉にゾフィはもう止まらなかった。
淑女としてはいささか早すぎる口調でルー・サントルの体験をしゃべり続ける。腕を広げ、上下に動かし、大げさな身振りを交えながら大演説を繰り広げた。
王は楽しそうにそれを聞いていた。
心ゆくまで喋り尽くして帰途につく馬車の中、ふとゾフィは気づいた。
グロワスの様子が以前と全く異なることに。
これまでのお茶会では彼がしゃべる割合の方が多く、内容も武張ったものが大半を占めた。彼女が違う話題を出しても軽く流され、再び「征服」やら「偉大な王」やらに戻っていく。
それが今日、グロワスはほとんど相づちしか打っていない。だが、おざなりな対応かというとそうとも思われない。ゾフィの話、そしてゾフィの行動を、王は確かに楽しんでいた。
ところどころ感想を述べ、ゾフィの声が枯れそうになるとお茶を勧め、盛り上がるところではしっかり笑ってくれた。
その姿はまさに大人の男だった。
少女は俄に両耳に熱を覚える。
——子どもっぽいと思われたかもしれない。はしたないと思われたかもしれない。
少し不安になる。
——帰ったらお母様にお聞きしよう。殿方とちゃんとお話しする秘訣を。
◆
ザヴィエはもう14年もゾフィの父をやっている。
聞き分けが良く、明るく、賢く、美しい、自慢の娘だ。見かけの活力から受ける印象に比して実はかなり思慮深い性格であることも分かっている。
もう4年、娘が王太子の茶会から戻るたびに彼は娘を観察してきた。
最初は楽しそうに、次は少し楽しそうに、その次は楽しそうに見えるように、帰宅した彼女の振る舞いは年々変わっていった。
恐らく心の通じ合いは望めまい。だが、ゾフィは賢い。「上手く」折り合いを付けるだろう。それができる能力がある。ただ、実の父親として心のどこかに釈然としない思いもある。娘の幸せを願わぬ親は稀だ。彼もこの世の幾多の父親同様に娘の幸せを心から願っていた。ただ、ガイユール大公として、その幸せの優先順位は残念ながら二番目だった。
「ゾフィ、陛下はお元気でいらっしゃったかい?」
「はい。お父様。お変わりなくお元気でいらっしゃいました」
「そうか。それは喜ばしいことだ。お話しは盛り上がったか?」
「はい。大層」
普段であれば、あれこれと具体例を挙げて元気よくしゃべる娘が、今日は心ここにあらずといった
その様子に、何かあったのかと問いかけても何もないと即答される。
これは何か拗れたか。
今後は色々と「行動」が必要になるかもしれない。ガイユール大公は国の重鎮である。積極的に動けば各所に波紋を広げることになるだろう。
王と彼は先日軽く顔合わせをすませたばかり。
体調がまだ完全に回復していないのか、いつもより無口だった。その程度の印象しかない。
——もう一度、じっくり話を…
寝所で思案にふけっているところを彼の妻、ガイユール大公正妃が話しかけてきた。
「ザヴィエ様? ご心配ごとかしら」
「ああ。どうもゾフィと陛下の間に何かあったらしい。あるいは勘気を被った可能性もある」
ゾフィの母は意味ありげな笑みを浮かべた。
「先ほどゾフィと話しましたわ。それはもうたくさん、今日の報告をしてくれました」
「なに? わたしには何も」
「それはそうでしょうね。父親には話しづらいこともあるものです」
「なんだそれは。ゾフィはいつも私に全部…」
公妃の笑みは苦笑とも憫笑とも、なんとも形容しがたいものだった。
——殿方って、本当に単純なこと。
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