第2話 可哀そう、可哀そうに

 体がおかしい。そう気づいたのは数日前だ。

 動悸がする。バクバクと心臓が跳ね続けている。普通に、何事もなく進んでいた工程にバグが生じて、ぎくしゃくしてしまっているような感覚だった。まるで時限爆弾がチクタクと爆発の時を待っているようだ。

 息が苦しい。呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだ。吸って、吐いて、吸って、吐いて。今までごくごく自然にできていたことが、唐突に不自然なことに成り下がってしまった。オートマチックに動いていた機械が故障して、手で動かさなければならないような、そんな状況になる。

 苦しい。辛い。怖い。私はぐるぐるとそんなことを考えた。母親は深呼吸をしろと言ってくる。そんなもの、とっくにしている。それでいて、こんなにおかしなことになっているのだ。私は八つ当たりすることもかなわず、「深呼吸、してる」と乾いた声で返事をすることしかできなかった。

 私は藁にも縋る思いでスマホのサファリを開いた。「動悸 息苦しい 対処」と打ち込んで、検索結果に目を通す。スポンサーを避けると、数個しか表示されていない。それらには全て、楽な姿勢で深呼吸をすること、と書かれていた。泣きたくなった。

 これはまずいと、私は次の日の朝思った。動悸と息苦しさは必ず夜に来るので、午前中は問題ない。この問題ないうちに、対策を考えなければならない。循環器科にいきなり行くのは気が引けたので、主治医に縋ることにした。心療内科とある通り、内科的なことも診てくれる。頼む、とぼろぼろになった藁をかき集めながら私は強く願った。


「可哀そうに」

 主治医は、私の話を聞いてそう言った。可哀そうに、なんて言いながら、視線は相変わらずパソコンに向かっているし、口はもごもごとしか動いていない。きょろきょろと動く眼球を見つめながら、私は「はあ」と意味のない相槌を打った。

「パニックですね。暑い日はパニック発作が起きやすいんですよ」

 主治医は言いながら、「夜に動悸がする。息苦しさを感じる。」と電子カルテに打ち込んでいた。私は「そうなんですか」と呆けた返事をした。

「そう。論文も出てるんでね。興味があれば読んでみればいいけど」

「そうですか」

 論文を読むのはやぶさかではないが、どの論文なのか分からない。調べるほどの気力はないので、いつか役に立つ日が来るように、「そういう論文があるらしい」と頭の隅に書き留めておいた。

「でも、予期不安とか、死にそうな感じとかないですけど」

「うん。そういうこともある」

 私の知識はすぐにいなされてしまった。私は「そうですか」とまた同じ相槌を口にした。

「血圧測りましょうか」

 主治医は言って、私の腕に血圧計を巻きつけた。ボタンを押すと、ブーンと低い音がして腕が圧迫され始める。腕を千切らんばかりの力で、血圧計は私の体の内側を探る。そんなにひどくするなよ。こっちは動けやしないんだから。私はいつも、心中そうぼやく。

 と、急に締め付ける力が消えた。ブーン、と先ほどよりは軽い音がして、血圧計から圧力が抜けた。血圧はいつも通り、上が百十、下が八十弱。ただし、示される心拍数は、百を超えていた。

「心拍速いね。可哀そうに」

 主治医はそう繰り返した。からからに乾いた言葉だった。

「はい。私可哀そうなんです」

 何が可哀そうなんだろう。そんなことを思いながら、私はおどけてみせた。しかし主治医はクスリともせずに、「ベンゾ出しておくから」と淡々と口にした。ベンゾジアゼピン系。かなり強い薬だ。寝る前に飲むよう、主治医はカルテに書き込む。口で言ってくれよ、という私の不満は知らないらしい。

「じゃあまた」

 主治医は言って、話を打ち切った。私は「ありがとうございました、失礼します」とマナーを守った挨拶をして、診察室を出た。

 結局、血圧を測って薬を出すだけだった。はい、私可哀そうなんです。自分で口にした冗談が、ぎゅっと心臓を掴んだ。

 あの時、泣きでもすればよかったのだろうか。そんなことを思ったが、もう遅い。私は処方箋片手に、いつもの薬局へと向かった。その背中は、可哀そうだったのだろうか。

 主治医に言えば、きっと言ってくれるだろう。おあつらえ向きの「可哀そうに」。

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