朝から吐いた
昨日の話である。
昨日は前回の記事(つまり第一回。この連載のイントロになる箇所)をどうしても書かなければならなかったから時間をそっちに奪われてしまった。
今日になって昨日のことを書く。
今日も色々あってかなり体調が悪いのだが、今日のことは後回しにする。
まあ可能なら今日の話も付記しよう。
昨日は一週間ぶりにコーヒーを飲もうと思った。
カフェインを断ってから一週間(厳密には加えて数日)経過したから、
そろそろカフェイン耐性も人並に戻ったかもしれないと思ったのだ。
カフェイン耐性とは難儀なもので、あまり弱りすぎると胃を痛める度も増す。
しかし耐性が強すぎればもはやカフェインを摂取しても目が醒めない。
〈コーヒー一杯で充分に目が醒めるものの、さほど胃は傷まない〉という耐性を維持するのは至難の業である。
「試みに一杯コーヒーを飲んでみる」という発想自体は別におかしなものではない。
しかし断薬後(そして薬物への酷い依存の後)の私の体はかなり弱っていた。
朝の一杯、その一口で吐いてしまったのである。
一口飲み、「ああこれは駄目だな」と思いつつも胃薬を飲む。吐き気止めを飲む。
しかし数分格闘したところでじきに薬ごと吐いてしまうのだから無意味だった。
その日の午前は全て駄目だった。
断薬後はずっと眠れない。
眠れないとは言いながら寝ないと死ぬのだから最後は寝る。
眠れない人間がどういう風に寝るのか。
私の例を示してみると、
まず夜からずっと「アイマスク装着、仰向け」の姿勢を維持する。
言ってしまえばそれだけである。
アイマスクをしているのだから、
眼を閉じていようが開いていようが見える景色は変わらない。
意識して眼を閉じ、寝ようと努力はしているものの最終的に
「眼を開けているのか閉じているのかわからない」という状態になる。
「アイマスク装着、仰向け」、寝返りはあまり打たないタイプだから本当に眠れないと退屈だ。
退屈との格闘に敗けるのはわかりきっているのだから、
小さい音で音楽やホワイトノイズ等を流す。
こうすると面白い。
これでやっと
「自分が起きているのか寝ているのか」
「ちゃんと眠れているのか」が判断つくのである。
音楽無しでは実感としては
「とにかく視界を真っ暗にしている。寝そべっている」
という以上何もわからない。
眠れているのやら眠れていないのやら、判断つかない。
時計を見て時間が急にすっ飛んでいれば「寝ている」ということになるだろう。
しかしもちろんわざわざ時計など見ない。
ところが音楽を流しておけば〈音楽が聴こえるか/聴こえないか〉で〈起きている/寝ている〉状態を判断できる。
もっとも浅い眠りのときに見る夢はあまり現実と変わらない。
「アイマスクをしながら音楽を聴いている夢」を見ることもどうもあるようだ。
他者からの観察を経ない実感とは難しいものである。
さて音楽を基準にして考えてみると、私はどうも多少は寝ているらしい。
それは良いのだが、おそらく三十分、長くても一時間ごとに起きている。
起きているといっても長い間は起きない。
音楽を聴きながらまた眠る。
こうした時に単なる「眠れるノイズ」「ホワイトノイズ」ではなくて
良く知っている音楽を流していると時間の感覚がよくわかる。
私はLUNA SEAの活動休止(凍結)前の全アルバムを試しに流しながら寝たことがある。
私はLUNA SEAのこれらのアルバムを相当に聴き込んでいるから面白いほど
〈寝ている/寝ていない〉がわかるのである。
そんな調子の睡眠をここ毎日とっている。
なかなか体が休まらない。
何もしなくても午前中ずっと寝ている(と言いつつほとんど寝られていない)場合もある。
「眠れないのに眠い」と「頭が動かない」、そして「体がだるい」、「直前の行動や思考を忘れる(健忘)」あたりは一日中ずっと続いている。
薬を飲んでいた時期の記憶もほとんど無い。
それ以上の過去の記憶はそれなりにあるつもりだが、虫食いのように忘却した箇所が増えているのだろうか。
集中を要する車の運転等は決して出来ない。
文章を打つのはどうにかできる。
無論この文章が全うに出来ているか完成度を指摘してくれる第三者など居ないから案外「文章を書く能力」も失っているのかもしれない。
まあとにかく人並みに書ければ結構だ。
昨日は嘔吐のせいで疲弊していたから仰向けに寝転がってボンヤリしていた。
例の「眠れない眠気」に脳をボンヤリさせながら、それでも起きていた。
どうせ眠れないのだから無理に寝ようと努力するのは良くない。
そうして試みとして「記憶が新鮮なうちに〈朝から吐いた〉という短歌をいくつも作ってみたらどうだろう」というアイデアが頭に浮かんだ。
最終的に生まれたのが「午前に嘔吐」という十首である。
連作と呼んで良いかはあやしい。
なぜなら連作は「完成度・構築美」を目指して徹底的に歌の順番などを操作するが、
「午前に嘔吐」は「出来た順」だからである。
また「出来が悪い歌を捨てる」作業もあえてしなかった。
そんなことをすれば十首全部が捨てられてしまう。
一般論だが、頭をボンヤリさせながら良い歌など出来るものではない。
「午前に嘔吐」に魅力があるとすればそれはドキュメンタリーじみた点にある。
要するに「実体験としての嘔吐を脚色していく様がみえる」点、
それから「嘔吐という不慣れなモチーフの特色を徐々に発見していくさまがみえる」点などである。
「実験的な作品」とよく言うが、
「作品自体が実験」とか「実験資料」とか言われるのは
とにかく「芸術」ではなく「記録」なのだと思って読んでほしい。
十首そのまま掲載する。
「午前に嘔吐」
・嘔吐して午前の気力
・嘔吐して午前の気力潰えつつ 仰臥する俺、
・嘔吐して午前を落として眠れないまま狼と龍の夢
・嘔吐して落とした午前の価値測れ、時の
・嘔吐して落とした午前、
・嘔吐して俺をはかなむ柔らかい脳痺れさす薬求める
・嘔吐して甲虫に似て転がって、踏み潰されても気にするな(俺!)
・嘔吐して
・嘔吐しても下痢しても「死」は思われて いつも見てます 見て・見て・見て・見て
・苛まれ「
さて以上が十首である。
やはり芸術性という点で見るとあまり良いのがない。
強いて探せば
「・嘔吐して落とした午前、
・嘔吐して俺をはかなむ柔らかい脳痺れさす薬求める
・嘔吐して
・苛まれ「
の四首が僅かに面白みがあるかもしれない。
あとの歌は短歌としては見どころもなく面白みもない。
「日々吐く友にあざけられたい」という発想が最初に出ているが、
これは他の歌に受け継がれなかったようだ。
「甲虫」は二首にあるから一応「再利用」されている。
短歌にはモチーフから手に入れたイメージやアイデアを蓄積し、
再利用しながら洗練していくという方法がある。
堂々たる芸術的な連作においてもこうした「再利用」されるアイデアや言葉は存在する。
それは「流れ」と呼んでもいい。
一の発見から第二第三の発見へと連続させるうちにより豊かな内容を得るのである。
この場合、連作中でどんどん全く違う言葉やアイデアを使うのは「第二第三」と「連続させる」というのにはあてはまらない。
「日々吐く友」の詳細を描けばキャラクターとして成長できたかもしれない。
こうした「継承・発展されなかったアイデア」はもったいない。
とはいえ歌を連続させる場合、そうした「実らなかったアイデアの種」は一定数含まれるものだ。
それが存在しない連作があればそれはかえって「同じアイデアばかり詠みすぎ」ということになる。
読者はグルグルとループした文章を読まされているような気分になるであろう。
「記録」として興味深いのは後半の歌群において、
「自己憐憫から自罰へ」という一定のテーマが見られることだ。
逆に言えば前半の五首は「自己憐憫から自罰へ」というテーマに至るための長い道のりであった。
それは「嘔吐」というモチーフから色々なテーマの可能性を発見しつつ、
「あのテーマは自分には合わない」
「このテーマはつまらない」
といった具合に吟味している、狙いを定めるために準備している五首である。
さて、〈全十首〉を〈前半五首/後半五首〉に分け、〈後半五首〉だけを見直してみよう。
「・嘔吐して俺をはかなむ柔らかい脳痺れさす薬求める
・嘔吐して甲虫に似て転がって、踏み潰されても気にするな(俺!)
・嘔吐して
・嘔吐しても下痢しても「死」は思われて いつも見てます 見て・見て・見て・見て
・苛まれ「
「俺をはかなむ」とはもちろん「自己憐憫」であり、
その「俺をはかなむ脳」を「痺れさす薬求める」というのはのちに「自罰」と
〈自己憐憫する脳を薬で痺れさたい〉というのは一風変わっている。
なぜなら「楽になるために薬を飲む」のではなく
「自己を追い込むために薬を飲む」というのは実に奇妙だからだ。
相当に薬に依存していてなおかつ精神が屈折しているとこのような倒錯に至るのだろう。
冷静に
次に「踏み潰されても気にするな(俺!)」が続く。
これもまた「自己を締め上げる」「自罰」の流れで読むとどうも病んで見える。
「気にするな(俺!)」の一見前向きな「応援歌」的ムードと、
意識的か無意識かわからない前後の退廃に容易に呑まれる「自罰」性だ。
健全そうな歌が「前後を眺める」ことによって一転するのはよくある話である。
この場合短歌は「出来た順」なのだから、順番に歌を読み前後を比べる作業は自然と「作者の脳内を推し測る」ことになる。
作者の脳内を推し測ることで隠れた闇に到達したのである。
「・嘔吐して
・嘔吐しても下痢しても「死」は思われて いつも見てます 見て・見て・見て・見て
・苛まれ「
歌を読み解く鍵はだいたい手に入っている。
末尾の三首は一気に解説しよう。
前後を読まなければ「荒れた心」の正体が分からない。
もちろん「自罰」だろう。「自罰」の心が「一仕事経た」と主張するが「ごとき身」と「争う」のである。
次の歌は「死」が思われるとあるが、「死」を思うことの是非や意味、
「死」を思うまでの過程が書かれていない。
「見て・見て・見て・見て」のあえて八音になる不器用なリフレインは明らかに
それ以上のことを語るまいとする一種の
最後の
「・苛まれ「
で一気に謎が解かれる。
それはある意味で「自罰的な心や自己憐憫の心という自らの恥ずかしい箇所をためらいながら開示してきた歌群が、ついに勇気と客観性を持ってその心理を総括する」
ということになる。
「見て・見て・見て・見て」のあの不自然で覆い隠すようなリフレインと比べた時、
その明晰な客観性はもはや「恥じらいから決心へ」と勇気を出して腹を割ったように見える。
そうして自分自身の謎とためらいを客観視し、
一種自己言及的に「自分が作った『午前に嘔吐』はこんな話だったんだよ」
と言ってのけるようなところさえある。
そうしてクネクネと悩むのをやめて客観視に至った時、
そして手の内を明かした時、テーマの連続は一区切りされなければならない。
――そのあとになってより深まったテーマを描くか、全く別のテーマを描くかは場合に依る。
ただし「手の内を明かした」うえでまたもとに戻って知らんぷりしながら同じテーマの「ふりだしに戻る」というのはまずありえない。
この歌を最後に「午前に嘔吐」の歌が終わるのは〈偶然〉であったが、
その〈偶然〉というのも結局のところは
「これ以上歌が思い浮かばない」「この流れではもう詠むことがない」
という行き詰まりであった。
それは〈必然〉と裏返しの〈偶然〉と言えはしないだろうか。
さて昨日の話は以上である。
今日について書こうかと思ったが、今日について書くにはもうくたびれた。
「五千字」も書いたそうである。くたびれるのも当然だ。
今日の午前はほとんど丸つぶれだった。
夜に上手く眠れなかったから眠気が酷かった。
もちろん「眠れないのに眠い」のである。
十二時の飯時になるまで徹底的に暗くした部屋で転がっていた。
そうして私はこんな苦しい日々がいつまで続くのだろうと考えてみた。
厳密に数えてはいないが、
断薬してからもうすぐ一週間になろうとしているはずだ。
すると私の苦しさは「血中に残存する薬物の作用」ではない。
真っ当に考えて薬は完全に抜けているはずだ。
断薬後の
しかし薬物の
薬で私の脳が変質しており今後一年や二年、あるいはそれ以上の期間に渡って
私は苦しまなければならないのではないか。
すると「ボンヤリとした脳」を無理に働かせて文章を書く行為も「リハビリ」じみて見えてくる。
起きているだけでもリハビリだ。
今日は固形物を食えるだろうか。
昼はだいぶ無理をして少しパンを食べたあと、甘酒を大量に飲んだ。
夕食もなにか多少は固形物を食べたい。
現代日本はゼリーや飲料の豊富さで、
「固形物が食べられない人」でも工夫次第では餓死せず生きられるようにできている。
点滴などの治療を受けるために通院しなくていいのは楽だ。
しかし今後なにかしら酷い症状が出て病院の手を煩わせる可能性は大いにある。
禁断症状で悩まされているのか、薬物大量服用の後遺症で悩まされているのかわからない。
とにかく「薬を我慢し、出来る限り起き上がり、可能なだけ固形物を食べる」ことで日に日に良くなるという曖昧な期待を捨てないようにする。
この苦しみと長く付き合う決心をするにはまだ早すぎる。
また、その決心は私には重すぎるようだ。
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