第5話 掛け軸の謂れ

「えっ!? でも、ちゃんとお店で」

「明日行ってみ。無いから」

「……」


 あまりの事に、箸がぽろりと転がり落ちた。


 じゃあ、あのやたら妖艶な店主も妖か何かなのか?

 あ、そう言われると妙に納得できるかも。


 その時、目の前の空間がぐにゃりと歪んだ。風景が色となり線となり。

 再び形を取った時、一人の男が微笑んでいた。


 着流し長髪の優男。


「お呼びに預かったようなので」

「呼んでねぇよ!」


「……」


 凄みを効かせた栄さんには目もくれず、イケメンは俺に微笑みかけてきた。


「楽しんでいただけましたか?」


 楽しんでって!?

 日本語ちゃんと喋ろうよ?


 普通なら驚き恐れるところだろう。でも、何故か俺は無性に腹が立っていた。


「死にかけた」

「でも、死ななかったでしょう」


 こいつ、確信犯か!


「どういう事か、納得いくように話して欲しい」

「……わかりました。あの円相の掛け軸の謂れをお話しましょう」


 店主は予想通りとでも言うように目を細めると、膝を正して話し始めた。


「昨夜貴方が体験したことは、全てあの掛け軸が見聞きしたことです」


 えっ!

 つまり、殺人現場を目撃したと言う事か。


「と言っても、遠く江戸時代の話です。この掛け軸は、没落したお武家様の蔵から流れてきた物で、何度も人手に渡りましたが手放され、私の所へ流れ着いたと言うわけです」


「首を絞められる悪夢を見せるからか? いや、でも、俺は本当に首を絞められたぞ」


 俺はシャツのボタンを外して、ぐいっと妖男あやかしおとこに詰め寄った。


「見てみろ。跡が残っている」

「それこそが、この掛け軸を貴方に託した理由です」

「はぁ?」

「てめえ、俺の親友の孫を危ない目に合わせやがって、ただじゃおかないぞ」


 俺のささやかな抗議も、栄さんの啖呵も完全に無視された。

 店主は何食わぬ顔で先を続ける。


「円相とは、悟りや真理の理想的な様を表していると思われています。しかしながら悟りの境地等というものは、誰にでも辿り着けるものではありません。つまり、これを書いた僧侶は、煩悩にまみれていたということです」

「……だから、殺人を目撃した時、悪い気を引き寄せてしまったと言いたいのか?」


「御名答!」


 俺の答えに満足そうに微笑むと、その目がきゅうっと弧を描いた。

 完璧な調和を誇る美顔の歪みは、何故だか嫌な予感を生む。


「どんな煩悩にまみれていたのか。聞きたくありませんか?」

「別に」

「いいでしょう。特別に教えて差し上げます」

「いや、だから」

「愛欲です」

「……」

石女うまずめと罵られて、子宝祈願に訪れた武家の妻の相談を受けているうちに、互いに惹かれ合い肌を合わせてしまったんですよ」


 その言葉に、思わずゴクリと息を飲む。


 「二人の想いは純粋でしたがね、江戸時代は戒律が厳しかった。『女犯にょぼん』と言ってその罪はとても重く、その上姦通はさらしの後、死罪や獄門」


「心中でもしちまったのか?」


 元来、知りたがり屋の栄さんが口を挟んできた。


「いいえ。彼らは互いを思ってきっぱりと別れました。今上の別れと、かの僧が女に手渡したのがこの掛け軸。心穏やかに生きていこうという、願いが込められていました」


 ああ、だから……


 初めて見た時に感じた切実な覚悟。

 そこには、必死で想いを断ち切ろうとする僧侶の葛藤が滲み出ていたんだな。

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