第23話 人間らしさ


 沈黙を破ったのは、砂長谷ではなかった。

声の主は、さっきまで首筋に当てられたナイフに恐怖していたはずの縞野だ。

 その目からは、もう桐崎への恐怖心など消え去っており、強い信念のようなものが宿っていた。


「正義感や道徳心で悩むって、砂長谷くんらしいと思うけど?」

「ねぇ、喋っちゃダメって言わなかったっけ?縞野さんは約束一つ守れない人なの?」

「それは桐崎さんが勝手に決めつけたことだから、約束とかは特にしてないかな」


 屁理屈を言い、火に油を注ぐ縞野。とても、ナイフの刃を首筋に当てられている人間の精神ではなかった。相手を逆上させれば、自分が殺されてしまうかもしれないというのに。叫んだり喚いたりするならまだしも、煽るのはあまりにも危険すぎる。

 だが、特に桐崎は腹を立てるわけでもなく、終始冷静だった。


「砂長谷くんは、他人に関心のない人間なんかじゃない。それどころか、誰よりも他人のことを考えてあげられる……そんな人だよ」

「だけど縞野、俺は現に……自分のことばっかり」

「自信を持ってよ、砂長谷くん。私と相馬くんがもめた時、君はお互いの意見を尊重してくれた。それはたしかに、事なかれ主義故だったのかもしれない。けど、私はそうは思わない。誰かの意見を否定したりせず、ちゃんと耳を傾けてくれた。それは他者への優しさだよ、自分のことだけ考えてたなんて、そんなこと絶対にない」


 それは単純に捉え方次第だったが、縞野は事なかれ主義の自己中心的な人間だと、勝手に決めつけることはなかった。むしろその逆、荒事を好まないということは、他者との関係を守ることであり、人と人とを繋ぐ優しさなのだと。


「へぇ、そういう風に考えちゃうんだ。本当に縞野さんって、私の嫌いなタイプだね」


 桐崎の表情が、邪悪なものへと変化した。

 かすれ声を漏らしながら、砂長谷はおずおずと桐崎の様子を伺う。


「つまり、縞野さんが言いたいのはこういうことだよね。結局、人は自分を守るために他者を思いやる。こんなのただの偽善じゃないか。法も正義も道徳も、とどのつまりは自分が殺されたくないからだ。もしも人を殺すことが認められてしまえば、誰かから殺される覚悟が必要になる。全てが己のために存在する歪んだものだ! その答えから、人間は逃げ続けている。悪魔であることを決して認めない!」


 感情を剥き出しにし、桐崎は声を張り上げた。

 彼女らしくなかった。何故か縞野の前では妙に饒舌で、コンプレックスに似た感情が伝わってくる。


「違うよ、桐崎さん。偽善なんかじゃない。これは心の余裕なんだよ」

「は、はぁ?」


 桐崎の口から、呆けた声が漏れる。

 ナイフを首筋に当てられながらも、縞野は柔らかい表情で桐崎へと視線を向けた。刃先と肉の間に僅かなスペースがあるが、今にも刺さってしまいそうなほどに近い。


「人はね、誰しも幸運とは言えない。けど、全てが不幸とも限らないんだ。誰かを思いやれるっていうのは、心に余裕のある、幸運な人間なんだよ」

「急に語り出して……いったいどうしたの?」

「桐崎さんが持論を語り始めたから、私もそれに付き合ってあげてるの。だって、桐崎さんは答えが知りたいんでしょ?」


 縞野は柔らかい表情で、幼い子供をあやすような口調で言った。


「幸運な人間だったら何? そんなことで人が善良になれると本当に思ってるの? お人好しの変な理想論じゃ、結局は全部偽善だよ」

「人は、そんな利己的に決められる生き物じゃないよ。桐崎さんだって、本当はわかってる」

「何がわかってるって言うの? 知ったように言わない! 私こそが正常な人間なんだよ、人の本質を悟り、ちゃんと個体数を調整してあげられてる。これが人間だっ!」


 縞野は小さく、首を横に振った。


「それはね、桐崎さんに心の余裕がないからだよ。人よりも不幸だと感じて、他人に嫉妬してるんだ。理想を求めているのは、本当は桐崎さんなんじゃない? 私には、単に言い訳しているようにしか聞こえないよ」

「嫉妬? 言い訳? この私が、そんなことで駄々をこねてるとでも言いたいの? いい加減なことばっかり言わないでよ! 私は誰よりも人間らしい! ただそれだけなの!」


 桐崎の焦燥の篭った声が、室内に響き渡った。苛立ちと怒りからか、顔が僅かに紅潮している。


「私が人間っていう生き物の手本なんだよ、見本なんだよ! 人は誰だって人を殺す。それは人間が地球に誕生した頃からずっと同じ! ダメなんだよ! 止められないんだよ! 人間は殺戮の生き物だ、自分以外を平気で切り捨てて生きる! 人間は、動物は何でも殺す。自分達が生きるためなら、他の生き物はどうでもいいんだよ! だからこの私を否定することなんて、あなたたちにはできない! だって人間なんだもん! 人間には最初から備わってないんだよ、人を守る力なんて! 結局は全部自分のためだ! 無駄なんだよ害虫駆除なんて! 私こそが人間なんだっ!」


 桐崎は縞野の手を離し、その場に突き飛ばした。

 瞬間。彼女の必死に叫ぶ絶叫が轟く。その言葉には、まるで中身がなかった。桐崎は己ではなく、人間に固執しているように見えた。正しい人間という固定概念が、彼女を強く支配していた。


「私は本能に従ってるだけなんだよ? 素直に正直に生きてるだけなのに! ねぇ、どうしてそれがいけないの? 殺人はダメって誰が決めたの? 人間はどうして人間だけ殺しちゃダメで、他の生き物は虫けらみたいに平気で殺すの? ねえっ! ねえっ! ねえっ!」


 壊れてしまった玩具のように、桐崎は誰に訊ねるわけでもなく叫び続けた。

 その光景は、なんとも見るに耐えないものだった。


「押し付けないでよ。何で誰かが勝手に決めたルールに、生まれた時から従わなきゃならないの? そんなのおかしいよ。だって、私はロボットなんかじゃない。ちゃんと考える脳を持ってるんだもの!」


 そんな彼女の姿を、縞野は悲しそうな目で見つめた。


「落ち着いて。桐崎さんは、ただ不幸なだけだよ。人を思いやれるっていうのは、それだけ自分が幸せってことなんだ。自分はもう十分だから、今度は自分以外の人にって考えられることなんだよ。他者を思いやる、気をかけてあげれる、それが人の幸せなんだよ」

「嘘だっ! 嘘だっ! 嘘だっ! そんなの、そんなの人間のあるべき姿じゃない! 人は地球上で最も賢く、力の強い生物だ! 天敵がいないから、人は人を殺すことで地球を調整しているんだ! 人が増えたら、地球は人の肉で溢れてしまう! だから私みたいな人間が必要なんだ! なのに、なのにどうして、私をみんなして否定するの? 誰よりもただ、正直に生きてるだけなの私を!」


 桐崎は頭を抱え、体を激しく揺らしながら声を荒げた。もはや、会話にすらなっていない。ただ言いたいことを吐き出すだけの、喚いて動く肉の塊だ。

 そんな彼女に、縞野は優しく語りかけ、ゆっくりと歩み寄った。


「本当に自分の利己心だけなら、こんな所来ないよ。それこそ山とか樹海に篭って、自分一人で生きていける。地球は広いから、それが可能な場所だってある。けど、桐崎さんはそうはしなかった。それってさ、まだ、人との繋がりを断ちたくないからなんじゃないの?」

「わ、私が? この私が、誰かと一緒に、生きていたかった?」


 それは桐崎自身、理解に苦しむほどの感情だった。


「ありえないっ! そんなの私じゃない! 人間なんなじゃない!」

「私、あなたの気持ちがよくわかる」

「嘘ばっかり言わないでよ、そんなの絶対にない! あなたと私は根本的に違う! そうやって優しい言葉をかければ、私が落ちると思っているのか? ふざけるなっ!」


 激昂し、桐崎はナイフの先端を縞野へと向けた。しかしその手は、まるで何かに怯えているかのように、ぶるぶると震えていた。


「ふざけてなんかないよ、ほら見て」


 縞野は背中を向け、服を少しだけまくって肌を見せた。右のあたりに、手術痕と思われる小さな傷がある。


「私ね、幼い頃は腎障害を患ってて、まともに学校すら行けなかったの。母は産まれてすぐに亡くなって、父親がずっと私の面倒を見てくれていた。けど、病院側の手術ミスが原因で、父親の臓器を移植することができなかった。血の繋がった肉親でなければ、臓器を移植することはほぼ不可能と言われているの」


 臓器移植の場合、適合するドナーは一万人に一人と言われている。臓器提供者の中から、その限られた人間を探し出すことは絶望的と言ってもいい。


「私は運良く、腎臓の臓器移植を受けられたおかげで、今も生きていられている。けど、適合するドナーが見つかるまでの間は、本当に地獄のような日々だった。幼い私にも、もはや未来がないかもしれないという事実には、薄々感じていたから」


 砂長谷と桐崎は、目を剥いて聞き入っていた。予想を遥かに超える縞野の隠された過去、その重さ、過酷さを。


「でもそんな私に、父はとても優しく接してくれた。私のお願いは何でも聞いてくれて、これ以上ないってくらいにたくさんの愛を貰った。だから今は、誰かの力になってあげたい。私は一度死んだ身、運良く助かったこの命を、今度は私以外の人のために使いたいの」


 縞野は邪気のない笑みを浮かべ、ナイフを持つ桐崎の手を優しく包み込んだ。


「自分以外の……誰かのため……」


 弱々しい声で、桐崎が呟く。


「うん。だから一緒にここを出よう。もう、桐崎さんは一人じゃない。これからは、私が一緒だよ」


 桐崎はまぶたに涙を滲ませる。


「ず、ずるいよ、そんなの。私は今更、戻ることなんてできない。三岳先生だけじゃない、ここまでの間に何人もの人を殺して来た。許されるはずないよ」


 流れた涙の雫が、足元へと吸い込まれていった。


「たしかに殺人を正当化することはできない。けど前にも言ったよね、私は人を殺した人を悪人だとは思わないって。桐崎さんが自分の価値観で人を殺したのなら、私はその逆だよ。私は桐崎を責めたりしない、人殺しだとも思わない。置いて行く理由なんて、どこにもないんだよ」


 桐崎は縞野の胸元に額を当ててうなだれ、押し殺した泣き声を漏らした。

 滂沱の涙をこぼしながら震える桐崎を、縞野は優しく抱きしめた。

 これほどの転覆事故や事件を経験したというのに、むしろ桐崎は、前よりよっぽど年相応の女の子のようだった。


「それじゃあ帰ろう……みんなで一緒に」


 三人はサイドスラスターを抜け、海面に浮かぶ救命ボートへと乗り込んだ。そしてすぐに、船の沈没渦を避けるために船から離れた。

やがて船は巨大な轟音とともに、海の底へと沈んでいった。

 砂長谷たちは救命ボートの中から、沈んでいく絶海の監獄をただただ眺め続けていた。

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