第22話 哲学者の過ち


「古来より、人の時代が動くのは人が人を殺した時だ。革命、戦争、暗殺、人間は私たちが生まれる前から、互いを殺し合うようにできている。そうでしょ? ほら、肯定してよ」


 砂長谷は言葉を詰まらせる。それは簡単に否定できるものではなかった。ある意味、人間社会の真理を突いている。


 法や道徳で人を殺すことを悪だとしている今の社会ですら、決して無くならない。

 日本が今のような平和を築けたのも、戦争で多くの者を殺し、殺されたからだ。日本が戦争をしていた時、果たして問う者はいただろうか、人を殺すのは悪だと。いや、いるはずがない。あくまで今の砂長谷たちが殺人を悪だとしているのは、法や道徳によって洗脳されているからだ。言い換えれば、価値観は時代によって変化している。そして、それを禁じている今でも消えないということは、人を殺すことこそが人間の本質とも捉えられる。


 思い返せば、この船が難破したのも人の悪意によるものだ。大金を手に入れるため、多くの人を殺す。そんな中、人を普段の言動や見かけで正義だと判断できるだろうか、信頼できると自信を持って言えるだろうか。砂長谷の中では、答えに何一つたどり着けなかった。もはや思考がパンクし始め、悲鳴を上げている。


「何も答えないのなら、私の言い分に反論の余地はないってことでいいかな」

「まっ、待てっ! そんな急に、答えなんて導き出せるはずがないだろう。それに少なくとも、人を平気で殺すような人間を、俺は正常だとは思わない! いや、思えないんだよ!」

「ちょっとさぁ、期待を裏切るようなことしないでよ。私は数ある人間の中から、わざわざ砂長谷くんを選んだんだよ?君なら、私のことを理解してくれるだろうと思って」

「お前のことを理解できるだと? ふざけんじゃねぇ! んなこと無理に決まってるだろ!」

「そうかな? 君は私の同類だよ。社会に溶け込むことのできない、根っからの異端者、受け入れられない異分子、そうでしょ?」


 桐崎は目を輝かせていた。その瞳からは、砂長谷への共鳴、同調が感じられる。


「人間の作った社会じゃはぐれ者でも、この世界じゃ君は正常だよ。結局、自分のことしか考えられない。この船を脱出しようとしてた時だってそうだったじゃん。意見が割れたら双方を納得させようとしたり、君は何でも事なかれ主義を貫いていた。それって、とどのつまりは自分本位ってことじゃないの?」


 油紙に火がついたように、滔々と言葉を並べる桐崎。


「他人に関心がなくて、いつもいつも自分のことばっかり、争いごとが嫌いで、後で面倒にならないようにとりあえずその場は収める。生の根っこは、私と同じだ。自分以外の人なんて、どうでもいいと思ってる」


 己の真意を突かれ、砂長谷はぶるぶると唇を震わせながらも開いた。しかし、その隙間から声が漏れることはなかった。言いたいことはあっても、頭の中で処理できない。ただ、かすれた息が溢れただけだった。


「ふふ、私の判断は間違ってなかったね、君を選んで本当に良かった。砂長谷くん、それに縞野さん、これほど完璧なキャスティングはないよ」

「あ、あれは……ただ、それが合理的だと思ったからで」


 必死に声を絞り出す。しどろもどろに砂長谷が言うと、桐崎はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。


「ほら、やっぱり私と同じだよ。法や道徳、感情なんてもので君は動かない。あるのは機械的な合理性だけ、同類だ。砂長谷くんも本当は心の底で思ってたんでしょ、人間社会はどこかおかしいって。教育も政治も、単なる洗脳なんだってことにさぁ」


 熱にうかされたように、桐崎は際限なく喋る。


「ほら、早く答えてよ、私こそが人間の本質だと! 人を殺すことは悪ではなく、単に身を守るためのルールでしかないと! さぁ!」


 普段は冷静で落ち着いている桐崎が、興奮して異常なほど饒舌になる。

 目を血走らせ、初めて素の自分をさらけ出していた。


「そんなこと聞いて何になるんだよ! 今は一刻を争うんだぞっ! 今すぐこの船を降りないと、もう手遅れになるかもしれないんだっ!」


 その言葉を待っていたかのように、桐崎は顎を引いた。


「今、この瞬間だから意味があるんだよ。砂長谷くんには、選択肢が存在している」

「せ、選択肢?」


 砂長谷は目を丸くし、震えの残る声で訊いた。


「一つ、私と縞野さんを見捨てて一人でこの船を脱出する。二つ、私が正しいと答える。そして三つ、私を殺す」


 桐崎はナイフを持つ手で、指を一本ずつ立てていった。まず親指、次に人差し指、そして中指と。


「なんだよ、なんなんだよそのふざけた選択肢は……」

「ちなみに二つ目を選んだ場合、縞野さんは解放してあげるよ。ただ、その後どうするかは保証できないけどね。人を殺すことが正当だと君が認めた以上、止める権利も力も法も、存在しないことになるんだから」

「じゃあどっちみち、てめぇは縞野を殺すつもりなのかよ」

「当然、縞野さんは私にとって最も消したい人間だもの。助けたければ、私を殺すしかないんだよ。でもその場合も、君は人を殺すことが正当だと認めることになるんだけどね」


 それは実質、全ての結果が同じとも捉えられる一言だった。砂長谷が縞野を見捨ててこの船を脱出したとしても、結局のところは縞野を殺すことと同義である。己の身を守るために、他者の権利を壊すということだからだ。


 桐崎を肯定したとしても、その瞬間に枷は外れてしまう。自分たちを殺してもいいと、本人に直接許可を下すのと変わらない。


 そして言わずもがな、桐崎に手をかけることは同じ土俵に立つということだ。それは桐崎の望む人間の本質を、砂長谷の手で証明することになる。


 どれを選んでも、砂長谷にとって正しい道など存在しなかった。


 選択肢もこの状況でなければ、決して生まれることはなかった。桐崎が今この瞬間を選んだのは、逃げ道を作らせないためだったのだ。


「砂長谷くん、優柔不断な男はモテないよ、ここぞという時の決断力がないと」


 桐崎は茶化しながら、砂長谷の心を煽る。


「この船の中で見てきたでしょ? 人は共食いするようにできてるんだよ。地球上で最強の生物になれても、天敵は必ず存在した。それが同種だったってだけのこと。種として生きるのであれば、今の社会は理にかなっているかもしれない。けど、個人として生きるには適していないんだよ」


 頭の中に溜め込んだ文章を、桐崎は暗誦するかのように語り始めた。


「だから私が、もっと生きやすい世界に変えてあげたんだ。三岳先生が殺されたことで、みんな疑心暗鬼になったでしょ? あの顔に傷のあるテロリストや夢路くん、二人は私の仕掛けに見事にはまっていた。殺される前に殺すことでしか、己を守る手段がないと私が証明してみせたんだよ。砂長谷くんも会ったんでしょ? 下で夢路くんとさぁ……」

「あの二人がおかしくなっちまったのも、全部お前のせいだったのかよ」

「うーん、でもそれは元々の人間性が悪かったんじゃないかな。だから簡単に非情な手段を選べたんだよ。私がやらずとも、あれは時間の問題だったかもね」


 だが、その意思を加速させたことに関しては間違いなかった。

 桐崎は緊急避難という法の力を利用し、己の好む空間へとこの船内を変化させたのだ。


 砂長谷たちは知らずとも、夢路が危険因子として東を拘束したことで、彼も本来とは違う人格へと変貌してしまっていた。

 夢路も心のどこかで、殺人者の存在を危惧していたのだ。故に、相馬を不意打ちで殺害することにも繋がってしまった。


 全ての結果がそうだとは言い切れなかったが、大半の元凶は桐崎の悪意によるものだったのだ。

 最後の最後まで、誰もそのことには気づくことはなかった。いや、そもそも考えることすら放棄されていた。己の身を守ることに精一杯で、誰も原因など追求することはなかった。


 その全てが桐崎の思惑だったのかは定かではないが、人の猜疑心や防衛本能を刺激し、極度に煽ったのは事実だ。

 そして結果的に、多くの人間が互いに殺し合うことなってしまった。

 そんな巨悪が、緊急避難という本来は人を守るために存在しているはずの法によって、その身を保護されている。


 裁きを与えるなら、桐崎と同じ方法でしか叶わない。

 目には目を、殺人には殺人を。

 瞬間。私刑という言葉が、砂長谷の脳をよぎった。


「ねぇ、もう待ってるの飽きてきちゃったよ。もしかして、まだくだらない正義感や道徳心で悩んでるの? はぁ、君らしくもないなぁ」


 砂長谷らしいとは、いったいどういう意味なのだろうか。

 よく考えたら、己のことなどあまりよくわかっていなかった。

 段々と、桐崎の言葉が砂長谷の脳を侵食し始める。本当に自分は、他人のことなど特に考えていない、彼女の同類なんじゃないだろうか。結局、同じ土俵に立つ以外ないのではないか。思考が硬直していく。


「……本当にそうかな?」


 その時、数秒だけ切り抜かれたような静かな空間に、一瞬だけ言葉が響いた。

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