第1話 絶海にて


 その日は、雲ひとつない快晴の空だった。まるで海と空が互いを映し出しているような、神秘的な印象を受ける。もう、どちらが海なのか空なのかわからない。

 海の真ん中、陸地が目視で判断できない完全に別離した空間。

 日本の高校に通う生徒たちは、行事の一環である修学旅行を通して、豪華客船での船旅を満喫していた。


 常夏の海、ギラギラと太陽が照りつけていた。

 合同授業も終わり、今はただの自由時間。プール、一流レストラン、バー、ダーツ、ビリヤード、ボウリング、高級スパ、客船の中には若者が好む施設が数多く存在している。それら全てが学費によって無料で利用できるのだから、当然ハメも外れる。


 もし個人で旅行しようと思ったなら、その費用は莫大なものになるだろう。ここは映画や漫画の世界同様、非現実的だ。何十万円という大金を用意する必要がある。

 嫌なことなど記憶から消えてしまいそうなほどに、幸せの詰まった夢のような時間、今が永遠に続いて欲しいと、学生たちは青春を謳歌していた。


 そんな中、この修学旅行でいくつかのカップルが誕生したと、生徒の間では既に噂が広まっていた。

 その噂は、交友関係の薄い物静かな少年の耳にも届いた。

 少年は客室で一人、窓辺に座って景色を堪能していたが、それは突然の来客によって知らされる。


「二組の原さんと五組の吉田山くん、どうやら昨日から付き合っているらしいぞ。ったく、みんな修学旅行だからって浮かれ過ぎだ」


 横から聞こえてくる雑音に、静かで孤独な時間を邪魔され、少年は若干苛立ちを覚えていた。

 少年の名は、砂長谷陣すなはせじん。部活動や委員会には所属していない、落ち着いた雰囲気の高校二年生。マイナー映画と売れない小説を好む。絵に描いたようなインドア少年だ。

 

 その隣で砂長谷の時間に害を与えているのは、クラスメイトの相馬春也そうまはるや。クラスでは学級委員を務め、生徒会にも所属している、真面目と誠実が服を着て歩いているような堅物な男である。


 恋愛に関しても興味はなく、勉学や部活動以外に熱中することを毛嫌いしている。決して、拗らせているわけではない。本人が強く主張し、否定している。その真偽は不明だが、割とクラスではむっつりなだけなのではと噂されていたりする。

 しかし性格が固すぎるだけであり、別にモテないわけではない。むしろ高身長で、メガネがよく似合う。学年でもイケメンに数えられる生徒だ。


「その話、無視するのはダメなのか?」

「いや、お前に対して特に話題がなかったのでな、さっき聞いた話を適当にしただけだ。だから別に、答えなくてもいい」

「あっ、そう。なら無視させてもらうよ」

「お前、もしかしてダイニングでの授業の後から、ずっと部屋で過ごしてたのか?」

「話題を急に変えるな、ビビるだろ。てか疲れてるんだよ。昨日はずっと歩きっぱなしだったろ?」

「まさかお前、あの程度でへばったのか?情けないなぁ」

「うるせぇなぁ、用がねぇなら帰れよ」

「せっかく誘いに来てやったのに、酷い扱いだな」

「誰が好き好んで、わざわざ野郎と二人で遊びに行かなきゃならねぇんだよ」

「安心しろ、それは僕もごめんだからな。実はちょうど、シアターの使用権がうちのクラスに回って来たところなんだ。それで、今から行こうという話になっている」

「なるほど。んで、クラス委員のお前が俺のところに派遣されて来たわけか」

「そういうことだ。お前、たしか映画好きだったろ? スクリーンもいくつかあるらしいし、好きなジャンルの話が観れると思うぞ」


 映画と聞いて、少し関心を示す砂長谷。彼が好むのはマイナー映画だが、メジャーどころが嫌いというわけではなかった。正直、船の上での映画鑑賞というものに興味がある。


「悩んでるのか? 言っとくが、一人一本までと決まっているし、時間が過ぎればもう観れる機会はないぞ」


 その瞬間、砂長谷の頭の中から選択肢というもの自体が消えた。

 豪華客船の中で映画鑑賞など、人生で早々得られる機会はない。後から選択肢を潰してくる相馬のやり方は、中々に汚い。


「お前、セールスマンとか向いてるよ。まあどうせ暇してたし、観にいくのもありだな」

「ったく、素直に行きたいとは言えないのか、お前は」


 砂長谷はやや不服そうに、相馬の後をついて行った。

 シアターは地上六階にあり、舞台と映画の二種類に分けられている。

 生徒の客室がある二階からは、少し行くのが面倒だ。

 船内には一般の乗客も乗っていたが、ほとんどが同じ高校の学生で、妙な違和感があった。

六階に着くと、既にシアター前には大勢の生徒が待機している。全員、砂長谷たちと同じクラスの生徒だ。


「あっ、砂長谷くん、相馬くん」


二人の姿を見て真っ先に反応したのは、クラスで最もコミュニケーション能力が高いと思われる女子生徒、縞野早衣しまのさえだった。


「あと何分だ?」


 相馬が軽く手を上げて返し、時間を訊ねた。


「うーん、もう五分もないかな。早めに映画が終わった前のクラスの子は、もう客室やダイニングに戻ってるし」


 縞野は、誰に対しても明るく接する。砂長谷ともあまり話したことはなかったが、お互いに名前と顔だけは知っていた。普通はそれが当然なのだが、砂長谷はクラスメイトの交流が異常に少ないため、他の生徒の名前と顔が少し曖昧だった。

 それこそ覚えているのは、クラスで特に目立つ相馬や縞野くらいだろう。


「そういえば、夢路ゆめじたちの姿が見えないな」

「あ、夢路くんたちなら、映画なんて興味ないって断ってたよ。多分、どこかで体でも動かしてるんじゃないかな」


 夢路、砂長谷たちと同じクラスの男子生徒だ。筋骨隆々で、非常に喧嘩が強い。いわゆる不良生徒である。粗暴さが目立つため、あまりクラスメイトからの印象は良くない。砂長谷とはまた違った意味で浮いている生徒だ。

 朝食以降、姿を見ていない。合同授業や実習にも顔を出していなかった。


「まあ、あいつらはいても邪魔なだけか」

「もう、ダメだよそういう言い方しちゃ。クラスメイトなんだから、仲良くしないと」


 平和主義と言えば聞こえはいいが、言いようによっては思考がお花畑なだけである。

 人には相性というものが存在し、特に相馬と夢路は最悪と言えるだろう。水と油の関係そのものだ。むしろ、片方が席を外してくれていて大いに助かる。目が合えばすぐに言い争いに発展してしまう。


「さて、もう時間になるし、何を見るかだけでも決めておこうか。砂長谷、どうせお前は映画だろ?」


 言わずもがな、砂長谷は舞台よりも映画派である。さすがに好みのマイナー映画はなくとも、未開拓の映画を掘り当てるというのは心が高まる。この贅の限りを尽くした船旅で、砂長谷のテンションが最も上がっている瞬間だった。

 公開しているラインナップに目を通すと、どれも見知った作品ばかりが並んでいた。

 いくらこの船が豪華と言えど、スクリーンの数は限られている。当然、公開している映画は特にメジャーどころで構成されていた。

 だが、一つだけ知らない映画もあった。一昔前のものだ。世代ではないため、砂長谷も見たことがない。


「俺はこれにするかな」

「知らないタイトルだな、もしかしてマイナー映画か?」

「いや、これ結構有名だぞ。まあ、古いから名前とか知らなくても無理ないだろうけど」


 映画のタイトルは『不可視の怪物』という、視力を失った主人公が謎の生命体に襲われるパニックホラーだ。主人公視点で物語が進むため、視聴している側からも相手が何者なのかがわからない。サスペンスやミステリーにも含まれるジャンルらしく、多少の推理要素もあるようだ。


 何故この作品がラインナップにあるのかはなぞだが、こういった機会がなければ見ることはない映画だろう。そういう意味でも、砂長谷は非常に興味を惹かれていた。

 相馬と縞野は、有名なアクション映画を選択した。タイトルを聞けば誰もが知っており、何度もテレビ放送されている映画だ。相馬は単に当たり障りのないものを選んだだけだが、縞野は意外なことにまだ見たことがなかったらしい。


「それじゃ、僕たちはこっちだから」


 劇場の前で二人と別れ、砂長谷は自分の見る映画のスクリーンへと向かった。

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