カルネアデスの愚問

江戸川努芽

プロローグ


 ある哲学者が、こんな問いをした。


 自身の乗っていた船が難破し、海に投げ落とされながらも、自分は命からがら壊れた船の板にしがみついた。するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。

 二人の人間が同時に板につかまれば、重さに耐えきれず、二人とも海の中に沈んでしまうかもしれない。

 相手を見ず知らずの人物と仮定した場合、問いかけられた人物は、その時どんな選択をするだろうか。


 二人で板につかまり、共に海の底へと沈むか。


 相手にその板を譲り渡すか。


 それとも相手を突き飛ばし、その板を独占するか。


 しかし、これはある種の愚問である。


 人は仮にも生き物だ、生きる権利があり、本能によって生きるという道を選んでいる。

ならば関係ない他人を助けてまで、死を選ぶ道など存在するだろうか。

 法律でも、自身を守るために他人を見殺しにした場合、罪に問われることはない。

 つまり、殺人が肯定されるということだ。

 なのに何故、選択しなければならないのか。最初から答えなど、一つしかない。


 己が生き残るために他者を犠牲にする。ただ、それだけだ。

 もし仮に善悪が存在するのだとしたら、それこそ偽善だ。単なる自棄を孕んだ異常者である。

 だが、自殺とは言ってしまえば人間の本質とも言える。人間独自で歴史を築いてきた行為だ。

 ここで、新たな問いが発生する。

 普段から死にたい、生きるのが辛いと考えている人間であれば、舟板を相手に譲り渡すのだろうか。


 ここでの答えは、ノーだ。


 自殺とはあくまで、社会が存在するから生まれる愚行だと仮定する。

 故に、極限状態であれば人は自殺など選んだりはしない。

 それが肉食生物に襲われ、もう逃げ切れないと判断しての自殺でない場合、人は決して自殺など選択しない。


 もうすぐ、己が死ぬとわかっていてもだ。それが他者による殺戮でない限り、人は自ら命を落すことはない。

 過去に、死刑囚が前日に死刑を言い渡され、その日の晩のうちに自殺を選んだことがある。これはあくまで、人の手によって殺されることを恐れたためだ。


 それは自然界でも言えることだろう。映画などで怪物や異星人に殺されそうになった時も、人は近い選択をする。

 人は人である前に生物であり、その本能に抗うことなどはできない。

 今までもそうだ、人が人を殺すことによって革命が起き、時代も動く。


 人が未来を手にする時、それは人を殺した時である。

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