第12話 付き纏う闇 2
貴子は桜谷家の財産を手に入れた事で精神的な落ち着きを得る。今更男として表立って生きていけない以上、女として生きていく道を選択した。
幸い貴子は、女性として見ても美しかった。そしてそれが、衆目を集める。この事は、貴子にとって快いものだった。
当時の貴子は、その美しさを誇示する様に街中を歩いた。闇市にも出かけた。人々は貴子の美しさに振り向く。男性は勿論、女性もである。
戦後間もなくは、生きるに必死で美しさを求めたり着飾ったりする人は非常に希だった。
そんな或る日、闇市の露店が立ち並ぶ人混みの中に、物欲しげに、じーっと店の中を覗き込んでいる子供を見つけた。
暫く様子を見ていた貴子だが、身じろぎもせずに食べ物を見つめる姿に、哀れみを抱く。
戦中、未だ手術の傷後も癒えないうちに病院を抜け出て、果てしない満州の地を、食べ物を求めて這いつくばるように彷徨った自分の姿と重なる。
幼い子供は、その姿恰好、着ている物から孤児だと容易に推測出来た。貴子は子供の視線の先にあった食べ物を買って、その子に差し出す。
子供はむしゃぶり付くようにそれを取り、食べる。
近づいて、始めてその子が女の子であると分かった。余りに薄汚れていたので男女の判断が出来なかった。
不思議にも、桜谷貴代が貴子を家の中に招き入れた様に、貴子も又、幼い女の子を誘い入れたのである。
貴子は男としての姓を自ら捨てたのでは無い。脳の底には男が未だ残って居た。
良子と名乗る孤児の女の子に、貴子の気持ちを掻き立てる物を感じたのは確かである。
貴子は良子を風呂に入れ、そして、赤だらけに汚れた体を洗ってあげる。
その時貴子は『おや?』と思う。期待した程のときめきは感じなかったのだ。それからも数回、風呂に入れてはまさぐるように体を洗ってあげ、触れたが、回を追う毎に性的な興味が減っている。
それに背反するように、良子に対し愛らしさや慈しみの心が貴子に芽生えて来る。それは考えてもいなかった事。
性的興味は大脳だけ残っていただけで、肉体的には既に消滅していたのであろうか。
貴子と良子は、お互いの心が通い合うようになり、楽しい雰囲気が出来上がって行った。良子は桜谷家の実の子供のように、満足な生活環境と愛情を得て、幸せな時間を歩んだ。
だがそんな親子同様な生活でも、この家で『してはならない決め事』が一つだけ存在していた。
それは、貴子の着替えや入浴を『絶対に覗かない事』だった。
所が、禁止されると却って覗き見たくなるのが人間の性(さが)。
良子がこの家で暮らし始めて、かれこれ一年ぐらい経ったある日、彼女はとうとう掟を破り、貴子の入浴を覗き見してしまったのである。
貴子は、良子に自分の裸を見られた事に直ぐ気付く。良子の、貴子を見る目に怯えた様子が現われたからだ。
それだけではなかった。良子は貴子から避けるようになったのである。
仕方なく、貴子は良子にも分かるように、作り話も交え説明した。しかし良子がそれを理解し、受け入れるには未だ幼すぎた。貴子の不気味な下半身に、幼い良子は完全に恐れおののいてしまった。
幾ら説明しても変わる事なく怯え逃げるような態度を取る良子に、遂に貴子は怒りを露わにした。
貴子の鬼のような形相に、良子は逃げ出した。その後を追う貴子。彼女は良子を捕まえ、そして逆上の余り、手に掛けてしまった。
「あの子が、約束を守ってくれさえすれば、あんな可哀想な事はしなかったのに!」
貴子はそう言って、また涙を流した。
しかし、保来の眼には、それが彼女の本心なのか、それとも演技なのか、
判別出来ない。
「あの子は本当に可愛かった。実の娘と思っていた。私の人生で、生きている事が楽しく幸せに感じたのは、あの子と暮らしたほんの一時だけだった」
貴子は、当時が思い浮かんだのか、母のような優しい笑みを浮かべる。
だが、それもつかの間、貴子は再び激しい怒りの表情を浮かべ、
「全て戦争が悪いのよ! 戦争さえなければこんな人生にならかなった。私だって男としてまともに暮らせた筈よ! あの戦争さえなかったら…」
貴子は取り乱し、子供の様に激しく泣きじゃくった。彼女は、激しい起伏感情を隠そうとはしない。
暫くその様子を見ていた柿崎が、口を開く。
「広田。それは違うぞ。戦争で負傷した人は数多くいる。つい最近まで、そのような傷痍軍人達が、軍服や白衣を身に纏い、街の辻や人の出入りの多いところに立っていたではないか。五体満足で出兵していった者達が、足や腕をもぎ取られ、傷つき、仕事も出来ないほど負傷した姿で帰って来たのだ」
柿崎の言葉に、保来は微かに残る記憶が蘇る。
彼も、幼いときに父に連れられた賑やかな街並みで、白装束の足や手を失った人達が立っていた姿を見ていた。
「彼等は残った腕や手、口を使い、或る者は笛や尺八、ハーモニカを吹き、或る者は三味線やアコーディオンを弾いて、道ゆく人々に施しを受けていただろう。何も出来ずに、唯座って下を向いたままの者も居た。広田だってそれを目にしている筈だ」
「彼等の姿を眺めて通る人等の視線は勝手だ。或る者は軽蔑し、或る者は過剰な哀れみを、そして或る者は薄汚く邪魔な存在として見る。そう言う自分も、そんな彼等の姿を正視出来ずに、いつの間にか避けて通るようになっていた。自分はかつて、厭と云う程そういう患者に接して来たと言うのに」
当時、戦争で傷つき、満足に働けなくなった人達を支援する組織があった。傷痍軍人達はその団体に所属し衣服等の支給を受け、指定された街の辻々に立っていた。
「彼等は皆、不安な将来に絶望的な目をしている様に見えた。だから俺は、余りにも辛くて、彼等を正視出来なかった。様々な視線に晒されなければならなかった彼等は、さぞ辛く悲しかったろう。でも彼等は耐えた。生きんが為に耐えていたのだ。広田と同じように、さぞかし戦争を恨んだと思う。しかし彼等の殆どは重大犯罪など犯さないではないか」
柿崎は過去の出来事を回想し、噛み締めるようにゆっくりと語る。
柿崎は口調を変えて言う。
「広田の中には、苦しい、辛い、そして恨みが渦巻いているかも知れない。だが、そんな気持ちのまま、これからの人生を過ごすのは、もう終わりにしないか? 折角、命を繋ぎ止めたのだから、楽しく生きたらどうだ?」
「楽しく? 私に与えられる楽しさなんてないわ」
「温泉とか風光明媚な景色を見て歩くとか、旅行すれば良い。或いは、美味しい料理を食べ歩くでも良いじゃないか。広田はもう、何の心配も気兼ねも無い自由なんだよ」
貴子はゆっくりと頷く。
すると、話に保来が割り込む。
「その前に、お母さんに会われたらどうですか?」
「母に?」
「前にも言いましたが、私は広田さんのお母さんにお目に掛かりました。お母さんは、私が行く前から広田さんが生きていると信じてましたよ。未だ一度も郷里に帰っていないのでしょ?」
「母が、私の生存を確信していると、何故分かるのかしら?」
「それは、広田三郎さんは生きていると伝えた時、顔色一つ変えなかった。つまり、貴方が生きていると知っていたのでは無いかと思う。若しかしてですが」
「そうね。母に直接会わなかったけど、郷里には何度か行ったわ」
「その時に、村の誰かに見られたか、それとも、母子故に第六感というか、感じる物があったのかも知れないですね」
「元気で居るのかしら?」
「お元気でした。現在はお一人で田畑を守っておられるようです。広田さんのお父さんが亡くなられた後も、ご長男夫婦を呼ばず頑張っています。私の推測ですが、広田さんが帰って来た時の為に、財産として残して置きたいという気持ちなのかも知れませんね」
「そうですか・・・」
「親は有り難いですね。子供のことを決して忘れない。あっ、そうそう。私、広田さんのお母さんからお手紙を預かって来ました」
保来は鞄の中から一通の封書を取り出す。
「私が無理して書いて貰いました。勿論、中身は見ていません。後でお読みください」
「ありがとう」
広田三郎こと貴子は、穏やかな口調で保来の配慮に応える。
次回の「割れた繭」につづく
繭の館 大空ひろし @kasundasikai
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