第9話 対決 2

「此処まで来るには並大抵の苦労ではなかったろう。それを思うと俺も心が痛む」

 柿崎の言葉に、貴子は何も応えない。

 やや伏し目がちになったその姿に、過去の塗炭の苦しみが、今一気に甦り、高波のように貴子の心を包み込んでいる様でもある。


 柿崎は続ける。

「きみが、それこそ三日三晩、必死に激痛に堪えて死に神と戦っている姿。痛みと高熱の為か、浅い眠りの中で地獄の叫びのごとく発するうなされた声。俺は今でもハッキリと目に浮かび、耳にも残っている」

 柿崎は間を挟まず、一気に喋る。


「粗末な施設と、まともな薬も無い中、よくぞ地獄の痛苦を耐え抜いた。恐らく、広田自身の、何が何でも生き抜くんだという凄まじい執念ともいえる生命力が、数々の悪条件をも乗り超えさせたんだろうな。君は凄いよ。立派だよ」


 柿崎を見る貴子の瞳は、薄っすらと涙で潤んでいる様に見える。


「あなたにー、何が分かると言うんですか。私がどれほど苦痛の中でもがき、苦しんだか。傷跡の治癒が進んでも、私が今日までどんなに辛く悔しい思いをして来たか。あなたに分かる筈が無い!」

 徐々に感情を露わにしてきたその言葉には、凄みさえ感じられた。


「その通りだ! 確かに俺には君の、万分の一もその痛みを分からない。しかし、俺は救護班として従軍してきた。だから、それこそ様々な負傷兵を厭になるほど看てきた。治療の甲斐もなく死んでいった者も沢山いた。五体満足なら未だ良い。足や手を切断された人間も数多くいた」

 柿崎の言葉にも、感情が滲んでいる。


「そして又、悲しい事に、怪我が治れば再び戦場に駆り出される。そんな悲哀を俺は目の当たりに見てきたんだ。少しは理解出来ると言わせて貰う」


「柿崎さん。私から言わせて貰えば、貴方は恵まれていたのよ。敵と向き合って生きるか死ぬかの恐怖を味合わなくても済んだのだから」


 貴子の言い種は、まともに戦闘もした事が無い人間が何を言うのかと言いたげである。そしてその後、突然思い出したように質問をした。


「所で、あの憎っくき田村伍長はどうなったんですか?私が耳にした所によると、戦死したとか言う話を風の便りで聞いたのですが?」


「俺もあんまり詳しい事は知らないが、事が事だっただけに色々な情報が入って来てる。その中で間違いない情報だけを言うと、伍長は関東軍の軍法会議に掛けられた。そこでの結論は、銃殺も検討されたが彼の功績を鑑み、死刑は免れた。その代わり、危険の最も高い最前線に送られた。それも一兵卒に格下げされてだ。

その後の事は時間のズレもあって断言は出来ないが、皆が言うには敵に突撃して死んだと言う事だ。誰かが戦死と書かれているのを確認したと言ってたぞ」


「どうやら死んだ事は間違いないらしいわね。悔しいわ。私のこの手で殺したかった」

「おいおい。今の世の中でそんな物騒な事は言うもんじゃないよ。天がちゃんと裁断を下してくれたじゃないか。辛いだろうけどもう忘れても良いんじゃないか?」

 柿崎の慰めの積もりで言った言葉に、貴子は強く反発した。


「私にとっては、そんな単純な事ではない! 私はね、この火傷の為に男を捨てなければならなかったのよ。否応なしに体をそうされてしまった。しかし、心はそう簡単には変わらないのよ。己の中に男としての欲情が沸々と湧いてきて、それがなかなか消えてくれない。傷の痛みよりも辛かったのよ。更に、誰にも見られたくないこの身体。あなた方は僅かでも私の気持ちを知ることが出来るのですか!」

 そう叫ぶと、貴子は柿崎と保来を交互に睨みつける。


次回の「転回」につづく

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