第2話 嗅ぎ回る男
梅雨が明けると天気が安定して来た。そんな或る日の事。真夏の強い日差しが降り注ぐ中、一人の男が桜谷邸の廻りをうろついていた。
男の名前は保来(やすき)孝太朗と云う。彼は調べて回る事を生業(なりわい)にしている探偵である。柔和な顔立ちには似合わぬ鋭い視線を時折放つ、小柄な男であった。
「桜谷さんの事? 知らないわよ。私は人様の家庭を覗き見るような事はしないのよ」
人通りの少ない中、やっと捕まえた近所の主婦である。逃がす訳にはいかない。
「それは至極ごもっともです。この辺の皆さん、一様に、殆どご存じないと言ってます。しかし皆さんが口を揃えて、桜谷さんがかなりの美人だとおっしゃっていましたが、それは本当ですか?」
「それは本当よ。女の私でも羨ましいくらいだもの」
「それでは見た事が有るんですね。桜谷さんてどんな方なんですか? 例えばご家族の事とか、お年とかは…」
「そんな事聞いてどうされるつもり? あんた誰?」
「あっ、失礼しました。私こう云う者です。仕事上詳しくは言えないのですが、ご親戚の方から依頼されまして、ちょっと調べさせて貰っているんです。本当はご本人にお会いして、直接伺うことが出来れば良いのですが、何しろ人と会うことが極度に嫌いな方らしく、未だお目に掛かれないので困っている所なんです」
保来は主婦に名刺を渡しながらそう言う。
主婦は彼の話を聞きながら、名刺に目を通した。そして上目遣いで彼を見ながら、
「そうなのよね。私たちでさえ彼女の姿を滅多に見ないものね。それであなた、何を調べているの?」
主婦は、逆に質問を投げ掛ける。なかなか思い通りには聞き出せない。
保来は巧みに嘘を吐いて情報を得ようとした。しかし、警戒心が強いのか、それとも本当に知らないのか、手応えが得られない。
こんな状態では埒があかないと感じた保来は、怪しまれるのを覚悟で手当たり次第に聞き回った。しかし、苦労の甲斐もなく、得られた情報は僅かであった。
仕方がないので、最後の切り札として、彼は家政婦に正面から当る決意をする。
家政婦への接近は桜谷貴子に自分の存在を知れてしまう恐れがあるので、実の所は避けたかった。
家政婦は朝9時半頃に桜谷邸に来て、掃除、洗濯、昼食の用意等の家事をこなし、昼になると貴子と一緒か、又は一人で食事する。その後、昼休みも兼ねて買い物に出るのが日課であった。
保来は、買い物に出てきた家政婦を捕まえ、女性が好む甘味喫茶に連れ込んだ。だが、色々と聞き出そうとしたが、意外な程、家政婦の口は堅かった。
「お世話になっている人の事を、あれこれと喋るなんて出来るわけないでしょ」
「それは当然ですよね。しかしですよ、よく聞いて下さいね。実は或る人が、戦後間もなく、『桜谷』と名乗る人に大変お世話になったそうなんです。そのお陰もあって、その人、今ではかなり出世されましてね。そこで、桜谷さんに是非ともお礼をしたいと云う事なんです」
保来は作り話を家政婦に聞かせる。
「しかし、何処に住んでいるのか聞きそびれてしまった。それで私どもの事務所に見えられたんですよ。その人の話を詳しく伺って調べた結果、「桜谷」と名乗った人は、どうやら貴子さんではないかと、やっと突き止めたんです。
貴子さんという方は大変な人嫌いだと伺っています。そんな人にいきなり面会を求めても、話を聞いて貰えないと思うのです。せめて貴子さんが、本当に探している人なのかどうか、何かしらの手掛かりを掴みたいのです。
如何でしょうか。ここはひとつ人助けだと思って協力して頂けませんか? 勿論、あなた様から聞いたなんて、一言も言いませんから」
「分かりました。一体何を知りたいんですか? 私だって余りよく知らないんですよ」
彼女は渋々了承してくれた。
「いえいえ、勿論ご存じの事だけでいいんです。まず、そうですね。桜谷さんが昔の事について何か話された事はありませんですか?」
「いいえ! あの人がご自分の事を話すなんて一度も有りませんでした。ですから、昔の事など何も知りません。こっちが聞きたいくらいです!」
家政婦はきっぱり言い切った。
「ご家族の方や、親戚の方はいらしてるのですか?」
「ご家族はいらっしゃいません。お一人で暮らしています。親戚の方の話など伺った事は無いので、恐らく、親しくお付き合いをしているような身内の方は居ないと思います」
「あー、そうですか。それではちょっと立ち入った事を伺いますが、家政婦さんは貴子さんの着替えなどを手伝ったり、或いはシャワーなどを浴びている姿を見た事がありますか?」
保来はそう言いながら、質問の仕方を間違えたかと思った。
案の定、家政婦は怒った調子になり、大きな声で言った。
「おたく、一体何を調べているんですか? 変態ですか!」
よりによっての変態呼ばわりには、流石の保来もカチンと来た。しかしここで腹を立てたら水の泡となる。彼は平静さを装い話を続けた。
「すいません。説明が足りなかったようですね。実は、私の探している桜谷貴子さんには、この辺に何か火傷の痕の様なものがあったと聞いていたものでー」
そう言いながら保来は、自分の体の左脇腹から下の方へと軽く手をかざした。
「おたく、さっき、名字以外は何も手掛かりが無いと言ってなかった? やっぱり何か怪しいわねぇ。でも、残念ね。私は彼女のヌードなど一度も見た事はないわよっ」
上手く説明した積もりだった。なのに、家政婦の胡散臭そうに見つめる目が保来にはとても心外だった。
結局、家政婦からはこれと云った情報を聞き出せないで終わる。桜谷貴子という人物は、相当ガードの堅い人間である事だけはハッキリと掴めた。
保来は此処まで得た情報を、取り敢えず依頼者の柿崎浩二に報告する事にした。
次回の「妙な依頼」へつづく
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