繭の館

大空ひろし

第1話 美しき女性

 夏を目前にした木々は若葉も成長し、青々と茂っていた。ムシムシとする中、植木職人の柿崎(かきざき)浩二は伸びた枝の剪定に、額から汗を滴らせていた。

 広い敷地の此の邸宅には、様々な木々が植えられている。まるで雑木林である。それでも、流石に建物の近くは庭らしく造園さられていて、専門家の手入れが必要だった。


 先代親方から学んだ知識ではあるが、本来、本格的な日本庭園というのは先ず庭を造り、それに合わせて家を建てるものだと云う。

 見るにこの邸宅は、そう云う事には全く頓着しなかったらしい。何しろ、庭と建物がアンバランスなのである。


「植木屋さん、ご苦労様です。今日は何人いらしているのですか?」

 十時の休憩が近づいて来た。この屋敷の茂木と云う家政婦が人数の確認に来たのである。

「はい、今日は三人です」

 梯子の上から聞こえてきた親方の高野の声に、年に似合わぬ可愛い笑顔を浮かべて家政婦が頷く。

「今用意してきますから、お待ち下さい!」

 そう言うと、彼女は屋敷の中に消えて行った。

 間もなく、お盆の上に、水滴を一杯付けた冷たいコーラーの瓶とお菓子を乗せ、落とさぬ様にと慎重な足取りで運んで来た。

「お休み下さい。暑いですから冷たい物を用意しました。どうぞ召し上がれ」


 高野は高野造園の親方である。今は引退した先代親方の息子であり、柿崎の甥に当たる。その若い親方をサポートし、相談役的な立場にいるのが柿崎であった。


 柿崎は終戦後、仕事が無くて困っていた時に、叔父である高野辰一に勧められ、そこで働き始めた。

 彼には遣りたい仕事も、夢もあったが、戦争で家族の生活が一変してしまい、兎にも角にも、彼がお金を稼がねばならなかった。

 柿崎は叔父の指導の元、一から植物の手入れや様々な技術を学んでいった。やがて腕も上がった頃、叔父、辰一から独立したらどうかと薦められた。しかし彼は、口べたであり営業には全く自身が無かったので、この高野造園に残ることにしたのである。


 高野造園がこの屋敷に出入りするようになって既に三年目になる。その間、この通いの家政婦が常に応対してくれた。交わす会話は少ないが、三年も経つと少しはお互いの気心も知れて来るもの。


「ご主人の桜谷さん、今日も家の中に居るんかい? 滅多にない梅雨の晴れ間なのに、勿体ないね」

普段から口数の少ない柿崎が、珍しく家政婦に話し掛けた。

「高いクーラーを付けているんですも。こんな蒸し暑い屋外よりは遥かに快適でしょう」

 家政婦は羨ましそうに笑顔で答えた。

 一九七〇年代初頭のこの頃、庶民には、クーラーは未だ高嶺の花であった。


「ここのご主人、窓越しに二~三度見かけただけだけど、普段から余り外に出ない人なのかい?」

「そうなんです。私が買い物から接客まで全て代わりにして居るんです。私が、世間との窓口役と言うかパイプ役をやっているんですよ。ご主人は人前に出るのを極端に嫌っているんです。少し変わっている人なんですよ」

「間近で見た事が無いのでよく分からないが、随分と綺麗な方のようだがー?」

「そうなんです。女の私でも惹かれるような美しい人ですよ。あんなに綺麗なら素敵な縁談が沢山あった筈なのに、今まで独身を貫き通しているんですよ。此処だけの話、あっちの方(ほう)がご趣味なのかしら。ふふふー」

 そう言ってから、余計なことを口にしたと言わんばかりに、家政婦は急いで屋敷の中に駆け戻った。

 柿崎には、家政婦が言った『あっちの方の趣味』が、何を意味しているのか大凡見当がついた。


 この屋敷の持ち主は桜谷貴子(さくらだにたかこ)と言う。上背もありスタイルも良い、かなりの美人であると、近所では専らの噂の持ち主である。

 柿崎も、遠目とはいえ、貴子が噂通りの美形である事は見知っていた。唯、柿崎は、美しさに対する興味とは別に、貴子に或る種の疑念を持っていた。貴子の姿が、忘れかけた記憶の底を突っつくのである。


 所が、おぼろげ乍らに浮かぶ彼の記憶のデータと、現実に目にしているものとは一致しない。沸き上がる疑念は、柿崎の脳裏に食い込み、消える事は無かった。

 その疑心は、貴子の姿を始めて見た時から既に芽生えていた。屋敷への出入りが増す事により、不思議にも疑念が確信へと代わり始めたのである。


 次の日、柿崎は屋敷に程近い木の剪定に移った。此の辺りの木々は、いつの間にか彼の担当となっていた。彼が意図的にその様に持って行ったのである。その理由は、出来る限り屋敷に近い所で、より間近に桜谷貴子を観察したかったからであった。


 昨日は久し振りに晴れわたった空が見られたが、今日はまた、何時ものどんよりとした梅雨空に戻っていた。日が差していないのに、やけに蒸し暑い。

 柿崎の日焼けして黒ずんだ額からは、昨日に増して汗が噴き出していた。


 この暑さ故なのか、彼の視界に入る窓は雲が厚く垂れ下がっていると云うのに、全て明け放れていた。

 古ぼけた洋風の建物ので、家政婦が掃除機を掛けている音がする。恐らく窓を開けて回ったのは、この家政婦であろう。


 掃除機の音が消えて暫くしてから、部屋に人影が見えた。チラチラと家の中を窺っていた柿崎に、緊張が走った。この屋敷の主である桜谷貴子の姿を捉えたのである。彼は仕事の手を止め、枝葉に隠れるようにして目を凝らした。近くで見る貴子の容姿は噂に違わぬほどの美しさである。いや、美しさだけでなく「妖艶さ」さえも漂わせている。


 貴子はクローゼットの扉を開けて中の服を物色し始めた。どうやら、この蒸し暑さにクーラーさえも効かないのか、それとも故障でもしたのか、とにかく理由は分からないが、汗ばんだ服の着替えに来たらしい。

 貴子は適当な服を探し出すと着替えを始めた。柿崎の視線には全く気付いていない。

 貴子の上半身の服は剥がされ、男の心を惑わす様な白い肌が露わになった。小さい胸の盛り上がりを包んでいる白いブラジャーがやけに眩しく見える。しかしそれが柿崎の予測に反していたのか、一瞬「思い違いか」と言わせた。

 しかし次の瞬間、彼は大きく目を見張った。貴子の腰に近い左脇腹あたりに、僅かであったが、赤黒く爛(ただ)れた様な痕が、白い下着からはみ出して見えたのだ。


次回の「嗅ぎ回る男」につづく

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