第3話 父退場。記憶がまどろむニ年生から四年生

産後を経験したこと無い人にはピンとこないかもしれないが、

出産は、胎児を捻り出すと同時に母体の脳みその大脳皮質的な場所からも記憶の一部を、うっかりいくつか捻り出して捨ててしまっているような気がしてならない。

娘を出産した初産の後、数年してから自分の記憶領域の奥行きがずいぶん薄っぺらくなっている事を自覚した時は、育児に忙殺され過ぎていて嘆くことさえ時短時短と早送りで済ませた。

その後染色体異常による悲しみの中絶と、息子の出産で、合計三回の出産を経た大脳皮質は完全に奥行きを失い、私の脳内の古い記憶たちは古き良きゲームボーイアドバンスの解像度のように不鮮明になってしまった。


おそらく全ての妊婦が出産でこれほどポストアポカリプスな頭脳テクノロジーの廃退を起こす筈はない。あるいは起こしたとしても、ダメージの量に対してそもそもの記憶領域の奥行きの広さから影響自体が少なかったり、出産時の呼吸法で脳のダメージ自体を軽減出来ることもあるだろう。


とは言え、もともと千利休の茶室かな?くらいの広さの私の大脳皮質だから故に起こるべくして起こったことだろう。

何なら新たな記憶を運んでいた私の脳内生理収納アドバイザーkaibaが子育てに重要な記憶を置き換えるべく、断捨離して上手いこと整理収納してくれたのかもしれない。


そんな感じで前置きが長くなったが、年々自分自身の記憶はあやふやになっている。

その中で記憶曖昧ランキングの中で最も霧がっているミステリアスな時代は小学校二年生から四年生頃の記憶だ。


ほっちゃんと別れた後の二年生がどんな風に始まったか全く覚えていないし、クラスメイトの顔も名前もほとんど思い出せない。三年生になった後の担任の先生や好きだった本は所々覚えているが、学校生活の記憶はぷっつりと抜け落ちている。


鮮明に覚えている唯一の記憶は父が死んだ日のことだ。

当時私の家族は父方の祖父母と二世帯住宅に住んでいた。

父は普通の会社員で、母は主婦だったが日中働きに出ることもあり、母の仕事の日は、末っ子故に一番帰宅時間の早い私は、一階の呼び鈴を押して祖母に玄関を開けてもらい、内階段を使って二階の自宅に帰るという方法をとっていた。


この日も母は仕事があり、すでに祖父母が苦手になっていた私はいつも通り少し憂鬱な気持ちで一階の呼び鈴のボタンを押し、いまいち感情の読めない祖母の表情を見ないように定型的な『ただいま』を口にして、足早に二階の内階段を駆け上がる。

階段の登った先の廊下を曲がるまではいつも通りだったのだ。

その先に見えた“もの”で日常は終わった。


廊下を曲がると本好きな両親が集めた本棚があって、すぐに次の部屋に繋がるドアがある。ドアはいつもは閉まっている。

いつも薄暗い通路にある故に、黒い四角いシルエットになっているはずの本棚は陽光があたり、ぎっしり詰まった本の背表紙には大きくて奇妙な影が揺らめいていた。


異質さを、頭の前に、目と肌が感じとったようだった。


空いたドアの下に黒い大きな何かが紐でぶら下がっている。


その事実が理解できた瞬間、私はきびしを返して内階段を目指した。

内階段の手前まで辿り着いたところで、足が動かなくなった。祖母が父を溺愛していること、祖父母は幼い自分にとって感情の見えない妖怪のように感じること。この二つの事実が私の足に訳の分からないブレーキをかけた。

祖父母に今見た異変を伝えたらさらに恐ろしい事態になるのではないか?と

具体的な想像の先があったわけではないが、恐怖に支配された私の脳は思考を停止して、内階段の前でうずくまり、何かが、恐ろしい何かが無かった事になる時を待っていた。


どのくらいの時間そうしていたのか今も思い出せないけれど、もしかしたら三十分くらいは経っていたかもしれない。

いつまで経っても治まらない心臓の動機と、荒い呼吸で喉がカラカラになった。満足に酸素が行き渡らず頭が痺れてきて、べっとりと張り付いていた恐怖が人ごとの様に意識とともに遠のいてきたことで、私はようやく足を動かすことが出来た。



後の出来事は怒涛のように断片的にしか覚えていない。

一階に辿り着いた私は炬燵に座る祖父母に二階に一緒に来いとだけ伝えた。

困惑しながら着いてきた先で、息子の首吊り死体を見た祖父母は多いに狼狽し、役割は果たしたとばかりに立ち惚ける私に、箸を持ってこいと叫んだ。

箸を?何に?と思いつつ、妙に冷静に普段の食事用の箸はよした方が良いだろうなと客用の箸を探して持って戻った先で、明らかに亡骸の様を呈した父の遺体を紐から下ろして寝かせて祖父と祖母が心臓マッサージをしていた。

箸を渡すと遺体の鼻を端でつまんで人工呼吸を始めた祖母を見ながら、あの箸使って大丈夫だったのかな?と他人事のように眺めていた。


いつのまにか私は一階の祖父母の居住の洋間のソファに座っていて、向かいにはランドセルを背負ったままペットのハムスターのカゴを抱えてじっとしている姉であり、次女の葡実ちゃん(仮名)がいた。

その隣には向かいに住んでいた叔母が座っており、何かを判じるような奇妙な表情で目線はテーブルに向けていた。

警察がバタバタと行き来しだして、その頃になってやっと母も戻って居たと思う。


飛ぶように時が進んで、見たくもない恐ろしい遺体を葬式でまた見せられて、咽び泣く大人が気持ち悪くて仕方がなく、誰かに父の原因を聞かれたら“心臓発作”と説明するように言われた。

でも記憶の中で子供の私は学校の教室で『私のお父さんは首を吊って自殺しました』

とセンセーショナルな発言をしたような気もするし、妄想のような気もする。当時のことを話し合える友人も居ないので事実は分からないままだけれど。


母方の祖母がきてくれて、ぼーっとする私のそばで洗濯物を畳み、たまたまついていたテレビでは知らない女優がカレー味の鯖缶をめぐって何かを熱弁していたことを覚えている。

気になって調べてみると、1997何に放送されていた『コーチ』というタイトルのドラマらしく女優は浅野温子さんだった。

つまりは正しくは27年前の出来事であり、当時の私は10歳だったことになる。

10歳にしては行動の一つ一つが幼かったなぁ、とあと数日で9歳になる娘と比べるとそんな感想が出てくる。


ともかくそんな衝撃的な出来事があればもともと考えの足らない頭はパンク寸前になるわけで、その日から眠ろうと目を閉じるとぐちゃぐちゃとした激しい落書きが瞼の裏側に現れて眠れないという症状に苛まれるようになり、人の中で生きるのが困難だった弱弱しい精神はさらに不安定になってゆく。


ここまで書くと、母は何もしてくれなかったようにも見えるが、彼女は弱さに共感というものは出来ないし、しようともしないが、理屈としての倫理観や道徳観は待ち合わせている人だったし、常に正義感があった。

私が苦しんで助けを求めれば、例え需要とズレていたとしても彼女なりの救いの対応をしてくれた。

たぶん母自身、厳しい父母や、子供を三人も押し付けて自殺してしまうような夫に囲まれていた訳だし、真っ当な愛情というもの享受してこなかったので、子供の求める愛情の注ぎ方や受け入れ方が分からなかったのでは?と今では勝手に分析している。

そして悲しい哉、それはそのまま今の私に当てはまることでもあり、私がここで負の連鎖を絶たねば我が子たちにこの要らんタスキを明け渡してしまう。それだけは避けたいなんとかしたい。


人間関係が真っ当に築けない原因として、よく挙げられるものに“自己肯定感”ってやつがあり、この自分大好き!は肯定的な言葉をかけられて育った子供時代に起因するという。

では大人になってこの“自己肯定感”の欠如に気付いた時はどうすればいいのか?

タイムリープの研究施設の扉を開いて大枚を無限の彼方に散らせねばならないのか?

ファンタジーに逃避せずもう少し思考を現実に寄せると、心療内科の門を叩きカウンセリングを受けるべきなのか?

もしも私が小金と余暇を持て余すセレブリティな生活水準であったとしたら『今週末試しにいっちょカウンセリングに行ってみようかしら?』となっていただろう。

しかしカウンセリングにたった一度行ったくらいで自己肯定感が爆上がりするならば、この世はもっと平和でハッピー人間で蔓延しているはずだし、効果が出るまでカウンセリングに通い続けたら自己肯定感が上がる頃にはウチの経済が破綻しているに違いない。

もっと切羽詰まった人間と事情であれば行くべきところだとは思うけれど、私の場合は今ではないだろう。


ああだこうだ言っても、我が子を平和とは言い難いレールに乗せないためにも私自身の自己肯定感アゲアゲ計画は必須なのである。

そしてすでに記述してあるように夫の協力は期待できない。

ここの関係性も改善が必要なのは間違いないが、もはややること多過ぎ拗らせ中年男めんどくさいという難解な事情があるため後回しにされがちである。

味方ではないが、敵でもない。共同出資者。これが現在の夫の私の中の立ち位置である。


夫の話はまた後に語ることとして、これ以降また記憶は思春期に突入してゆく

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