第23話


 学校に着いた。

 どこを見ても、いつも通りの世界が、ここにはある。

 朝の会が始まるまでには、もう少し時間がある。お母さんからの手紙を渡すより先に、ぼくはぼくがすべきことをしよう、と思った。

「おはよう。あのさ」

「おはよー。なーに?」

「この前貸した鉛筆なんだけどさ、返してくれない?」

「……え、借りたっけ?」

「うん。貸した」

「え、でも、筆箱に入ってないよ? ほら」

「ああ、あのさ。道具箱の中とか、見てもらってもいい?」

 隣の席の子は、記憶にないことを責められているような気分なのだろう。嫌そうな顔をしながら、道具箱を引き出した。

 乱雑にものを詰め込んでいて、かなり散らかっている。ぱっと見た目には、ぼくの鉛筆はない。

 片付けるでも探るでもなく、ほらないじゃないか、という顔をされたけれど、ぼくは「ちょっと見てみてもいい?」とお願いした。

 そっと手を入れて、乱雑さをできるだけそのまま保てるように、その子の使いやすい状態を壊さないように気をつけながら、指先で探る。と、鉛筆に触れた。けれど、これはまるいから、たぶん色鉛筆。

 すこし位置を変えてみる。六角形に触れた。長さは? 貸したやつと同じくらいのような気がする。

 そーっと、そーっと引き抜いてみた。すると、ぼくの名前が書いてある鉛筆が顔を出した。

「え? あ、ほんとだ。借りてたんだ」

「もう。借りたら返してよね」

「あ、ごめんごめん」

「ああ、でも――。貸したやつ返してって、すぐに言わなくてごめん。ぼくもこんどから、気をつけるよ」

「う、うん」

 隣の席の子は、きょとんとした顔をした。

 

 朝の会が終わると、ぼくは先生にお母さんからの手紙を渡した。

 そこには「昨日、河川敷で倒れていて、ケガとかはないようだけれど、頭を打っているかもしれません」とか、「調子が悪いようだったら保健室に行かせてほしい」とか、「連絡があればすぐに迎えに行く」というようなことが書いてあるものだから、先生は読むなり目の色を変えて、「大丈夫?」とぼくに問いかけた。

「大丈夫です」

「変な人を見たとか、そういうことはない?」

「ないです。いい人と、かわいい犬には会いましたけど」

「ああ……うん。そっか。調子が悪いとか、昨日のことを思い出したとか。何かあったら先生に教えてね」

「わかりました。ありがとうございます」

 先生に手渡した手紙を、ぼくは誰にも読ませていない。でも、どうやって話が流れていったのか分からないけれど、次の休み時間の時には保健委員の子が「調子悪くない?」と聞いてきたし、「お前、頭打ってバカになったんだってぇ?」と茶化してくるヤツがいた。

 声をかけられるたび、ぼくは心の中にふわふわと浮かんだ「ヘーキだよ」とか、「いや、天才になったから」という言葉を、滑らかに口から出せた。


 たぶん、少し前のことなんだと思う。

 でも、何かを伝えるのが苦手っていうぼくが、遠い過去の姿のように思えた。

 今なら、すごく上手っていうわけではないけれど、何かを伝えられる気がした。

 全部を言えるわけではなくて、少ししまいこむこともあるけれど、それでも、ちょっとは言える気がした。

 たとえば、「消しゴムのお尻は大事にしているから使わないでね」とか、そういう心の中にある譲りたくないことも、いまなら、ちゃんと。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る