第21話


 お母さんは、家に入るなり、ぼくに心配の言葉ばかりをぶつけてきた。

 濡れているからと着替えるために脱いだ服を、くまなくチェックして、何かされてないか、その痕跡はないかとか、警察とか探偵ごっこをしているみたいに、隅から隅まで舐めるように見ていた。

 ひとしきり服や持ち物を見きると、こんどはぼくの身体。

 さすがにもう、お母さんには見られたくない場所がある。そういうところまで見られるのは嫌だな、って思っていたんだけど、お母さんはそんなぼくの心を察してか、着替えた服や下着を脱がしてまで確認することはなかった。

「パッと見、ケガはないけど……。あっ! 頭! 打った? 打ってない? え、打ったかどうかなんて、分かんないよね? そうだ、うん。病院行こう! 今日? 病院、もう閉まっちゃったよね。ええと、救急? うーん。でも、これって救急に行くやつかなぁ。警察……警察には言っておいた方がいい? それとも――」

「お母さん」

「なに? まさか、頭痛い? それなら今すぐに――」

「お母さん。ぼく、どこも変なところないから。ヘーキ。お腹空いたから、ごはん食べたい」

「え、ごはん? ごはん……? まぁ、そうね。お腹空いてるなら、ごはん食べて、様子見る?」

 お母さんは、キッチンへ行くと、冷蔵庫を開けたり閉めたりした。

 混乱しているからそうしているのか、メニューに悩んでそうしているのか、ぼくには分からない。

 けれど、もしメニューに悩んでいるとしたら。ぼくは、伝えたいことがある。

「ねぇ、お母さん」

「んー?」

「メニュー決まってる? 決まってないんだったら、今日、ハンバーグとピーマン炒めがいいな」

 お母さんの動きが、時間を止めたみたいにピタッと止まった。

 カチ、カチ、カチ――何秒かしたら、魔法がとけたみたいに動き出す。

「昨日、ピーマンの肉詰めだったのに? ああ、まぁ、なんだかんだ材料はあるんだけど……また?」

「似てるけど違うものじゃん」

「違うものだけど、同じようなものじゃん。ええ、やっぱり病院――」

「おーなーかーすーいーたー!」

「うーん。わかった。ハンバーグとピーマン炒めね。ちょっと待ってて」

 キッチンからは、いろんな音が聞こえてくる。そして、いろんな香りが溢れてくる。お母さんが料理している。その、なんてことないことに、ぼくは空気を感じた。

 大きく息を吸ってみる。

 大きく息を吐いてみる。

 特別美味しいってわけではないし、お腹が満ちるわけでもないけれど、ああ、空気を食べるのっていいな、と思う。

 ちょっとだけ、息を止めてみる。

 そうしたらぼくは、苦しくなる。

 もう一度、大きく息を吸ってみる。

 ああ――生きている。

「ごめん、お待たせ。できたよ」

「わーい! いただきまーす!」

 お母さんは、まだ落ち着きを取り戻してはいない。

 ぼくの前に腰を下ろして、ごはんを食べているぼくを、じぃっと見つめてくる。

 見つめられているとなんだか食べにくくて、お箸を止めると「病院行こう!」と言う。その繰り返し、繰り返し――。

 ごちそうさまをした後も、お風呂に入った後も、宿題をした後も、歯磨きをした後も。ずーっと落ち着かない。

 お父さんが帰ってくると、お母さんは今日の出来事をぜんぶ、頭に浮かんだ順番で話し始めた。

 お父さんは、キーワードを拾い集めて、なんとか理解しようとしているみたい。むずかしい顔をして、お母さんとぼくを交互に見る。

 出来事を全部理解したかは分からないけれど、お父さんは話を聞き終わると、ぼくに「調子が悪いところとかはないんだね?」と、優しい声で訊いてきた。

「どこもおかしくないよ」

「本当だね? 無理してない? 心配かけちゃうからって強がってたりとか、そういうことはない?」

「本当だよ。無理してない。それに、もし調子が悪いところとかあったら、ちゃんとお父さんやお母さんに言うよ。約束」

 お父さんは、ちょっとだけ心配そうな目をした。そして、ぼくの目をじぃっと見て、何かを感じ取ると、目から心配の色を消し去って、こくん、と頷いた。

「わかった。じゃあ、約束ね。何かあったら、ちゃんと言うように。言いやすい方でいいからね、お父さんじゃないといけないとか、お母さんじゃないといけないとか、そういうことはない」

「うん。わかった」

「今日はいろいろあったんだし、疲れたでしょ? 早く寝るといい。ああ、でも、もしカイトが嫌じゃなかったら、今日だけ、今晩だけでいいからさ、部屋の扉を開けたまま寝ることって、できるかな?」

「ん? どうして?」

「カイトの言葉を信じてる。でも、お父さんの心の中に、心配の種が残っていてね、ちょっと芽が出ちゃってるんだ。だから、寝てるときに急に様子がおかしくなったりしてないかな? って、ちょっと覗きたくなったときに、覗かせてもらいたくて。扉がこっそり開いたら、怖いかな? って思ったからさ。開けっ放しにしてもらえたらいいな、って」

「……うん。わかった。別に、扉開いてても平気だし、そうする」

「ありがとう。今晩だけ、よろしくね」



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