第20話


 ほっぺたに、あったかくてぬるぬるした何かが触れた。

 ハッとして、目をぱちくりさせた。

 視界には、青い空と、雑草。知らない犬と、おじさん。

「おめぇ、なんでこんなところで寝てんだ? あぶねぇぞ。ってか、川遊びでもしてたんか? 子どもだけで遊ぶところじゃねぇし、この川は遊ぶにはでかすぎる。そんなことしてると、死ぬぞ?」

「あ……、ごめんなさい」

「立てるか?」

「あ、はい」

 はい、と言ったけれど、口だけだった。立ち上がろうとしたら、足にうまく力が入らなくて、フラフラした。

 なんだろう。変な感じ。でも、懐かしい感じ。

 ああ、そうだ。この感覚を、覚えている。これは――重力だ。

 身体中、特に足が濡れている。水の中に入ったみたいだ。

「あ、あのぅ」

「どうした?」

「今、何月何日の何時何分ですか?」

「おめぇ、この後『地球が何回まわった?』とか訊く気か? おらぁ知らんぞ」

「いや、そんなつもりはなくて。ただ、今がいつなのか、知りたくて」

「まさかおめぇ、タイムマシンでも使ったか?」

 おじさんは、目をかっと見開いて、驚きと好奇心たっぷりにそう訊いてきた。

 ぼくは、返答に困った。もしかしたら、タイムマシンを使ったかのように、歪んだ時空に入り込んでしまっていたかもしれないと思ったからだ。

 黙りこくっていると、おじさんが「家、分かるか?」と質問を重ねてきた。

 こくん、と頷くと、「おめぇのこと心配だし、暇だから送ってやるよ。どうせ、散歩するんだ。おめぇくらいが歩いて帰れるところなんて、なんてことねぇからな」と、微笑んだ。

 歩を進め、近くに転がっていたランドセルを拾い上げる。するとおじさんは、「持ってやるよ」と、ぼくからそれを奪うように取った。

「ありがとう」

「おうよ」

 河川敷から土手までの、ちょっと急な坂をゆっくりのぼる。

 重力が重くて、なかなか足が前に出ない。ウオくんたちと一緒にいたときは、それはそれで歩きにくかったけれど、こっちもこっちで歩きにくい。

 いつもの階段に、ゆっくりゆっくり近づいていく。

 あの階段を上がって、橋に出て、右に曲がって、また歩いて――いつも通りを繰り返せば、家に着く。

 今日はおじさんと犬が一緒だから、いつも通りってわけでもないけれど。

 犬は吼えたりしないし、歩くスピードがゆっくりだ。なんとなく、ぼくを気づかってそうしてくれているような気がする。

 ときどきその大きな体のふかふかの毛がぼくに優しく触れて、その度ぼくが犬を見ると、心配そうな目でぼくを見てくるから、そう思う。

 きっとこの犬は、普段はこんなにゆっくりと歩いていないのだと思う。もっと元気いっぱいに走り回っているんだろうな、と思う。

「ごめんね、お散歩のコース、変えちゃって」

「ワン!」

「一緒に歩いてくれて、ぼく、うれしいよ。ありがとう」


 歩いたら、当たり前のように家の前に着いた。

 ぼくは鍵を持っているから、玄関を開けられるって言ったけれど、「急にしらねぇおっちゃんが顔出したら、かあちゃんがびっくりしちまうだろう?」とおじさんが笑って、ピンポンを押した。

 知らない顔をモニターで見て、不思議に思ったのだろう。

 いつもはあまり見ない表情のお母さんが、ちょっとだけ開けた玄関ドアの隙間から、出てきた。

「え、カイト? ん? あのぅ……どちらさまですか?」

 おじさんは、お母さんにさっきの出来事を話した。でも、おじさんの話には、ぼくを見つけるまでのことも含まれていた。だからぼくは途中まで、まるで人ごとのようにそれを聞いていた。

「ありがとうございます。ありがとうございます」

 お母さんがおじさんに向かって、何度も何度も頭を下げる。

 その度、おじさんも頭を下げた。

 お互いのお辞儀の角度は、頭を下げるたびに深くなっていく。その様子を見ていたら、なんだかおかしくなってきて、ぼくは「ははは!」って声に出して笑った。

 ぼくが笑うと、みんな笑った。ああ、なんか、あったかい。

 言葉も、表情も、心も、重力も――何もかもが愛おしいと思えた。

「そいじゃ、おらぁ失礼させていただきますね。ほら、ポンスケ。いくぞ」

「ありがとうございました。本当に」

「いえいえ。おい、少年。今度はあんなところで遊んじゃダメだからな?」

「はい。気をつけます」

「気をつけるんじゃねぇ、やめるんだ」

「はい。やめます!」

「おうよ! じゃあな」

「はい! またいつか、危なくないところで会いましょう! おじさん、と……ポンスケ!」

 おじさんは、ニッコリ笑うと、手をヒラヒラさせながらどこかへ向かって歩いていく。ポンスケはリードが繋がっているから、おじさんが行く方へとついて行くしかない。

 でも、なぜか動かない。

 リードがピン、と張った。

 ポンスケが舌をチロッと見せて、ハッハッと息をしながら、ぼくのことをジィっと見ている。グッグッとリードが引かれた。おじさんからの〝いくぞ〟という、メッセージだろう。

「ワン!」

「またね、ポンスケ!」

 ポンスケは、くるりと向きを変えると、トットッと軽快に走っていった。

 やっぱり、さっきまでのゆっくりとした足取りは、気づかいだ、と思った。

「ありがとう」

 ぼくは、言葉を泡にした。

 届けたい生き物の心には、届かないかもしれない。

 それでも、確かに吐き出したいと思う心の声を、泡にした。



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