第19話
この世界は、不思議な世界だ。そのことは、ちゃんと理解している。
この世界は、人も魚も存在できるってことも、分かっている。
でも、おならのことはよく分からない。
この空間を満たしているものは、ちゃんと香りを伝えている。それなのになんで、すかしっぺだけは無臭化されているんだろう。
わざわざすかしっぺを例えに出したということは、たぶん、この世界の生き物のすかしっぺが無臭ってわけではないのだと思うけれど。
「あ、えっと。ぼくは、話を聞いて、泡……っていうか、不思議な水? の中だから、匂いを感じないんだと思いました。でも、お茶とか、おやつとか、そういう匂いはちゃんと感じてて、だから、そのぅ……。おならだけ匂わないっていうのは、なんだか変というか、えっと……」
「まぎれているのよ」
「……もう。メイってば。なんで舟を出すかなぁ」
「だって、助けてあげないと、いつまでたってもぐるぐる考えそうだし。この世界のことは、普通の人間には難しすぎるでしょ」
「まぁ、そうだけどさ」
「だいたい、ビタちゃんの説明が分かりにくいのよ。回りくどいし、わざわざ難しくするし」
ビタローさんの口が、少しとんがった。メイがぼくに助け舟を出したことが、不満らしい。
「匂いって、ずっと嗅いでると、慣れるでしょ? たとえば、このクリームをずっと塗り続けていたら。その匂いにすっかり慣れて、何ならちょっと物足りなくなったりもする」
言いながらメイはぼくの鼻に向かって、返してもらったばかりのウロコクリームを突き出した。ケースの中にたくさん入っているそれは、薄く塗ればいい匂いなのかもしれないけれど、塗られるのを待っている状態では、なかなか強烈な匂いがした。
「ちょっと強烈でしょ? でも、カイトだってこれをずっと嗅いでいたら、慣れるよ」
「うん。なかなか強烈な匂い。それに、うん。たしかに、ずっと嗅いでいたら、慣れそう」
「で、なんかビタちゃんがむずかし~く話してるけど。簡単に言うと、この世界には、おならの香りが満ちているの」
「――えっ?」
「みんなそこら中でプッププップおならしてるのよ。で、その香りが世界に溶けてる。おならに匂いがないわけじゃなくて、それが身近にあっても、それは当たり前のことで、慣れてしまっているからあんまり気にならないってだけ。人間は、人間たちの世界で、雨が降り出したとか、草を刈ったばかりの時くらいしかろくに空気のにおいを感じていないんでしょ? あたしからすれば、人間たちの世界の空気は、何も起きていなくても鼻がもげそうだったけどね。たぶん、世界に溶けた匂いは慣れて気にならないけど、世界に溶けていない匂いは気になる、気にできるものなんだろうね」
「なんか、ちょっと分かったかも……」
「それで、ここで物を作ると、どうしても空気や泡に触れるでしょ? そうしたら、別の香りをつけない限り、その匂いになっちゃう。そんなわけで、無香料イコールこの世界の香りイコールみんなが垂れ流している香りをまぎらわせてくれる潮の香り、ってこと」
「なるほど……」
「いくらまぎらわせられるって言っても、その匂いが濃い方に行けば、それを感じることができると思うよ。人間だって、草を刈らなくても草に鼻を近づけたら草の匂いを感じる……でしょ? そんな感じでさ。例えばいま、ビタちゃんのお尻の近くに行ったら。おならを少し強く感じられるかもね」
「おっと。それじゃあ、もう一回すかしっぺをしようか?」
「出さなくていい! だいたい、なんでそんなにプッププップ出せるのよ」
「ねーねー! ボク、お菓子食べてるんだけど! いい加減、おならの話はやめてくれない?」
ウオくんが、ほっぺたをぷくぅ、と膨らませた。
ぼくらは、ウオくんに「ごめんごめん」と言って、笑い合った。
例えが少し分かりにくくて、理解するのが難しかった。
けれど、ちゃんと訊いて、聞いたら、心にふわん、と落ちはした。これのことを人は、〝納得〟というのだと、ぼくは思った。
「そういえば、この貝殻みたいなやつ、メイが作ったんだよね。食べてみよーっと」
ぼくは貝殻みたいなやつをつまんで、口に放り込んだ。
メイの顔が、一瞬かちん、と凍った気がした。
「ど、どう?」
「おいしい」
「本当に?」
「うん。すっごくおいしい」
「でも、やっぱりボソボソするでしょ?」
「うーん。たしかにちょっとボソボソするけど。でも、おいしい」
メイの顔が、緩んだ。ホッとしたみたいな緩み方だった。
「そっちの、色違いのやつも食べてみてよ」
「え、これ? ああ、うん」
「どう?」
「こっちは、ホロホロしてる。こっちもおいしい」
「これらはねぇ、わたしが作り方を教えたやつだからねぇ。わたしの教え方がいまいちだったかなぁ。うーん。ああ、でも、わたしも作り始めて数回の頃は、こんな感じだった気もするな。なんだかな、慣れないと難しいんだよね。こういう経験をするとさ、練習って大事だなとかさ、経験することって宝物のようだなって思うよねぇ」
「え、ビタローさんが、メイに教えたんですか?」
「ん? カイトからしたら、わたしがお菓子を作るのは、意外かい?」
「えっと、意外といえば、意外です。べつに、ビタローさんがやっちゃダメってわけじゃないんですけど、こう……そういうイメージじゃないっていうか」
お菓子を食べ終えたウオくんが、部屋の中を落ち着きなく泳ぎ回り始めた。ビタローさんと話している途中だっていうのに、ぼくの周りをクルクル泳いだりもした。
不思議だ。きっと、何か言いたくて、でも、言えないことがあるんだろう。
あとでじっくり、話をしよう。時間はまだまだあるはずだから。
「先入観で凝り固まってしまうと、可能性を見誤ってしまうことがあるから、気をつけるといい。無理のない程度にね。わたしは、お菓子を作るのが昔から好きなんだよ。生きているといろいろあるけれど、お菓子を作っている時間は、とても穏やかに過ごせてね。ああ、いや。穏やかじゃないかも。楽しすぎて、ザブンザブン」
「ザッブ~ン! ザッブ~ン!」
メイが茶化すように、手で大きな波を描きながら言った。
笑い声が響く。ぼくはほっぺたが痛いことに気づいて、ぼくが大きな声を出して笑っていることに気づいて、すごくびっくりした。
「心の内は、全部外に出すものじゃない。でも、全部しまうものでもない。キミのこれからが、ここでの記憶を栄養にして、大きく元気に育っていくことを、願っているよ」
落ち着きがないウオくんの背中を、メイがすぅっと撫でた。
ぼくを見て、微笑む。
メイに撫でられているウオくんの目は、なんだか潤んでいるように見える。
ビタローさんがぼくを見て、こくん、と頷く。
「さぁ、そろそろ時間だ。ありがとう、カイト。出会えて、話せて、嬉しかったよ」
ほわわん、と視界が揺れた。
ふわわん、と、泡が揺蕩う。
時間は、もうないんだ。そう気づいて、ぼくは叫んだ。
「みんな、ありがとう! 元気でね! いつかまた、会おうね!」
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