第18話


 二人の会話に割り入ってみる。

 なんだかすごく、ドキドキする。

 でも、大丈夫。息はちゃんとできているし、言葉をちゃんと吐き出せる。

 このふたりならきっと、ぼくの言葉がちょっと変でも、それを受け止めてくれると信じられる。

 信じられたら、ぼくが知っているぼくよりも軽やかに、心と口が波を生み出し始めた。

 言える。大丈夫。話せる。声を、音の波にできる。

「どうしたの? カイト」

「あの……さ、さっきメイが、潮の香りって、言ったじゃん?」

「うん。それがどうした?」

「でも、ビタローさんは、無香料って言ったから、その……」

「その?」

「無香料なのに、潮の香りって、なんかよく、わかんなくて」

 最後のほうの言葉は、なんだかボソボソしてしまった。けれど、ビタローさんはニッコリ笑顔をしている。あの顔に、ボソボソと喋ったことに対する不満は、感じられない。

 メイとてそうだ。はぁ、と息を吐いたけれど、ちょっと呆れているってだけで、バカにされている感じはしない。

 え、なんで? 呆れるとバカにするって、ほとんど一緒じゃない? いいや、違う。メイは鼻で笑っていないんだ。それに、なんだか、顔も雰囲気もあたたかい。

「なんかこの貝殻みたいなやつ、おいしいけどボソボソするぅ」

 急に、ウオくんが口を尖らせながら言った。

「うるさいなぁ、もう。まだまだ練習中なの! これからもっとおいしくなっていくんだから! 失敗作でもありがたく食べなさいよね」

「ちぇ~っ」

「え、これ、メイが作ったの?」

「そ、そう、だよ……? って、違う! この話、違うよ! カイトは、ウロコクリームの香りのことを知りたいんじゃなかったの?」

「あ、そうだ。でも、メイのお菓子のことも気になる」

 メイのほっぺたが、じんわり赤くなった。

 目がキョロキョロと動いている。ビタローさんは? 子どもを温かく見守っているかのような、優しい目をしている。

 変な雰囲気というわけではないけれど、なんだか気になる。

 ぼく、何か言っちゃいけないこと、言ったかな。聞いちゃいけないこと、聞いたかな。

「わたしから話そう」

 ビタローさんが、口を開いた。

「ここは、人も魚も、共に暮らすことができる、幸せな世界だ。この世界は、無数の泡の集合体。どこにでも空気があって、どこにでも水がある。そんな、不思議な世界。それでね、みんなは気にしていないけれど、ここの泡は潮の香りなんだ。だから、この世界では、香りをつけていないということは、イコール潮の香り、ってことになっているんだ。うーん。どのように言えばいいかなぁ。あ、そうだ! カイトは、おならをしたことがあるだろう?」

「あ、ある」

「そういうとき、ここへ来る前は、ちょっと匂わなかった?」

 すっかり忘れていたつもりの過去の出来事が、ぶわっと姿を現した。

 あれから、周りがすごく気になりだした気がする。ここでこんなことをしちゃだめだぞ、とか、〝もしもこうなったら〟っていう想像を働かせて、それを防ぐことを頑張ったりもした。

 貸したものが返ってこなくても、ちゃんと言えなかったのは、そんな想像も影響しているような気がする。

 ぼくがそれを言ったら、何か言われるんじゃないかって想像してみると、色々な言葉や、顔や、その先の未来が思い浮かんだ。

 その、地獄みたいなイメージを現実にしないようにするには、〝言わない〟というのが一番簡単な選択で、逃げだった。

 ビタローさんなら、大丈夫。

 悪い想像をする必要なんてない。

 心を開く。

 ビタローさんを信頼して、ぼくは過去を晒してみることにした。

 それは、とても難しい選択で、賭けだった。

「臭かった。別にしたいわけでも、しようとしたわけでもなくて。でも、おならが出ちゃうことって、ときどきあって。そのときどきが、学校の時とかは最悪だった。『くっせ~』って笑われたりするんだ。そんなに臭くないおならの時でも、なんか、こう、おおげさに」

 ビタローさんは、うーん、と考え込んだ。

 その様子を見ていたら、ぼくは、賭けに勝ったんだと思えた。目が痛くて、熱くなった。

「それは、嫌だったね。おならをしない人なんていないはずなのに。みんなおならはたいてい臭いはずなのに。それで笑われたら、嫌なはずなのにね。そうだ、カイト。気づいているかい?」

「なにを?」

「わたしはさっきから、三回もすかしっぺをしている」

「――えっ?」

 メイが口に含んだお茶を、堪えきれずにちょっとだけプッと噴きだした。慌てて口から飛び出していったお茶を拭きだす。ほっぺたの色が戻りかけていたのに、また赤くなり始めた。

「ここは、無数の泡の集合体と言ったけれど、人間も生活できる不思議な水の中、と表現してもいいと思う。で、だ。おならをプールでしたら、どうなるだろう?」

「急に問題? え、ええっと」

「におわない!」

 ウオくんが、口の端にクッキーの欠片をつけたまま、自信満々に叫んだ。

「せいか~い! まぁ、水の向こうに空気があったら、そこへ逃げていって、そこでおならがはじけて、香りを放つだろうけれどね」

「え、ええと、まって? あれ? うーんと」

「カイト、落ち着いて。落ち着いて」

 ビタローさんが、お茶を一口飲んだ。

 その様は、ぼくにも〝お茶を飲むといい〟と言っているように見えた。

 ぼくは、ティーカップに手を伸ばして、それを飲んだ。

 ティーカップを口に、鼻に近づけただけで香りがしたし、口に入れてみてもやっぱり香りを感じた。



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