第9話
ごちそうさまをするなり、ぼくらは出かける準備を始めた。
といっても、ぼくがする準備はほとんどなくて、トイレに行くくらい。
ウオくんは、大きなカバンに「あれも持って行きたいな、これも入れておこう」と、おこづかいだけではなく、ちょっと旅行に行くつもりなのかな、と思うくらいたくさんの荷物を詰め込んだ。
準備が終わって、ご飯を食べた部屋に戻ると、ヒデトさんとウオくんのお母さんは、のんびりとお茶の時間を楽しんでいた。ぼくらはふたりに「いってきます」と声をかけた。
「ああ、そうだ」
「どうしたの? パパ」
「カイトくん。困りごととか、ないかい?」
ヒデトさんが、クシャっと笑った。
困りごと、か。
夜、眠れないくらい考えた、いろいろなこと。
それって、聞いたらすぐにわかってしまうことだったりするのだろうか。
「たとえば、この世界がどんな世界かわからなくて、困っていたりはしない?」
心の中を、見透かされたような気分だった。
「それは……はい。実は、夜、全然眠れなくて。この世界がどんな世界なんだろうとか、ぼくは死んじゃったのかなとか、そんなことを考えていました」
「そっか。知らないまま散歩に行くよりも、理解してから出かけたほうがいいだろう。少し、話をしてもいいかな?」
ウオくんを見る。と、ウオくんはにこりと笑って、こくりと頷いた。だからぼくも、少し緊張しながら、こくんと頷いた。
「この世界はね、いや、この場所はね、泡の楽園なんだよ」
「泡の、楽園? 天国とか、地獄とかじゃなくて?」
「そう、楽園。ここは、魚と人間が共存できる、素敵な場所なんだ。呼吸の仕方なんて関係なく一緒に暮らせる、泡に包まれた世界。死後の世界なんかじゃない。幸せな、楽園なんだよ」
ぼくは、どう反応したらいいのか分からなかった。
ウオくんは、そうだ、そうだ、とでも言いたげに、ぼくの周りをくるくる泳ぐ。
「でも、楽園と言っても、そのほかの世界と違って何もかもが楽しくて幸せな世界ってわけじゃないんだ。ひとりじゃない世界では、自分にとって良くないことは必ず起きる。みんな、違う心を持った生き物だからだ。自分にとって都合がいいことばかりを考えていたら、誰かにとっては不都合だったりする。たとえば、ここの一部の魚たちは、魚語が通じない人間は食べて良いと思っている。意思疎通ができない生き物は、食べ物だと思っている。だけどね、話が出来さえすれば、食べられることはない。そういう、理解力はちゃんと持っている。ほら、キミはまだ若いから、分からないかなぁ。いや、キミくらいなら、経験あるかなぁ。言っても分かってくれない人って、学校とかに居ない?」
「うーん」
ぼくは、そもそも意思を持っても、それを言えない。
だから、言っても分かってくれないかどうかが、分からない。
「まあ、はっきり言っちゃうとね、居るんだよ。言っても分かってくれないし、分かろうと理解しようともしてくれない人が。でも、この楽園にいる魚たちは、言えば分かってくれる。問題があるとしたら、ここの魚たちは記憶力がちょっと悪くてね。だから、会うたび『この人は食べちゃダメ』って伝えないといけないこと。そんなわけだから、出かけている間、ウオから離れてはいけないよ」
「はい」
ウオくんが、身体をぷう、と膨らませた。
たぶん、人間でいう〝えっへん〟のポーズだ。
ボクといっしょなら大丈夫、っていう、自信のあらわれなのだろう。
「ほらほら、パパ、話し過ぎよ。せっかくのお出かけの時間が短くなっちゃうじゃない」
「ああ、ごめんね。じゃあ、ふたりとも。気をつけて行ってらっしゃい」
「はーい!」
ウオくんが、元気いっぱいヒレを振る。ぼくは、ふたりに深々頭を下げて、ぽわんぽわんと歩き出した。
楽園は、ぼくの頭に今まで積み重ねてきた常識のような何かを破って、砕いて、壊した。
楽園の中心部には、魚や人魚や魚人が居た。
人間はあまりいないみたい。まあ、話が通じなければ食べられてしまうのだから、多くは隠れているか、食べられたか――そんなところなのだろう。
人魚は幼稚園の頃に絵本でよく見ていたから、ああ、本当に居るんだ、くらいの気持ちで見られた。でも、魚人はちょっと怖い。ゲームとか、アニメとかでそれが出てくることがあるから、まったくもって初めましてっていうわけではないのだけれど。
なんだか、奇妙だなって思ってしまう。
頭は魚なのに、お腹のあたりから下は人間で、普通にズボンやスカートをはいていたりする。魚人によっては、ほとんど魚で、まるで魚の着ぐるみを着ているみたいに、申し訳なさそうにちょこん、と手足が出ている人もいる。
「なんか用か」
「え、いや……なんでもないです」
鋭い目つきの魚人に冷たく声をかけられて、ぼくの身体はキュッと凍った。
「カイト。カイトが馴染んでいる世界がどうだか、ボクにはよく分からないけれど、ここでは彼の姿は普通で、何もおかしなことはないんだ。カイトからしたら珍しいかもしれないけれど、そんなにジロジロ見るのは良くないかも」
「そ、そうだよね」
「あんまり気になるんだったら、ちゃんと声をかけるといいよ。たいてい気さくだし、大丈夫。まぁ、時々気難しい性格のヤツもいるけど、話せば聞いてくれるし、答えてくれる。嘘じゃないよ? さっきのヤツがちょっとチクチクしたウニみたいな態度だったのは、なんで見られているのか分からないまま見られていて、怖かったからだと思う。ボクにもそういう経験あるよ。じっと見られて怖かった経験。その時はね、ちゃんと話をしたら、『ボクのウロコが綺麗だったから見惚れてた』って教えてくれたんだ。なるほど、って思って、そうしたら、怖さとかそういうチクチクがなくなったんだ。だからさ、こっちが心の内をさらけ出せば、相手が〝不思議〟を抱きにくいんじゃないかなって思う。実際にやるかやらないかはカイト次第だけど、もし気になることとかがあったら、ぜひ話しかけてみて」
ウオくんは、優しくそう言うと、すいすいと泳ぎ始めた。
ぼくは、心の中のモヤモヤを隠すように唾をごくんと飲みこむと、離れないようにずん、ずんと追いかけた。
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