第2話


 ぼくはまた、息の仕方を忘れた。

 こういうことは、時々ある。経験があるから、ぼくは、こういう時にどうしたらいいのか、知っている。

 まずはひとりになって、好きな動画の好きなシーンとか、面白い漫画の笑えるところとか、そういう楽しいことを思い浮かべる。

 それで、死んじゃいそうなくらい、肺が空気を入れ過ぎた風船みたいにパーン、って割れてしまうくらいに、大きく大きく息を吸う。

 それから、マヨネーズのビームを放つみたいに、少しずつ、だけどヒューッと勢いよく、吸い過ぎた空気を外へ出していく。

 すぅ……ふぅ……。

 何回か、そうして深呼吸をすると、ぼくは息の仕方を、思い出す。

 

 今日のそれの原因は、隣の席の子だったと思う。

 一時間目の途中、「筆箱忘れちゃったから、鉛筆貸して」って言われた。ぼくは「いいよ」って、一本貸した。

 それから、右利きの僕には使いにくい、いつもは置かない左側に、そっと消しゴムを置いた。筆箱がないんだから、消しゴムもないってことだ。だから、こうした方がいいかなって、思ったから。

 隣の席の子は、鉛筆の時は声をかけてくれたけれど、消しゴムは当たり前のように手を伸ばして、ゴシゴシ使っていた。それ自体は、ぼくがそうするように仕向けたようなところがあるから、文句を言うことじゃない、と思う。なにか声をかけられたいなら、意地悪だと思っても、いつも通り、右側に置いておけばよかったんだから。

 ちょっとモヤモヤしたけど、気にしないようにして、先生の話を聞いた。

 ノートにいろいろ書く時、今日はなんだか消しゴムを使いにくい気がした。位置だけじゃない。いまぼくが使ってもいいだろうかって、悩んでしまうからだ。

 黒板をよーく見て、間違えないように気をつけながら、丁寧に書いた。

 そのせいか分からないけれど、ぼくは珍しく、書き写しきれなかった。「先生、まだ書けてないです」って言えなくて、心がチクチクした。

 どうしよう。写せなかったところがテストに出たら、どうしよう。

 今日の午前中の授業はずっと教室だったし、ずっと黒板や教科書、ノートとにらめっこしていた。だから、消しゴムはずっと出しっぱなしだった。

 四時間目の授業が終わって、ぼくが筆箱に消しゴムを入れようとしたら、隣の席の子がまるで自分のものみたいに、鉛筆と消しゴムを道具箱に入れた。

 午後の授業になったらまた取り出すんだろうし、って、ぼくはのどのあたりまでやってきた文句を、ゴクン、ってのみこんだ。

 五時間目の授業が始まって、鉛筆と消しゴムが出てきたとき、なんだか少しホッとした。ああ、あった、ぼくの鉛筆と消しゴム――って思ったんだ。

 一日の授業が全部終わると、みんなで「やっと終わったね~」なんて言いあったり、うーん、って伸びをしたりしながら、帰りの準備を始めた。ロッカーからランドセルを取り出して、道具箱から持って帰るものを選ぶ。と、廊下から「カイト、カイト!」と呼ぶ声がして、ぼくは手を止めて、教室の外へ出た。

「どうしたの? タツキ」

「カイト、ごめん。こいつ、前回の委員会の時、インフルで休んでただろ? それで、委員会の話をしてくれって言われたんだけどさ。俺、委員会の時ほかのこと考えててさ、何も聞いてなかったんだよね。だから、お願い。こいつに委員会の話、してやってくれない? ってか、ついでに俺も聞きたい」

 帰りの会までは、少し時間がある。その時間で、簡単になら話せるだろう。

「いいよ」

 ぼくは正直、会話が苦手だ。特に、何かを伝えるのが苦手。

 苦手って言っても、メモに箇条書きにするみたいに話をすることはできる。こんなことを話していて、こんな議論になって、こんな結論になりました。っていう話なら、出来る。

 話をしているとき、部屋の中はこんな雰囲気になって、とか、そういうプラスアルファの情報をそぎ落とした、必要なことだけであれば、話せる。

「サンキュ。助かった。じゃ、後で」

「うん」

 その〝後で〟は、二十分後に迫っている。

 話が終わった頃にはもう、帰りの会が始まろうとしていた。帰りの準備は後回しにして、先生の話を聞いた。

「それではみなさん。それぞれの委員会活動、頑張ってください」と先生が言うと、気怠い「はーい」で教室が満ちた。

 起立、気を付け、礼。さようなら。

 挨拶が終わるとすぐ、みんなはそれぞれ、各委員会の集合場所へバタバタと散っていく。ぼくはランドセルに荷物を詰め終わっていないから、それから始めないといけない。

 教科書やノートを詰めて、じゃあ次は筆箱を、と、手を伸ばす。その時、ぼくは机の上にぽん、と置かれている、見覚えのない消しゴムに気づいた。それを摘まみ上げて見てみる。

 なぜだかそれには、ぼくの名前が書いてあった。

 ぼくは、瞬間、息の仕方を忘れた。

 ランドセルを机の上に置いたまま、トイレへ駆け込んだ。個室に入って、ふたを閉めたままの便器に腰を下ろした。

 何か、楽しいことを考えなくちゃ。何がいい、何がいい? ええと、そう。昨日見た、ゲーム実況動画のこと。それを思い出したら、楽しくなりそう。上手くいかない時にギャーと騒いで、上手くいったときにヨッシャーと喜んだ、あの感情表現豊かな人の声を、脳内に響かせる。

 大きく大きく息を吸う。トイレ特有の匂いを肺が拒否しても、構わず大きく息を吸う。ヒューッと少しずつ、けれど勢いよく吐き出していく。大きく大きく息を吸って、細く強く長く、吐き出していく。

 ようやく少し落ち着いて、トイレから出ると、もう委員会が始まる時間だった。急いで教室に戻って、あれこれランドセルに詰め込んで、クルッてするやつ――名前が分からない――をクルッってしないで、ランドセルのふたをパカパカさせながら急いだ。

「こら、廊下は歩きなさい!」

 すれ違いざま、教頭先生に怒られた。

「はい、すみません!」

 委員会の集合場所に着いた時には、「それでは今日は――」と先生が話し始めていて、

「おい、来るの遅いぞ!」

「はい、すみません!」

 また、息の仕方を忘れそうになった。ぼくは誰にも気づかれないように、ちいさくゆっくり、吸って、吐いた。



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