第9話 麗妃の笑顔

 空が深い茜色に染まる時刻になり、ロイに『運河が見たい』と言われたサフィルは、南のテラスへと案内した。

 正直、サフィルは運河の今を見たくなかった。運河は流れるもの。子供の頃から、あの場所に船が留まっているさまを見たことはほとんどない。


 だが。

 夕日を浴びて薔薇色に照り映える町並みの向こう、藍色を湛える雄大なキルスティン運河は、少し様相を変えていた。

 一艘の商船とそれを囲む双方の睨み合いの構図が、やわやわと解れていっている。


「……南の船が引き揚げて行く」

「うまくやれているね」

「あの二人が?」

「そのために来たんだよ。フランクのことは想定外の雑音ノイズだ」


 言われてみればそうだった。

 そちらの方が大事件すぎて忘れていた。


「交渉しに来たんだったな」

「海軍大将による脅迫と、それを受けての第二王子からの懐柔。両極端な双方向の外交圧力を交渉と言うなら、そうだろうね」


 鉄の手すりに身を預けて、ロイが緩く笑っている。

 二人の王族の役割は、サフィルの想像とは逆だった。


「あっさり退くとは思わなかった」

「潮目が変わったんだよ。フランクが捕まった今、強気でいるのは悪手だ。それに、向こうにとってもだいぶ美味しい話のはず」


 ロイは静かに微笑み、それ以上具体的なことを教えてくれない。

 つまり第二王子を介した、総帥閣下の策略なのだろう。


「お前の狙い通りか」

「僕は彼らと争うつもりがない。自分達で気付いて、武器を引っ込めてくれるよう願っていた。現状維持が最適だと分かってくれて、嬉しいよ」


 運河が解放されれば、格差が広がる。

 自由貿易が生み出す新たな苦しみに気付かせる気の長い戦略も、徐々に結実しつつあるようだ。

 それに、運河を山分けする約束だった『北の王族』の謀略が潰えた今となっては、もう南部諸国が手を組む理由もない。


「これから南同士の戦いが始まるのでは」

「大丈夫。また北部という共通の敵を恨むことで団結するよ」

「それではまたいずれ、何故侵攻を思いとどまったかを忘れて、再び仕掛けて来そうだ」

「そうならないように次の手を考えないとね」


 こういう風にふんわり誤魔化したことを言う時は、それ以上の内容を秘密にしたがっている。

 分かっているからサフィルはもう疑問符を重ねなかった。

 総帥閣下に任せておけば、大抵のことはうまくいく。ここはロイの従兄の言葉を信じよう。


 エルデグランツ城のバルコニーから見晴るかす水平線とは違う、人工的な運河。

 風が運ぶ潮と砂の香り。

 ロイは目を眇めて、楽しそうに、イゼルアを眺めている。


「王女の話は、それだったんだな」

「うん。それともうひとつ、母からこれを預かってきてくれた」


 ずっとポケットに手を入れて、気にしていたものを、ロイが指先につまんで引っ張り出す。

 華奢な、女性用の金の指輪だった。

 知っている。二人で初めてエルデの街を歩いた日、銀細工の耳飾りを買ってもらった時。代々、母から息子へ、息子から妻へ受け継がれる指輪があると聞いた。


 この婚姻が戦略であるうちは、ロイの母親は指輪を譲らなかった。

 それが今、手元に届けられたということは。


「君の指には小さいと思うけど、加工は禁止らしいから、このまま受け取ってくれないかな」

「……ロイ」

「ええと、何て言うか、さっきエマに『正式に申し込め』って言われたからって訳じゃないけど、確かに事後承諾だったし、君に何の断りもないままなのは良くないからね。ということで——サフィル」

「待ってくれ!」


 やや改まった様子で、指輪を手に、ロイが何を言おうとしているのか。

 理解したサフィルは咄嗟に、指でロイの唇を塞ぐ。


「ここは私の国だ。もし私の想像している通りの言葉なら、私からお前に、先に言わせてくれ」

「それはだめだよ。確かにイゼルアにおいては君が王で僕は王配だけどね、僕達の関係は君が僕の妃になることで始まったんだから」


 優しくサフィルの手を握って口から離しながら、ロイは、とても気恥ずかしいことを言った。

 己の立場を、王配、と。

 王に寄り添う伴侶と。


「では同時に言おう」

「同時に? それは興味深いね。じゃあ今から三つ数えるよ」


 サフィルは顎を引く。


「良い? 三、二、一、……僕と結婚してください」

「わ、私と結婚して欲しい」


 声はほぼ重なった。

 どちらが先でもない。同時に。それこそが二人にとって、最良のかたち。


 それが、どうしようもなく面白くて。

 堪えきれないくらい、おかしくて。

 とうとう二人は笑い出してしまった。手を取り合い、向かい合ったまま、声をあげて。


「ごめん。笑うところじゃないんだけど耐えられなかった」

「私もだよ。こんなに気持ち良く笑ったのはいつ以来だろう」

「君の笑った顔が好きだな。ずっと笑顔でいて欲しい」


 ロイはサフィルの左の手に接吻け、薬指に指輪を填めてくれた。案の定、関節を通らない。

 そのまま落とさないよう慎重に、サフィルは左手を胸に当て右手を重ねる。


「サフィル。僕は君に負けた。投降して、君のものになった。けどもし許してくれるならアルス=ザレラの総帥のままでいさせて欲しい」

「勿論だ。私もイゼルアの王。だがエルデ城主の妃という立場も気に入っている。どちらかを選ぶ必要はない。どちらも大切な、私達だよ」

「……そうだね。両方とも僕達だ。城主と妃であり、王と王配でもある」


 サフィルは服の内側に留めておいたピンを抜き、指輪を勲章のように胸に縫い止めた。

 銀細工のパウリナの針と浜白百合の台座で、金の環を留めるように。


 ロイは満足そうに微笑み、数歩後退って両腕を軽く広げた。


「踊っていただけますか。僕の大切な人」

「——喜んで。私の大切な君」


 鮮やかな夕焼けが次第に夜に飲まれていく。少しずつ、少しずつ、辺りが暗くなっていく。

 運河を見下ろすテラスには、ゆっくりとステップを踏む二人の姿しかない。

 初めて踊りを教えてあげた時より、ロイは少し上達していた。


「練習を続けていたようだな」

「こっそりね。一人で踊っているところを誰かに見られたら恥ずかしいから」

「誰が見ると言うんだ。お前の部屋には私しか入れないのに」

「君に見られるのが一番恥ずかしいよ」


 変わり者のエルデ城主は、他人に与える自分の印象に無頓着だとばかり思っていた。実は案外、見栄っ張りなのかも知れない。

 隠れて上達しておこうという頑張りが、いつの間にか巧くなったステップに伺える。

 優しくロイをリードしてやりながら、サフィルの貌は自然に微笑んでいた。


「これならもう、冬明けの舞踏会に出ても大丈夫そうだ」

「ええ? 無茶を言わないでくれないかな」

「残念だが、イゼルアの王族は全員参加しなければならないのだよ。姻戚であろうと」

「僕がそういうの苦手だって、知ってるよね?」

「しきたりだ。代わりに私は妃として、お前に従う。アルス=ザレラにもそういう席はあるのだろう?」

「うーん……。王祭というのがあるね。国王陛下の誕生日を大々的に祝うんだ。僕は参加したことないけど、でも、君が一緒に来てくれるんだったら一回くらい出ても良いかも」


 どちらからともなく自然に、足が止まった。

 すっかり陽の暮れた暗いテラスで、サフィルはロイを見上げる。


「お前は、運命があると思うか?」


 そしていつか訊きたいと思っていたことを、やっとの思いで口に出す。


「どうだろう。それって要するに、人生における大切な部分は既に決まっていて、変えられないって考え方だよね。それは面白くないな。自分で考えて、行動して、生きていきたいと思っている」

「そういう答えが返って来ると思っていた」

「でも思い返してみれば、僕の人生の重要な部分はほぼ僕自身が選んだ訳じゃない出来事で成り立っている。そこは予め決まっていたのかも知れないね」


 全ての悲しみは、君と出会い恋するためにあった。

 ロイの優しい指がするりとサフィルの頬を撫で、そう告げる。


「君は? 運命を信じてる?」

「信じていなかったよ」


 あの日。

 夏の始まりの日。

 夢に違いないと思った、あの光景。

 そしてあの、鮮烈な、出会い。


 いつの頃からかサフィルは確信していた。あの瞬間は間違いなく、定められた、運命だったと。






— 終章 了 —

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