第6話 平和のための使者

 低く響くホルンの音色が意識の外から聞こえてきて、サフィルは目を覚ました。

 そしてふと、懐かしさを覚える。

 そう言えば生まれた時からいつも聞こえていた。とても身近にあった音だ。


 昨夜は幾度も幾度も、体力の限界まで愛し合い、そのまま気を失うように眠ってしまった。その疲れが残ったままの体をベッドから引き剥がし、頭だけをもたげてみる。

 ここはイゼルアの王城の自室。窓の向こうに、既に朝が来ている。


 ロイも起きてしまったようだ。

 横でもぞもぞし始める。


「今の何……?」

「水門を開ける合図だ」

「そっかぁ……じゃあ従兄弟達が来たのかな……」


 掠れた声や、枕に押しつけた気怠げな頬、寝起きのくしゃくしゃの髪、サフィルが付けた引っ掻き傷が薄赤く浮かび上がったままの裸の肩が、どうしようもなく愛おしい。

 そのまままた眠りにつきそうな様子のロイを、俯せに転がって頬杖をついたまま眺める。

 見ているだけで幸せ、という不思議な感覚をじっくり噛みしめながら。


 鮮やかな赤毛を軽く撫でる。

 と、ロイは瞼を上げた。眉根を寄せて眼を眇め、何とかしてサフィルの顔を見ようと頑張っている。

 仕方がないので近付いてあげることにした。


「疲れているようだな」

「色々あったからね……。君は平気?」

「でもない。ただ常に強がるよう教育されているだけだ」

「ごめんね。酷くするつもりはなかったんだけど、抑えがきかなかった」

「構わないよ。私も求めていたことだ」


 ゆるりと抱き寄せられて、おはようの接吻けを交わす。

 昨夜の熱が引ききっていない体がまた、甘く疼き始める。

 二人が二人でいることに不満を述べているようだ。深く体を繋げ、身も心もひとつに融け合っている時こそ本来の姿なのだ、別々の存在でいるべきではない、と訴えかけてくる。


「途中で分からなくなった。体が気持ち良いのと、心が満たされているのは、別だと思うんだけど」

「私にはどちらも必要だよ」


 妃への配慮を忘れて思うまま激しく抱いてしまったことを、ロイは反省しているようだ。

 その見当違いな優しさに微苦笑が漏れる。

 むしろ、すごく良かった。あんなものを覚えたら、もう二度と離れられなくなる。


 肉体的な快楽を追求することを、否定するつもりはなかった。

 少なくともロイ以外には誰も、触れたいとも触れられたいとも思わない。心からの信頼と愛情があってこその行為だと思っている。

 はしたなくて、浅ましくて、昨夜の自分を思い出せば恥ずかしくなるけれど。それは全てたった一人の伴侶と決めた相手にのみ見せる姿だ。


「本当に興味深い。……君のことが好きでたまらないなんて。こんな風に思えるなんて」

「私もだよ。私が誰かに恋をする日が来るとは。昔の自分に教えてやっても、絶対に信じないだろう」


 ロイのくしゃくしゃの赤毛に指を通し、短く刈った後頭部を撫でる。それが本当に、特別に許された存在にしかできない行為であることを、サフィルは知っている。

 ロイに触れて良いのは、サフィルだけなのだ。


 軽く啄むようなキスを重ね、額をぶつけて笑い合う。


 平凡な日常を奪われたロイと、与えてもらえなかったサフィル。

 違う孤独を抱えた二人が出会い、茶番にすぎない結婚生活を経て、互いに互いを、己に欠けていた大切な存在だと認め合う。

 不思議なものだ。現実はロイが練る策略よりも複雑で、サフィルが読む物語よりも波乱に満ちている。


「朝が始まるみたいだね」

「そうだな」


 王城の使用人達が忙しく働いている気配が、扉の向こうに漂っている。


「それで、僕はどこに隠れていれば良いかな」


 使用人に支度されることを嫌がるロイがあまりにも真面目な顔で言うので、サフィルはうっかり、声を出して笑ってしまった。



 ***



「私が知っておくべきことはあるか?」


 港の埠頭に立って東の方を眺めながら、サフィルは斜め後ろで眩しそうにしている主君に問いかけた。

 目をしぱしぱさせながら、ロイは妃の問いかけにうーんと唸る。


「これから来る二人について? 自己紹介くらい自分でやるんじゃないかな」

「……それで良ければ良いんだが」

「君は第二王子より上だから多少失礼があっても平気だよ。強いて言うなら、海軍の大将、君とは逆に

「んっ?」


 それ以上、説明をしてくれなかった。

 かつて傷付けられた苦い記憶のせいか、ロイは祖国に繋がるものを毛嫌いしている。

 あまり口にしたくないのだろう。サフィルは掌を庇にして、視線をもう一度東の海に戻した。


 運河の東に大きな帆船が幾隻も、朝日を背にして停泊している。

 帆を畳んだ巨大戦艦の、真っ直ぐ天を指して聳える太い檣と横に渡した帆桁が、まるで巨人の影のようで興味深い。

 アルス=ザレラの軍艦は、運河の国で世界中の船を見てきたサフィルも知らない、興味深い姿をしていた。


「圧巻だな」

「はったりだよ」


 巨人の群れを、運河へ入れることはできなかった。ただでさえ現在、南北の緊張が高まっているのに。下手に南部を刺激するべきではない。

 ただ遠くにずらりと並ぶ姿を目にしただけでも、南部には分かるだろう。


 自分達が敵に回した存在が、どれほど大きいか。


 王の言葉を持たせて遣ったイゼルアの警備艇が、やがて戻って来た。

 アルス=ザレラ側の代表二人を乗せて。


「お前は今、どっちの立場だ? 彼らの総帥か? それとも私の主君か?」

「それはどちらもアルス=ザレラにおける僕の肩書きだ。できればイゼルア側でいたい。空いてる椅子ない? 王の補佐役」

「宰相には、いずれ正式に任命するよ。今は非常事態ゆえ臨時ということにしておこう」


 立派な軍服姿の二人が警備艇を降りて埠頭に降り立ち、おおらかな足取りでサフィルの方へ近付いて来た。ロイが緊張した様子で身を固くする。

 本当に親族が苦手なんだなとしみじみ思いつつ、サフィルは、王として二人に向き合う。


 一人は背が高くて恰幅も良い、存在そのものが迫力のある男性。誠実で実直そうな、穏やかな表情をしている。十歳ほど丁寧に歳を重ねたフランク、といった風貌だ。

 もう一人は女性。きちんと軍服を纏い、凛々しい貌をしていて、少し赤みの強い金褐色の髪は左の側頭部の高い位置で一つに束ねていた。


 サフィルは既知の情報を頭の中で繋ぎ合わせた。海軍の上層部に女性王族がいる。ロイをして『完璧に優秀』と言わしめるほどの人物。この人物が、ロイが駄目ならサフィルと結婚する予定だったという第四王女。


「初めまして国王陛下。アルス=ザレラの代表として参りました。ヴァルターと申します」

「ようこそイゼルアへ」


 完璧な所作で慇懃に自己紹介をされて、サフィルは照れ臭さを覚えた。

 歴代の王の名に恥じないよう気を引き締めて応じる。

 第二王子。ロイの従兄弟で、フランクの兄。


「それからこちらは妹の——」

「海軍大将エマ=ルイーズ。お目にかかることができて光栄です、陛下」


 溌剌とした声で、王女は名乗った。

 その名を聞いた瞬間、『逆に濁る』の意味を理解しサフィルは焦った。

 慣れない発音。その名を口にすればフランクに味わわされたものと同じ不快感を与えてしまうだろう。


「気にしなくても良いよサフィル。言えなくたって」

「こらロイ。相変わらず失礼な奴だなお前は。大体何だ、その格好は」

「は? 何、イゼルアのメイドに喧嘩売る気?」

「雑な髪型のことだ。何度言えば分かる」


 従姉と従弟が揉め始めた。

 海軍大将と、軍総帥にして港町の城主。海で繋がる二人は口調は強いが、意外と仲が良さそうに見える。ロイにとって彼女は数少ない、信頼できる人物。裏切られたり、傷付けられることを恐れずに本音でやりあえる。


「やれやれ、相変わらずだ。お許し下さい、——サフィル王」


 不意に流暢な発音で名を呼ばれ、サフィルは意識を王子に戻した。

 少し年長の王子は芝居がかった仕草で肩をすくめている。


「言えていますか?」

「ああ。完璧だ」

「良かった。ここへ来ることが決まった時に公爵夫人、つまりロイの母親に叩き込まれまして。私の新しい息子の名前を呼び間違ったら承知しない、ってね」


 新しい息子。

 その言葉がサフィルの胸を強く締め付けた。


 ——そう思っていただけるのは、何より光栄です。新しい母上。

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