第4話 二人にとって大切なもの
激動の一日が終わろうとしている。
まだ全てが解決した訳ではなかった。運河には相変わらず南部の船が居座って通航を妨げているし、サフィルは心の準備ができないまま王となってしまった。
ロイの妃になった時と同様、本人の与り知らないところで身分や立場が勝手に変えられる。サフィルはいつも、ただ翻弄されるだけ。
己の未来が見えず、新しい不安も増えた。が、少なくとも最優先すべき第六王子フランクの問題が片付いたことは大きい。
運河の街に冬の早い夕暮れが訪れる頃、王城は落ち着きを取り戻した。
今日はもう来客はなさそうだ。ロイは夕方にも従兄達が到着するだろうと予測していたが、外交を弁えているアルス=ザレラ人は日が暮れてからの訪問を不作法だと判断したらしい。
運河の手前の港に碇を降ろして朝を待つのだろう。
昨日の朝からずっと張り詰めっぱなしだったサフィルの心もようやく緩み、酷い疲れを自覚したため、少し休むことにした。
ロイを伴い、自室へ向かう。
「……変わってない」
久しぶりに足を踏み入れた王太子の部屋は、昔のままだった。
つまり、手が入れてあるということだ。
掃除が行き届いていたし、暖かそうな真冬用の寝具に換えてある。いつ部屋の主が戻ってきても良いように、完璧に整っていた。
「部屋を保ってくれていたのか」
「最初から君は戻って来る予定だったからね」
「いつになるか分からないのに」
「だからこそ、常に綺麗にしておきたかったんだと思うよ」
ロイはサフィルの部屋を興味深げに見渡している。
面白いものは置いていない。天井を飾るガラスの星のオーナメントや、世界の大きさを教えてくれる地球儀、沢山の物語を紡いでくれそうな模型といった、ロイの子供部屋を賑わせているような楽しいものが何も。
イゼルアの王統を継ぐ者の部屋だ。サフィルが個人的に好むものなど何もない。王太子に相応しい、贅沢で品の良い品ばかりだが、どれもこれも『自分のもの』という認識はなかった。
長く離れていたせいで余計によそよそしい。
「この部屋には、大切に維持すべき私自身など、何もない」
「じゃあこれから置いていけば良いんじゃないかな」
相変わらず、ロイは着眼点の面白いことを言う。
「僕の部屋みたいに玩具を集めろって意味じゃないよ。大切な宝物を少しずつ増やしていけば良いと思う」
「私にとって大切なものは、お前だけだ」
夕日が遂に沈み、残光が王の私室からゆっくりと消えていく。
次第に闇が忍び込み、視界を覆う。
ロイは黙って突っ立ったまま、サフィルを見ている。気まずい沈黙。
「……何とか言ったらどうなんだ」
「ああ、その、ごめん。気の利いた言葉が出て来なかった。こんなに嬉しいことを言われた経験がなくて」
ロイは困った時の癖で前髪をくしゃくしゃ混ぜている。
その仕草が、愛しくて仕方がない。
「ちょっと、想像してしまった。王となるべく自我を抑えて生きてきた君が、これから大切な思い出をひとつずつ、人生に添えていくんだとして。そのひとつひとつに僕が絡んでいる」
「間違いないだろうな。私の幸せな記憶にはきっとお前がいる」
「不思議だね。僕が誰かの幸せの一部になるなんて。自分の運命から逃げた僕が、誰かの運命に絡むなんて。そんなの絶対に無理だと思っていた」
サフィルは頭を左右に振った。
正しい選択だった。逃げるべきだったのだ。サフィルの推測通りなら、ロイの身に起きた『不幸な事故』は決して、馬鹿正直に向き合って良いものではない。
嫡流の王子はロイのことを『間引かれる対象』と言った。震えが来るほど恐ろしい表現だ。
どれだけの王族が『間引かれた』のかと思うと。まだ十歳だったロイが直面した大国の闇が、おぞましくて仕方がない。
しかも常に視力の後遺症という影が付きまとい、瞼を閉じれば悪夢のような記憶に苛まれる。一瞬たりとも、忘れることが許されない。
「私も、お前の幸せの一部になれるか?」
「一部どころか。ほとんど全部だ」
サフィルはロイの真正面に立ち、口元に笑みを浮かべた。
ロイはいつも通り少し眉を寄せてサフィルを見ている。
「お前は私に投降した。つまり、私はお前の所有権をアルス=ザレラに主張しても良いのだな?」
「まあ、陛下が認めて下さるんだったら、僕は喜んで君のものになるんだけどね。何ならエルデ城市ごとイゼルアの領土になってもいい」
「ではお前は私のものだ」
「……仰せのままに。イゼルア国王陛下」
ロイの言った『陛下』が彼の伯父、アルス=ザレラ国王を指していたことは分かっている。
分かった上で、敢えてふざけてみた。
生真面目な性格のサフィルが精一杯頑張った冗談に、ロイは微笑みとキスで応えてくれた。
最初は優しく。
次第に深く、熱く。
サフィルは両腕をロイの首に置いて後頭部の短い髪に指を通しながら。ロイはサフィルの腰を緩く抱き寄せて。
調度品ばかりやけに贅沢だが他人行儀で無愛想な雰囲気の自室に、互いの唇が立てる甘ったるい音だけが響く。
この想いは本物だった。
本当に——ロイが愛おしい。
片時も離れていたくない。ずっと傍にいて欲しい。
「ロイ」
「うん」
「お前が足りない、という意味が分かった。……たった一日しか離れていなかったのに」
「一日はすごく大きいと思うよ。僕なんかもう乾涸らびて、一歩も動けなかった」
うっかりサフィルは吹き出した。
ロイが動けなかったのは眼鏡を壊されたせいだ。
サフィルはただ、エルデの市民に託された思いを届けただけ。
予備の眼鏡を預かったのは、サフィルがロイの妃だから。市民の目から見ても少々頼りないところのある城主の傍らに常に寄り添い、支える役目を期待されていたからだ。
求められる仕事を果たし、本当の意味で妃になれた。
そう思うととても誇らしい。
「君が助けに来てくれると信じていた」
「城に閉じ込めて、置いて行ったくせにか?」
「あれは……まあ……仕方がなかった。この作戦が困難だった理由はそこだ。運河の防衛は君が
何らかの不利な要求を突き付けられた時、譲位を宣言すれば一時的に難を逃れ、時間を稼げる。
それが、アルス=ザレラ軍総帥がイゼルア王太子を国から離した理由。
しかし最終的に決断を下すのは王の仕事だ。
サフィルがロイを追い掛けるのに要した一昼夜という時間は、綿密に計算されたものだった。
地下の抜け道。城主と妃に好意的な船員達が操る、最も速い船。夜間に危険な海域を抜ける知識と、それを知らないフランクの油断さえをも織り込んで。
「全部、お前の掌の上だったんだな」
「うまくいく保証はなかったよ。でも君は来てくれた」
「私はお前の傍にいる。愛している、我が君」
「僕もだよ。我が妃。愛してる」
サフィルの腰に置かれたロイの手の重さが、体の芯にずんと響く。
軽く揉まれ、甘い期待にサフィルの背が僅かに震えた。濡れた吐息が思いがけず漏れる。
体が、ロイを求めていた。
あさましいと己を恥じつつ、それでも忘れられない。体を交える愉悦。
自分では触れることさえできない場所が、じくじくと熱を帯び始める。ロイを求めている。
触れて、と。この体を暴き、深く突き挿れて、少し乱暴なくらい激しく掻き回して、はしたなく募る熱を鎮めて、と。
「サフィル。そんな顔をされたら、いくら僕だって抑えがきかなくなるよ」
「抑える必要はない。私をお前で満たしてくれ」
優しい指がサフィルの唇をなぞる。
敏感になっている場所に触れられて、震えるような愉悦がサフィルの脳を焼いた。
もう理性はぐずぐずになっている。ただもう、ロイを求めている。愛おしさに焦げ付きそうな心を、体の充足でもって、解放してくれと願っている。
愛する男に抱かれる幸せを教えたのはロイだ。
少なくともサフィルは今、ロイに愛されるためだけの存在だった。イゼルア国王ではなく、ロイの妃サフィルだった。
「……煽ったのは、君だからね」
何の言質が必要だったのかは、サフィルは身をもって知ることになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます